はな さないで

透々実生

はな さないで

 小学生の頃、私の楽しみは、妹の寝言を聞くことだった。


 仲良し姉妹である私たちは、家の中の部屋数が少ないことも相まってか、一緒の部屋で暮らしていた。一緒の部屋で勉強し、一緒の部屋で談笑し、そして一緒の部屋でベッドで寝た。子供ながら、部屋を2つに分けたら自分の部屋ができるのに、と思ったことはあるが、妹とは仲が良かったし、何より妹と暮らすのは楽しかったので、別に親に不平を言ったりはしなかった。

 一緒の部屋で過ごす妹は、夜毎に寝言を口走る。私はこれを聞くのが、そして聞きながら「どんな夢を見てるんだろう」と想像するのが、とても好きだった。

 妹の寝言には、「……んへ、おなかいっぱい……」というベタなものから、「んぅ……こっち……トイレのマークから、逃げなきゃ……」という、どういう状況やねんと突っ込みたくなるものまで、バリエーション豊か。たまに、怖いゴリ先生が出てくるのか「……せんせ、ゆるしてぇ」とか、好きな人の名前を口走ることもある(妹の名誉のためにも、寝言で言っていたことは誰にも漏らしていない)。

 趣味が悪いな、と思いつつ、妹の寝言を勝手に聞きながらは想像し、頭を使う内に眠ってしまって、気付けば朝になっている――というのを、習慣としてずっと続けていた。


 その寝言が、ある時から、ただ一言しか発されなくなった。


「……はな…さないで……」


 はなさないで。

 漢字に変換すれば、離さないで、話さないで、放さないで……色々ありはするけど、妹はこの言葉しか呟いてくれないので、どんな夢を見ているのか全く分からない。

 離さないで、だとすると、お化け屋敷に迷い込んで手を離さないで、とかだろうか。お化け屋敷には誰と行ってるんだろう。学校で仲が良いレナちゃんか、妹が寝言で口走った好きな人か。私だったりして――私もお化け屋敷苦手だから勘弁して欲しいなあ、と思う。

 話さないで、なら何か秘密でも握られちゃったのかな。もしかして、私に恋人が誰かがバレて、懇願でもしていたりなんかして。大丈夫、絶対言わないから。妹のこと、大切だもの。

 放さないで、だと……うーん、なんだろ。凶暴犬のリードを握っている人に、リードを放さないで……いや、これは「離さないで」か。放す、だとすると……レーザービームとか? これこそどんな状況なんだ。

 そんなことをつらつらと考えたのだけど、遂に答えが出ることはなく、その日はそのまま寝た。

 そして。

 次の日も。

 次の日も。

 そのまた次の日も。

 次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。

 ……同じ寝言は、2週間も続いていた。流石にそこまで続くと段々ノイローゼになってきて、その内、想像することをやめて眠りにつくことが増えた。


***


 流石に限界だ、と思ったのは1ヶ月経ってからだ。

 2週間どころか1ヶ月間、例の「はなさないで」の寝言が続いた。それも毎晩。同じ部屋で寝ている人から毎日毎日同じ言葉を聞かされたら、誰だっておかしくなるだろう。当時の私は、まさしくそうなっていた。

 勿論、妹が起きてから、「なんか夢見た?」とさりげなく聞いてみたことがある。妹は、うーんと少し考えてから「みてない」と答えた。夢の内容は覚えてない、なんてことは往々にしてあるけど、起きたすぐに覚えてないどころか、と断言することがあるだろうか?

 結局、その後も妹は同じ寝言を続けた。まさか妹に文句を言う訳にはいかない(し、見てない、と妹に自覚がないのに責める訳にもいかない)。だからと言ってこれ以上我慢もできなかった。

 ということで私はある日、妹が同じ寝言を言ったら、思い切ってことにした。噂好きな子供の性分か、「寝言に対して答えると、寝言を言った人が死ぬ」とか「幽霊に呪われる」とか、怖い噂を聞いたことはあったが、噂は噂だ、と割り切った。

 むしろ、噂だと――現実に起こるはずなどないと、思い込むことにした。

 そういうことにして寝言の謎を解かないと、私のストレスがいい加減爆発しそうだったのだ。


 いつも通りの日常を過ごし、いつも通り夜妹と隣同士で寝る。「おやすみ」と言って電気を消し、少しして妹は寝息を立てた。

 カチ、カチ、と壁掛け時計の音が鼓膜を削るように鳴り響く。ぱち、ぱちという家鳴りが、いつも以上に気になるのは、神経が尖っているからだろうか。

 …………それから、どれだけ時間が経ったか分からないが、暫くして。


「…………ん、ぅ……はな…さないで……」


 来た。

 私は、待ってましたとばかりに、妹に向かって囁き声を絞り出した。

「……ねえ、それ、どういうこと?」

 尋ねた。

 妹の口から、寝言が出る。

「……はな…さないで………」

 私は溜息を吐く。だからそれは何なんだ。

 苛立った私は、その感情を隠さぬまま妹に再度尋ねる。

「ねえ。はなさないで、って、どういうことなのよっ」

 こんな語気を強めた言葉を妹に発したのは、これが初めてだった。

 その苛立ちを感じ取ったかの様に、妹の反応が変わる。

「……うぅ、ん」

 妹は唸る様に言いながら、首を横に振った。

 そして。


「……はなさないで……」


 ひゅっ、と私の喉が鳴った。

 はなこ。

 ……花子?

 それ、……。

 しかも、


 ねえ。

 今、どんな夢見てるの?

 いや、……

 この1ヶ月、同じ寝言を言い続けて、何を伝えようとしてるの?


 妹はその後も、「はな…さないで……」と寝言を言い続けた。私は怖くなって布団を頭まで被り、「早く眠くなれ」と願いながら夜を過ごした。


 翌日の学校は、眠気が凄くて散々だった。


***


 その翌日から、妹は例の寝言を一切言わなくなり、いつも通りの平和な寝言に戻った。でも、私はもう妹の寝言が怖くなってしまい、聞くことも想像することもやめてしまった。かと言って、妹には何の罪もない訳だから部屋を分けてとも言えず、妹が小学校を卒業してより大きな家に引っ越すまで、同じベッドで寝続けた。


 あれが何だったのか、今も私には分からない。

 分からないものは、考えても仕方ない。だから年月が経つ内、"そんなこと"は忘れてしまった。


***


 なのに。

 "そんなこと"を思い出したのは、数年前に母親から、妹が失踪したという連絡を受けたからだ。

 あの可愛い妹が。

 社会人になって独り立ちした妹が。

 私は気が動転して混乱してしまったが、同時にこの寝言のことを思い出した。


 はなこを、ころさないで。


 もしかして、はなこはもう――。


 そんな嫌な想像が頭を駆け巡りながら、私は今も、失踪したままの妹のことを探し続けている。

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