第9話
ユスティが辺境地を離れるまで、もう一週間を切った。
ハイルが目を覚ましてから、一週間経ったところだ。
王都まで帰るにあたって、ユスティとグスタフならば──いや、ハイルがいなければ、かもしれないが──最低限の日数で帰る事が出来るだろう。
ユスティはぎりぎりまでここにいるつもりでいた。
ハイルは部屋の中で生活をしている。
元々衰弱していた上に眠り続けていたという理由もあって、ハイルは動き回る事が出来ない。
体を支える事が出来る最低限の筋肉さえ、どれほど残っている事か。
今はベッドの上で上半身を起こし、治癒を受けている。
リハビリは必要だろうが、今はベッドの上で出来る範囲の事をするだけにとどまっていた。
しかし起きてからのハイルの回復は皆が驚くほどに早い。司祭に至っては奇跡だと神に感謝したほどの脅威の回復力だ。
ユスティは念願の起きているハイルとの対面を果たし、毎日ご機嫌で部屋に通っている。
最初はユスティにたじたじだったハイルも、やっと「ユスティさま」と言う様になった。
ユスティは「さま」が気に食わないのだが、マーサにマーサさまと言って彼女がなんとか頼み頼んでやめてもらった事を思うと、それはまだまだ先の話になりそうだなと諦めている。
ハイルにとって自分以外はどんな立場の人間であれ「さま」であった。誰もが自分よりも「高貴」であった。
そのハイルの価値観をなんとか折り曲げたのはマーサだ。
今までのは、とか、これからは、とか。そう言う事を言っても今はダメだろうと判断した彼女は、実に冷静に『ヴァールストレーム辺境伯爵』に仕える自分はあくまで使用人である事、その『ヴァールストレーム辺境伯爵』のためにも自分を使用人として扱ってくれないと困ると言い、なんとか折り曲げたのだ。これにも二日要したのだが……。
意識のない時からの刷り込みなのか、暖かい手を持つ優しいマーサに弱い状態のハイルは二日かけてなんとか納得し、『ヴァールストレーム辺境伯爵に仕える使用人としての立場』を考え呼び捨てにする事を“勇気を持って決意”した格好だった。
マーサから「さま」を取るだけでなんとも大仰な事である。
しかしそれがハイルであった。
「ふふふ……。ハイルの目はキラキラして綺麗だね。綺麗な夜空。うん、星が輝いてるみたいだ」
入り浸るユスティはハイルと目が合うたびにいう。
長めのまつ毛に彩られた濃紺の目は、たしかに普通と違う不思議な虹彩を認めたられた。しかしどうやらユスティが言うそれはたしかに星が輝いている様な、そんな輝きがあるといいたげである。
星が輝いているとはどう言う姿なのかと言うハイルに、心が締め付けられたユスティは泣きそうになるのを堪え、夜ハイルの部屋のカーテンを全て開け、空を見せた。
辺境地の夜空を彩る瞬く星。
空を指差し「あれが星が輝いている夜空だよ」と言って教えた。これを教えなければいけない現実に、ユスティはこれだけで泣きそうになる自分には報告書を読む権利はないなと理解もした。
自分との会話も時々成り立たず、絵本や外の景色を指差し説明する。
一週間でハイルとの会話も増えた。
ユスティはハイルをこんなふうにした人間に怒りを覚えるが、それとは別にやっと目を開けたハイルと会話をしている事が幸せでたまらなかった。
その頃王都では、『呪われたエングブロム公爵家の愛されている子供』が突然死んだと駆け巡っていた。
原因は公表されていないが、呪いではなく寿命であったと公爵家から伝え聞いたと嘘か誠か分からない噂も共に流れている。
それを聞いたヘレナはお気に入りの扇子を折りそうになって深呼吸を何度もしたほどだ。
エングブロム公爵家の長女が第二王子との婚約発表直後であり、嘆き悲しむ長女を第二王子が慰めているという美談もついでに流れていた。
ヴェヒテはあの日、ハイルを捨てた理由がここにもあるのだと理解し──どうしてそれまで生かしていたハイルを今になって捨てたのか、きっと他にもあるだろうと彼は考えていた──それに王家が一枚噛んでいるのかと想像すると吐き気がしそうだった。
あの国王ならやりかねないだろうと思えるのが悲しい。あの男はそういうところがあるのだと嫌でも分かっている。
裏門を開けてすぐに捨てたという稚拙な処分方法については、執事の独断だと調べて分かったところでもある。
本当は森の中に放置する予定だったようだが、そこまで連れて行き呪われたらと恐怖したあの執事が、あろう事か裏とはいえ屋敷の前に捨てた。
浮浪者を捨てたとか、色々と言い訳は出来ただろうがエングブロム公爵家には『呪われたエングブロム公爵家の愛されている子供』がいる。何がどう転んで、事実が噂になって四方八方へ飛んでいくかなんて分からないのが、貴族の世界だ。
執事は呪いではなく、その行いで殺されている。
「うちが犯人です」と言わんばかりの事をしたと知った公爵と家令が慌てて外に確認に出れば、いつ死んでもおかしくないそこにいるはずのハイルは忽然と姿を消している。
殺して呪われるのは嫌で、森に放置し衰弱死を狙うと言うなんとも“呪われそう”な事を計画したくせに、外に放置したなどとエングブロム公爵家はどれだけ驚いただろうか。
想像すると人の悪い笑みも浮かびそうだが、ヴェヒテがそんな顔をすれば本当に悪人面であるからなんとか表情には出さずにいる。
ともかく悲しみに暮れているエングブロム公爵家は、暫く社交を全面的にやめ、喪に服すと言う。
長女は婚約を続ける気持ちが湧かないと弟の突然の死を嘆いているそうだが、第二王子が懸命に宥め愛を伝えているとこれまた“美談”が広がる。
そんな綺麗な噂話を尻目に、ヴァールストレーム辺境伯爵夫妻も王都を後にした。
社交シーズンはまだ残っているが、流行り風邪の息子と、領地を任せた長男、など帰る言い訳事欠かないし、いざとなれば捏ち上げたって良い。
第一、国王がヴェヒテが長く王都にとどまっている事を望んでいないから、問題なんて何もない。
あっさりとヴァールストレーム辺境伯爵夫妻は辺境地へ帰っていった。
同時に、次男ユスティの休学届けがひっそりと学園に提出されている。
風邪がいまだに良くならないため、きっちりと回復してからと理由を添えて。
今年の流行り風邪はいまだに猛威を奮っており同じ様な生徒も幾人かいた事から学園はそれを義務的に了承し、この程度の勉強が出来ていればそのまま復学出来ますよとの案内とそれに見合う課題を後日タウンハウスへと送っていた。
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