徒波

麗多須

第1話

 今年の夏、私たちは電車に揺られていた。

「次は伊予上灘、伊予上灘です。」


 機械越しに聞こえてくる車内アナウンスは、この静寂の中でも少し聞き取りづらく、もどかしさを感じた。アナウンスが終わり、する事が無くなった私は、かわりに窓へと視線を向けた。しかし、見えるのはお約束といわんばかりに広がっている青海原だけ。型通りのパノラマに、私は少しだけ有難迷惑だと感じてしまった。

 ふと私は、20センチほど間を空けて座る兄を見てみた。兄は、なにもない所をじっと見つめ、ピクリとも動じない。

「折角の夏休みなんだから、もっと楽しまないと損・・・・・・。」

とは言えるはずもなく、私は乾いた喉に唾を送り込むだけで精一杯だった。額のしずくが頬をゆるゆると滑る。相変わらず、兄は目線を一点に集中させ、沈黙をきめんこんでいる。彼が何を考え、何を思っているのか、理解しようと試みるも歯痒い気持ちになるだけだった私は、仕方なく窓の外を眺めることに専念した。

「まもなく、伊予上灘、伊予上灘。お出口は、左側です。」


「次は下灘、下灘です。」

気がつけば伊予上灘を過ぎていたらしい。今しばらくこの退屈な旅が続くのかと思うと、憂鬱な気持ちになった。


「もう私に近寄らないで。」

なんだろう。喧嘩だろうか。私は声のする方に耳を傾けた。

「もう限界。一体いつまでこんな生活、続ければいいの。あなたを一目見るだけで、体の痣が痛むの。昔はあんなに優しかったのに、今はどうしてそんなふうになってしまったの。これ以上はもう耐えられない。お願いだから、今すぐ別れて。」

伊予上灘から乗ってきた中年の夫婦が、何やら揉めているようだ。

「お前のせいだからな。俺に逆らうのが悪い。大人しく俺の言うことを聞けばいいんだ。ほら、立てよ。」

顔を真っ赤にして怒鳴る男は、女の手を強引に掴み強い力で引っ張っている。掴まれているところが圧迫され、赤みを帯びていくのが見て取れる。相当強い力がかかっているはずだが、女の方も力の及ぶ限り抵抗している。そんな緊迫した状況の中で、向かいに座っていた女性は逃げるように車両を変え、ドア近くに縋っていた男性は頻りに目線をそらしている。乗客は皆共通して、彼らと関わることを避けていた。すると、今まで大人しく座っていたはずの兄がすっと立ち上がり、彼らの方へ歩み寄った。

「他のお客さんもいるんで、もう少し声を抑えていただけませんか。」

兄の声は頼りなく、お世辞にも威勢があるとは言えなかったが、伝える気さえないであろう車内アナウンスよりかははっきりと聞こえた。一言言い放った兄は、また私の隣に20センチほど間を空け腰を下ろした。私は呆然としていた。この電車に乗ってから初めて兄の声を聞いた気がした。幸い、夫婦はすぐに口をつぐんだ。彼らはきまりが悪そうに俯き、乗客は何事もなかったかのようにすました顔をしている。誰もが傍観に徹していた中、兄はどうして注意をしたのかなんていう疑問を抱いた時点で、私も他の乗客と変わらないのだと悟ってしまった。一種のやるせなさを感じた私は、瀬戸内の海に助けを求めるように外を見るのだった。


「まもなく、下灘、下灘。お出口は、左側です。」


「次は串、串です。」

 次の駅は串か・・・・・・。そういえば、さっきの夫婦、ひと駅で降りたっぽいな。


「続いてのニュースです。先日起きた松山市高三暴力事件について、学校側は――」

皆が皆沈黙を守り続ける車内。不意に誰かのスマホからニュースが流れ始めた。反射的に頭を上げた私は、音のする方へと視線を向けるとそこには、どっかりと座りイヤホンもつけずにニュースを見ている数人の学生がいた。当の本人達もわざとらしく周りを確認しては、大して焦る様子もなく流し続けている。まるで自分達は関係ないとでも言いたげな態度で延々と流し続けることに、私は苛立ちを覚えた。当然というには皮肉なほどに、乗客は俯き頑なに彼らを見ないようにしている。ふと、ある一人の女性客が私達に視線を送っていることに気づいた。いや、正確には兄を見ていた。彼女は一体、兄に何を求めているというのだ。その瞬間、ふつふつとこみ上げてくる怒りは軽蔑だけではもの足りず、成長していくのを感じた。私は咄嗟に兄を見てしまった。どうしても兄が心配だった。杞憂であってほしかった。恐る恐る振り向くとそこには、後悔とか、自己嫌悪とか、とにかく何もかもが入り混じったものをすべて背負うかのように、小さくなった惨めな兄の姿があった。見るに耐えなくなった私は外の景色に意識を向け、兄を視界に入れることを恐れてしまった。


 初めはついていこうなんて微塵も思わなかった。私もついていく――

そう思い立ったのはほんの数日前のことだった。

 家での私は、生き地獄の常夏を謳歌しようとするナマケモノだった。何度か起き上がっては、気怠さに苛まれる自分にすらも憂いを感じ、気づいた頃には緋色の空を仰いでいる。綺麗事でもなんでもない。高校生の夏休みなんてそんなもんだと言い聞かせては、自分を煽ってみたりもした。それでも動かない意思の弱さに、悔いるばかりだった。だからなのかもしれない。兄が父方の祖父母宅に居候をすると聞いたとき、私にとってはそれは、単なる口実のつもりだった。

「私もついていく――」

食卓につき黙々とそうめんをすする兄は、進む手を止め、顔を上げた。しかし、それ以上追求してくることはなく一言、

「わかった。」

そう言って、残りの麺を掻き込んだ。

「ご馳走様」

手元の麦茶を一気に飲み干した兄は椅子から立ち上がり、階段をゆっくりと上がっていった。兄の姿が見えなくなった途端、両親はこれでもかと私に質問攻めしてきたが、兄が許可したのだからいいじゃないかと言って黙らせた。とにかく兄が首を縦に振ったことだけでも大義名分は得られたというもの。人前で宣言できるほどの建前を持ち合わせていなかった私にとっては、意外にもすんなりと許可が下りたことに安堵せざるをえなかった。いや、ある種、信頼があったからこそ、安心しきってしまっていたのかもしれない。

 元々、兄との仲は良いほうだったと思う。小学校から帰ると、よく兄が私の遊び相手をしてくれていた。ひとつ上の兄は本当に優しかった。しかし、中学高校と学年を重ねるに連れ一緒に過ごす時間がなくなると、なんとなく気まづさが目立ち、距離ができていってしまった。そういった経緯は兄も薄々感じていたのだろう。私が同行すると聞いたときの兄は、意外とでも言いたげな、困惑の色を示していた。

「まもなく、串、串。お出口は、左側です。」


「次は喜多灘、喜多灘です。」

もう喜多灘か。案外あっという間だったな・・・・・・。

 昼頃に松山駅を出発し、電車に揺られることおよそ一時間。目的の駅まで後一駅というところ。車窓には、壁紙と化した瀬戸内海が坦々と波を打ち続けている。限りなく広がるその光景は、訳もなく私に落莫という試練を課しているように思えた。追いかけてくる陽光と容赦なく吹き付ける冷風が、脳を鈍くさせ、煽りたてるように私を襲う。視界から徐々に光が失われ、代わりに暗幕を張りだしていく。私はなにか得体の知れないものに侵されているのでは無いかと気が気ではなかった。


「まもなく、喜多灘、喜多灘。お出口は、左側です。」

かろうじて聞こえるアナウンス。

「一回降りよっか。」

兄がおもむろに口を開く。どうして。そう返事をしようとしたが、口をパクパクさせるだけで肝心の声が出ない。兄の意図を探ろうと、溶けた脳を一生懸命に動かした。しかし、いくら考えたところで今の私では分かるはずもなかった。

 兄に支えられるようにして降り立った喜多灘の駅に人の姿は無く、かわりに風情ありきと言わんばかりの世界が広がっていた。そんな中、もつれる足をしきりに動かし、なんとか駅のベンチにたどり着いた私は、今自分が座っているベンチの色すらも分からなくなっていることに気づいた。

「大丈夫か?ちょっと待ってろ。」

そう言うと兄は、どこかに走っていってしまった。一人残された私はその瞬間、今まで散々放置していた穴にとうとう落ちてしまったかのような絶望を感じ、不意に訪れた孤独感のそのどうしようもなさに泣きたくなった。

 数分後、何かペットボトルのようなものを握りしめて、兄は帰ってきた。

「それ、何?」

かろうじて声を発する。

「あぁ・・・・・・。そうか。ちょっとまってろ、今開けるから。」

そういうと兄は、飲み口のあたりに手をかけ何かを取り外し、それを飲み口の上部に押し当てた。カラン。何かが外れたか音がした。

「よかったら飲んで。」

受け取った私は、言われるがままにそれを一口含んだ。その瞬間、ひんやりと流れる甘味と舌を叩く炭酸の刺激とが口いっぱいに広がった。それがラムネだというのはすぐにわかった。それと同時に、今まで何もしてこなかった私の五感が感覚を取り戻していく。風景は色を灯し、脳が本来の働きを再開する。

「良くなったか。今日は日差しが強いからな。」

カラン。あの音だ。

「これ結構力いるんだよ。」

ニカッと笑った兄は、手に持ったもう一本の青いラムネを口元へと運ぶ。私も釣られて一口飲んだ。やっぱり甘い。そっか、ラムネだったんだ。不安定なビー玉は外からの衝撃によって耐えきれず落ちてしまう。しかし、それを決まって受け止めてくれるのはソーダなんだ。そしてソーダは、優しくも棘のある炭酸をぶつけるのだ。

「ありがと。」

兄は何も返してこない。

「やっぱり・・・・・・ごめん。」

兄との会話はそこで終わった。いや、会話だったのだろうか。でも今はそんなことはどうでも良かった。


 すっかり夏めいた陽光は、すり減った黒い大地を容赦なく攻め立て陽炎をつくりだし、天色の空は青々と澄み渡っている。だからこそ、自分には持っていないものを持つこの世界は、清々しいほどに眩しかった。


「次は伊予長浜、伊予長浜です。」

電車に乗り、座席に座る。すると、きまって兄はまた20センチほど間を空けて私の横に座った。


 今年の七月、ある高校で一つの事件が起きた。なんでも一人の生徒が一つ下の生徒を殴ったという。幸い、殴られた生徒は大事には至らなかったが、これにより殴った生徒は学校を辞めざるを得なくなってしまった。学校側は彼がどうして殴ったのか、真相を確かめるべく彼の元に訪れた。なにせ、その生徒は普段から真面目な性格で誰からも慕われるようなそんな人間だったのである。彼が本当にしたことなのか。彼はこう語っている。

「ついカッとなって・・・・・・。本当に、申し訳ないです・・・・・・。」

 後の報道で、彼の義理の妹が校内でいじめを受けていたことが分かった――








 


 














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徒波 麗多須 @lettuce8311

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