第3話 奔走する侍女
結んで束ねた栗毛の髪を左右に振りまわしながら、スピカと呼ばれた若い女性は、深々と頭を下げた。
「姫様の侍女、スピカ・ジオドレッドです。陛下」
門番が帰ってくるのではないかと、気が気でない様子だ。
しかしマトビアは悠々とスピカの横に立って紹介する。
「私の身の回りの世話をずっとしていてくれていました。私がお兄様の脱獄を手伝うこと、そしてベギラスを離れる決意を打ち明けたところ、スピカも同意してくれて……」
「なるほど、スピカは城の外で馬車を準備して待っていてくれたということか」
一つ間をおいてスピカが顔を上げた。
「はい。予定していた時刻よりあまりに遅いので気になって来てみました」
使用人にしては思い切りがよくて、気が利くようだ。それもそうだろう。マトビアの侍女となれば、城の使用人のトップクラスの権限が与えられる。おそらく皇帝、皇后の使用人の次ぐらいか。特にマトビアは皇女という国の顔でもあるから、若さと美しさもあるスピカという女性が選ばれたに違いない。
「助かりました。スピカは本当に気が利くのよね」
女性には女性にしか分からない悩み事があるだろうし、魔法で解決できない問題もでてくるだろう。
「それもこれも、マトビアの体力がなさすぎて、脱獄に時間がかかり過ぎたのが原因だがな」
チクリと刺してやると、はて、といった惚けた顔で馬車のほうを振り返った。
「一等車両のキャビンを手配してくれましたね。さすがです」
「はい。姫様の一番好まれていたお召し物は、鞄に入れて積んであります」
「ご苦労様です」
「ところで、差し出がましいですが……早めにお乗りください」
いつ追手がくるか分からないなかで、長々とおしゃべりする気にはなれないようだ。スピカはドアを開けて俺とマトビアを乗るように促した。
客車の中は寝れそうなほどのフカフカしたソファが二つ備え付けられている。ベギラスの皇族用一等キャビンだ。横には鞄が積み上げられていた。
スピカはドアを閉めて、手早く御者台に乗ると、手綱を手にしてキャビンの小窓を開いた。
「とりあえず、町の外に向かって出発します」
「お兄様、どこへ向かうのがよろしいでしょうか」
合図を待っているスピカは、そわそわしてマトビアを何度も振り返った。
「うーん。どうするかな……」
国境を越えないといけないが、ベギラスの領土は広い。馬車で移動し続ければ、やがて追い付かれるだろう。
「と、とりあえず、発車しま~す!」
我慢の限界とばかりに、馬にピシッと鞭を入れて、馬車は動き出した。
「お兄様、向かうならフォーロンが良いのではないでしょうか」
「母の故郷だな」
それは俺も思いついた。
母上の故郷で、帝国の属国となっているが、母が鬼籍になってから、関係が悪くなっている点が都合いい。帝都も別に大きなメリットもないフォーロンを重要視しておらず、税金さえとれれば放置で問題ないと考えているようだった。
「ただ……フォーロンは田舎だぞ」
昔、母と帰郷したことがあったが、町中を家畜が歩いていたことを覚えている。
「いいじゃないですか。私は田舎に行ったことがありません」
自由に城の外に出れないマトビアにとっては、珍しいモノばかりかもしれない。
「とはいえ、何といってもフォーロンは遠い……」
「でも逆に言えば、それだけ帝都の影響力が小さいということでしょう」
「たしかにな。では目的地はフォーロンとしよう」
にっこりとマトビアは微笑み、胸に手を当てて気持ちを抑えた。
「ああ、フォーロンとはどんなところでしょう! 楽しみですわ!」
「だいぶん昔に、母上に連れて行ってもらったのだが……」
「あ、あのぅ……」
御者台の小窓が少し開くと、申し訳なさそうなスピカと目が合った。
「会話の途中に割り込んで大変申し訳ございません。北の方角に向かうということでよろしいでしょうか」
馬を走らせながら俺たちの会話に耳を傾けていたのだろう。
「フォーロンはここからずっと北にあるが、まずは南の街道を走ってくれないか」
「南でよろしいのですね?」
「南にある軍事施設に用がある」
「ぐ、軍事施設?! なぜ、追われる身の私たちが……はっ! すみません! 陛下に口ごたえしてしまい……」
まあ普通考えたら反対するだろうな。
「軍事施設に船がある。それは俺が設計した船で、馬車で逃げるよりずっと逃亡しやすい」
「なるほど……」
「あと、もう俺は陛下じゃない。国内では逃亡者なのだから、命令に従う必要はない。マトビアの命令もあるのだろうが、軍事施設前のゲートタウンまで送ってくれれば、あとはどうにかする」
まだスピカの顔は割れていないだろう。今城に戻れば、同じように仕事が続けられるはずだ。
「いえ、私は従っているのではなく、自分の意志でマトビア様と共に旅をしたいのです。陛下。……じゃなかった、フェア様」
控えめな笑顔になると、マトビアも小さく頷く。どうやら俺の知らない強い主従関係があるようだ。
街道を走り続けた馬車は一度も停まることなく、明け方にゲートタウンに着いた。
ゲートタウンは、近くに点在する軍事施設の従業員や兵士とその家族が暮らしている。ゆえにひょんなことで、俺の顔を知っている兵士に出会うこともありえる。ベギラス帝国の顔であるマトビアも、知っている者がいるかもしれない。
「ここまで馬を走らせておいて申し訳ないが」
「大丈夫です。すぐに宿を準備します」
「ごめんなさいね、スピカ」
町の片隅に馬車を停めて、スピカは颯爽と御者台から降りた。
「マトビアは大丈夫か? あんなに走って、ひと眠りもしていないが」
というよりも、こんな狭い場所で寝れないだろうが。
「私は全然平気です。お兄様こそ大丈夫ですか、魔力を随分と使ってしまったのでは」
まあ、食べて寝れば回復するので問題はないが。
「あんなの、大したことはない。だが、いつも俺が傍にいるとは限らないだろうし、これから先何があるか分からない。もう少し、体を鍛えたらどうだ」
「ええ、ええ。そのつもりです。私も体を鍛えることが嫌いではないんです。母上の方針で体を鍛えるのは男子の役目と、きつく教わったものですから……」
義母のキョウリは俺の母の真反対をいく人だ。かなり内向的な性格で、マトビアやアルフォスを遠ざけただけでなく、皇后としても民の前に姿を現さないので、皇室と民との距離は開いていた。
多少俺の研究が、民の皇室への忠誠心に良い効果を与えていたとは思うが、皇室の印象は強権的になった。
義母ということで、少し批判的になってしまう。マトビアとアルフォスにとっては、大切な実母なのだから、そこに踏み込むのは難しい。
会話しながらしばらく待っていると、走ってきたスピカがドアをノックした。
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