第3話

ヴェヒテが一つ目の報告書を受け取ってから、二つ目の報告書を受け取るまでにかかった時間は三週間。

「予定よりも時間がかかってしまいました」と部下が非常に申し訳ない様な悔しい様な顔をしていたが、それだけ公爵家のガードが固かったのだと想像が出来るし、そんな中やり遂げてくれた事に感謝をしても不服に思う事は決してない。

しかしその詫びの様に膨大になった報告書。その厚みに流石にヴェヒテの口元も引き攣る。

そしてその分厚い報告書を読んでいくにつれ、ヴェヒテの顔から表情が消えていった。



彼ヴェヒテは武人として名を馳せているが、精霊魔法や自身の魔力を用いて戦う事も得意としている。

ヴァールストレーム辺境伯爵家に養子になると。そのため彼は領地を、引いては国を守るために強さを手に入れようと血の滲むような努力をしたからこそ、それが叶ったのだ。

その努力を重ね手に入れた彼の魔力が今、暴走しかけている。

バリン、と室内にあった花瓶が割れた事で我にかえり気持ちを沈めていると、執務室の扉が壊れるのではないかと言う勢いで開き、慌てた様子の妻ヘレンとグスタフ、そしてニコライが入ってきた。

「旦那様!一体何が!?」

一番最初に声を発したのはグスタフ。執事服の中に忍ばせてある小刀を取り出そうとしている。

それをニコライが止め、ヘレンが改めて「ヴィヒテ様?何が?」と聞けばヴェヒテが全員を応接室へと連れて行った。

そこは一番大切な人を迎えたり重要な取引をする時に使用する応接室で、中から操作をすれば音も漏れない。

その操作を終えたヴェヒテは全員に着席を促し、全員が座ったのを見て「気分が悪くなるだろうが、私が今理性を失いかけたのはこの報告書のせいだ」と前置きしてから、まずはヘレナに視線をやる。

「ティナには、いや、母でもあるティナには、きっと耐えられない様な事が書いてある。後で概要を教えるだけにしてもいい。どうしたい?」

と聞いた。ヘレナはただ真っ直ぐヴェヒテを見て頷く。自分で報告書を見ると言う意思表示だった。

「これだけのがある報告書だからな……実は俺もまだ途中なんだ。全て確認し終えて飲み込んでから、ティナ、それにグスタフとニコライに読んでもらい相談するつもりでいた」

「マーサは?」

ニコライの言葉にヴェヒテは小さく首を横に降って

「彼女は随分彼を大切にしている様だ。きっと弟の事を思い出して、慈しんでいるのだろう。そのマーサには読ませられない」

ヴェヒテの言葉に今度はグスタフが手をあげ

「ですが旦那様。マーサは知りたいと思うのでは……いいえ、彼女ならそれを望むはずです。それに知るべきなのではないでしょうか?」

聞けばヴェヒテは少し考えて

「全員でこれを読んでから、考えよう。今の段階で、俺は、マーサには大体の事だけ伝えた方が良いのではないかと、そう感じている」

言って、読んだ部分をまずヘレナに渡した。

彼女は読み終わったものをニコライへ、ニコライからグスタフへ。

その順番でどんどんと報告書に目を通していく。

途中休憩を挟む事はもちろん、昼食を食べる時間も惜しんで読み進め、最後の一枚をグスタフが読み終わった頃には太陽が空を茜色に変えていた。


誰も何も言えずじっとしている。

指の一つも動かせない。

体力を根こそぎ奪われた様な疲労感があった。

ヴェヒテがヘレナを気遣い、彼女を見ればその視線を受けヘレナは顔を上げた。

二人の視線があった時、ヘレンはずっと耐えていた涙をこぼす。

華奢な手で口を抑え「ごめんなさい、泣いたりして」と謝るが咎めるつもりもないし、咎める事も出来ない。

ヴェヒテもグスタフもニコライも、そのくらいの気持ちでいるからだ。

彼らはヘレンとは違い、叫びたいのだけれど。気持ちは痛いほど分かった。

彼らは叫ぶのを理性でとどめているだけで、のであればヘレナの様に感情を顕にしたかった。

先を見越していたからヴェヒテの腕には今、万が一の事を考えて魔力が暴走しないようにそれを抑える腕輪がついている。

先の様に暴走しない様にと。これがなければ最後まで“無事”に読めたかどうかも判らない。

それだけ酷い報告書であった。


「今日はここまでにしよう。明日、彼をどうするか、どうするべきか、話し合いたい」


ヴェヒテの“お開き”の言葉に真っ先に反応したのは目をほんのり赤くしたヘレンであった。

「ヴェヒテ様は、あの子を捨て置くおつもりですか?」

驚いた様子のヴェヒテにヘレナは続ける。

「わたくし、あの子をヴァールストレーム辺境伯爵家で保護すべきと考えております。放り出したりなんていたしません。第一、呪われてなんていませんでしょう!?もし、万が一精霊に呪われ、悪魔の子であると言うのなら、あんな扱いをされた時点でエングブロム公爵家もひいてはこの国の人間全て、呪われても、いいえ悍ましい世界になっていてもおかしくはありません!どんな確証があって呪いなどと!!ただ加護を得られなかっただけで……それだけで幼い時からあんな……あんなッ」

感情が昂って早口に捲し立てていたヘレナはそこまで言って、両手で顔を覆って泣いてしまった。

愛情深い彼女には耐えられない報告書だったのだ。

それでも読んだのは彼女の覚悟と、『ヴァールストレーム辺境伯爵夫人』という辺境地を守る妻のプライドの様なものだろう。

そのヘレナをそっと支えたヴェヒテはヘレナに言い聞かせる様に、ニコライとグスタフに言った。

「彼を捨て置くつもりはない。ただこれを読んで感じた事、見解、どこで保護すべきか。それらを話し合おう。明日」

ヘレナの体から力抜けた。死にそうな少年を、ユスティと同じ歳の少年を放り出さなくていいと言う言葉に安堵した。

「奥様、今日はお体に入れやすいものを夕食に準備させましょう」

「ええ、ありがとう。でもわたくし、今日はゆっくり考えたいから、部屋に届けてもらえるかしら?もう一度読んで、考えたいの」

「奥様!」

思わず声を荒げたのはグスタフ。こんな精神状態でもう一度読むなんてと、その声と表情がヘレナを咎めていた。

ヘレナはヴェヒテに支えられながら立ち上がると、誰にも取られまいと報告書を抱きしめて

「わたくし、ゆっくり考えたいのです。彼のために」

有無を言わさないその目に、執事二人は押し黙り、ヴェヒテにエスコートされ出ていくヘレナを見送る。

部屋を出る直前に「ありがとう。二人とも」と柔らかい声がして、二人はゆっくり頭を下げた。


「奥様は言ったら聞きませんからな」

「愛情深いからこそ、彼の人生のために最善を尽くしたいと思われるのでしょう」


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