第2話 自由を夢見る皇女

 嘘のように東の牢獄へ兵士が吸い寄せられていくなか、騒動に紛れて、詰め所から黒の外套を盗んだ。


「東の牢獄に何か仕込んでおいたのか?」

「いえいえ、牢獄の仕組みは詳しくは分かりませんので。はあ……」


 衛兵に気を付けながら、収容所から北門に繋がる中庭に向かう。


「急がないと。いずれ俺がいないことに気付く。そうなる前に、帝都からなるべく離れていたい」

「そ、そうですね……」


 マトビアが喉につっかえたような声を出した。額に汗がにじみ、少し息が荒い気がする。

 何か変だ。


「ん、なにか気後れしてるのか? どうしたんだ?」

「いえ、なにも……」


 一歩遅れて駆け寄るマトビアに、牢の前で俺を説きふせたときの勢いはない。

 もしかすると、いざ脱走してみて怖気づいたのかもしれない。


 それはそれで好都合。


 マトビア皇女はテラスで紅茶でも飲んでいてほしいものだ。


「さあ! 急ぐんだ、中庭を抜けて北の城門から逃げよう」

「はぁ、はぁ……そうですね、急がないと」


 中庭を走ると、びっくりするぐらい足の遅いマトビアが、息を切らして付いてくる。


 本当にびっくりするぐらいに遅く。


「おいおい、歩いたほうが早いんじゃないか?」

「そんなこと……はぁ、はぁ、ないです……」


 別にドレスで走っている訳でもない。脱出を見越して、膝が隠れるぐらいのスカートにシルクのシャツと、それなりに動きやすい服装ではあるし……。

 そういえば……子供の頃からマトビアは体力がなかったな。


 華奢な体つきから想像できるように、体を鍛えていないであろうマトビアは、肩を上げ下げして息も絶え絶えだ。


「お、お兄様……はあ……はあ……な……何か、走るのが楽になる魔法、は……ないの……ですか……?」


 魔法……か。

 人体に魔法を使ったことなんて滅多になかったので、言われてみてから気づいた。


 軍では当たり前に使用される肉体強化魔法だが、俺の場合は、ほとんどが木材や金属にかけていた。研究のすべては、何かしらの装置を作り、人の生活をよりよくしていくことにあったからだ。


 できなくもないが……。


「……ない」

「そ、そんな……」


 ここはあえて拒否しておこう。

 正直なところ、城の中庭も全力で走りきれないようなら、この先帝国の追手から逃れられんだろう。愛の鞭だ。


「さあ、行くぞ! ホントに置いていくからな!」


 青白い顔を上げてマトビアは、うん、と頷く。


 俺たちは中庭をぐるっと囲む廊下を無視して、北門への直線ルートを走った。

 芝生から中央の噴水を過ぎたとき、後ろでドテッと鈍い音がした。


 振り返れば、つまづいたマトビアが芝生に突っ伏している。顔面を芝生に埋めて、まるで釜に入れて焼く前のパン生地みたいになっている。


「マ、マトビアーー!」


 凄惨な光景に思わず声を張り上げて、駆け寄った。


「お、にい、さま……」

「マトビア! しっかりしろ!」


 仰向けにすると、鼻や額に細かい葉っぱがついている。祝宴や儀式では、曇りひとつない、常に美しく輝くベギラス帝国の顔だというのに。

 ただ、見ていると内心、薬草パンみたいで可愛いなとも思えた。


「わたくし、お兄様と、一緒に、これから先も、逃げたかった……」

「……マトビア。『これから先も』とか言える段階じゃないぞ。まだここは城だ。お前が脱国しようとしてるなんて、誰も思わないだろう」


 へむっ、と下唇を上にあげて、今にも泣きそうな表情に豹変した。

 いったい、牢獄での凛とした雰囲気はどこにいったのか。


「ここに座っていろ。そのうち衛兵がお前を見つけて部屋に連れて行ってくれる」


 まだまだマトビアは子供だ。

 幼いころによく一緒に遊んだときのマトビアと同じ。

 城で暮らしたほうが何倍も幸せだろう。


「……」

「なあ、マトビア……この程度の距離を走れないようじゃ、どう考えても無理だろう……?」

「……無理じゃない……」


 マトビアは涙目になって顔をそむけた。

 はあー……と自然に長いため息がでる。

 置いて行ったほうがいいに決まっている。たぶん百人中九十人ぐらいが、そう思うだろう。


「すまないが、置いていくぞ」


 マトビアに背を向けた瞬間、悲痛な叫びが後ろで聞こえた。


「束縛された人生なんてイヤなんですぅ! 自由になりたいの! お兄様と一緒に外の世界に飛び出したいのぉ!」


 涙を流して切実に訴えるマトビアは、今までみたことのない表情をしていた。

 マトビアがここまで追い詰められていたなんて、知らなかった。

 泣いている妹を置いていくことは俺にはできない。


「分かった、分かったから……」


 マトビアを落ち着かせてから、俺が記憶している魔法を頭の中で一巡りさせる。

 足を速くする魔法なんてあったか?

 

「あれがいいかな……」


 船の素材に使って浮力を上げるために使用していた魔法。


「『浮揚レビテーション』」


 生物にかけたことがないので、少しずつ魔力を高めて、調整する。

 やがてゆっくりと、横たわったマトビアの体が地面から浮き上がった。


「す、すごいですわ、お兄様」


 思っていた以上に強化魔法というのは魔力を使う。慎重に魔法をかけているのでなおさらだ。

 地面から1フィートほど浮かぶと、そこで安定化させた。

 よろめきながらマトビアが立ち上がる。

 直立の姿勢も保てるようだ。


「初めてにしては上出来だな」

「でもお兄様、これだと走れませんわ」

「走る必要はない」


 俺は手を差し出すと、マトビアが握った。手を引けば滑らかにマトビアの体が付いてくる。


「まあ!」

「これなら走らずとも俺と一緒に移動できるだろう」


 あっという間に中庭を駆け抜けて北門につくと、騒動のせいで普段いるはずの門番がいない。


「運がいいのか悪いのか……」


 無人の門をくぐると、馬車の車輪の音が聞こえた。こちらに近づいてくるので、身を隠せるような場所を探そうと急ぐ。だが門の周りというのは、防犯上、何もない。


「大丈夫です。あれはスピカです」

「スピカ?」


 馬二頭立ての大型キャビンが停車する。俺と同じ年齢ぐらいの女性が御者台から転げ落ちるように、降りてきた。

 紺色のワンピースに、真っ白の大きな襟と袖が目立っている。使用人がよく着用している服装だった。

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