■月星歴一五四二年十月⑫〈秘密〉
だだっ広いだけの人気のない後宮で、三人きり母子水入らずの対面。
寝台越しではなく、軽装ではあるが居間に王太后アリアは佇んでいた。
白い顔には生気がない。
瞳はくすみ、焦点の合っていない顔を向けていた。
アトラスにしてみれば、六年ぶりの再会になる。
思い出の中の美しい顔を思うと、痛ましさすら覚えるほどのやつれようだった。
突然の非礼を詫びてみるものの、返事は無かった。
この母に魔物が憑いているのか、判断がつかない。ただ、病のせいだけの可能性すらある。
「アウルム。母上に最後に会ったのはいつです?」
「昨日の午後だ。今回の祭りの報告をして……」
そこまで言って、王が目を瞠る。
その先の記憶が曖昧だという。
「そのとき、私は、術でもかけられたのか?」
饒舌に話していたレオニスやハイネとはだいぶ様子が違うが、その事実だけで充分。
「魔物は母上に憑いていた。兄上は操られただけだ……」
唇を噛みしめて、アトラスはアリアを見つめた。
通常人間の身体は魔物を受け付けない。その身に長く留めておくことは出来ないはずだが例外はある。
「海風星王家も巫覡を先祖に持つとは知りませんでした」
「王家が、というより母上の母方の血筋に居たと聞いたことがある。海に祈る家系だったとか」
海風星は魚業が盛んな島国である。海に安全を祈願する者が居るのは不思議ではない。
「なるほど……」
魔物がアリアを宿主に選んだのは、巫覡の流れを汲む為素養があったということだ。だが、巫覡の能力としては恐らく『アシェレスタ』の二人の方が高かったのだろう。魔物の方もその身体を扱いあぐねているのかもしれない。
アトラスは腰の剣に手をかける。
その動作に、アリアが僅かに顔をあげた。
「私を殺すのですね。お前にならできますよね。『実の父』すら手にかけた、呪われた子が」
アリアから吐き出される声に、アトラスの動作が止まった。
魔物の言葉だ。聞く必要は無い。
魔物は寄生者から情報を引き出して応用し、弱みに付け込む。
聞いてはいけない。
解っていても耳が傾いてしまう。
「母上、我々はあなたを救いに来ました」
「いいえ。あなたは私がお腹を痛めた子供では無いもの。切り札として、手元におかれたに過ぎない。ただの戦いの道具。母などと呼ばれて忌まわしいことこの上無い。あなたの役目は終わったのに、なぜ、まだ居るのかしら」
アリアの姿を借りた魔物は、高笑いを持って言い放つ。
目眩がした。
当事者の口から実際に聞かされると、解っていても堪える。
思わずふらつくアトラスは、視界にアウルムの姿を捕らえた。
聞かれてしまった今の言葉。
王に知られてしまったことを悟る。
「アウルム殿。切り捨てておしまいなさい。この者は、ジェイドの血筋。生かしておくわけにはいきません」
アウルムは剣を抜いた。
二人の目が合う。
奥歯を噛みしめるアトラス。
しかし、アウルムが剣先を向けた相手はアリアだった。
「これ以上、弟を侮辱することはやめていただきたい」
魔物が言わせているのは
「お前のまやかしは、もう効かない。動揺を誘っても、もう、お前の手足にはならない」
相手は母アリアの体に巣食っている。
それでも、
こんな醜態を晒すのを良しとする母ではないのを知っている。
「私が解き放ってさしあげる」
「アウルム!」
「アトラスに我々がさせてしまったことを忌むというなら、私も母親殺しの汚名を甘んじて受けよう」
剣を構えるアウルム。
「駄目だ、アウルム!」
アトラスが腕を掴み、その剣を止めた。
「傷つけてはいけない」
人格が奪われるほど根付いた魔物は浄化の剣でなければ消し去ることはできない。無理やり剥がせば器の肉体が崩壊してそれで終わりだ。
そして、魔物は戻ってくる。
レオニスの二の舞となってしまう。
「この剣でないと、浄化はできない」
そう言って差し出した一振りの剣。
銘をカタルシスというのは後で知った。
月星の人間なら、この剣の謂れを知らないはずは無い。
「ユリウスの剣か……」
王は白銀に鈍く煌く、半透明の刃を眺めた。
それはどこか、女神の持つ剣を思わせる。
月星の女神セレスティエルは右手に剣、左手に麦を持った姿で表されることが多い。
麦が豊穣を象徴するに対して、剣が象徴するのは戦いでの加護ともタビスとも謂われる。
「……お前がやりなさい。ユリウスは、お前にだから託したはずだ」
アリアは半透明の刃を凝視したまま、動けなくなっていた。
剣の持つ、一種の呪縛に似た効果。
蛇に睨まれた蛙の様に立ち尽くしている。
アトラスは頷いた。
肚を決めた後の行動は早い。
間髪をいれずにアリアに向かっていく。
それでも一言呟いて剣をはらう。
「申し訳ありません……」
次の瞬間、刀身から燐光が放たれる。
魔物の気配は消え、アリアだけが倒れていた。
呼吸、脈に異常は無い。
蒼白ながらも、文字通り憑き物が落ちた様な表情をしている。
「大丈夫なのだな?」
「気を失っただけです」
アトラスはアリアを長椅子に寝かせた。
アリアの身体は思いのほか軽い。
アウルムはアリアに自身の上着をかけると、アトラスに向き直った。
「アトラス。お前は私の弟だ。それ以外に思ったことは無い」
色は違うが、鏡に映すように似た眼差しが交差する。
「知って、いたのですね……」
アトラスの声が震える。
アウルムは静かに頷いた。
知っているのは自分だけだと強調する。
「前王は、何としてもあの内戦を終わらせたかったと。その為ならばと藁にもすがる思いで当時の竜護星王女の未来視を頼った。王女が視たのは『タビスが勝敗の鍵』ということ」
勝利の女神は、勝利ではなく終幕を求めた王に微笑んだ。それが事実。
「非道ともいえる手段でだったが、お前を手に入れた父は、一番目の届く場所ということで息子として育てることにした」
アウルムは、前王がタビスを手に入れる為に払った犠牲については、強いて触れない。
四代前の先祖――高祖父が同じとはいえ、アトラスは実兄ではないこの王と良く似た顔立ちをしていた。
とんでもない確率の偶然のお陰で、誰も疑わなかった。
だが、似ているのは顔だけ。些細な違和感。
当人だけはいつしか気付いてしまった。
母が自分を見つめる眼差し。父母兄妹と違う指や腕の形。妹と似た系統の色でも微妙に違う髪質。
隔世遺伝だと飲み込もうとして、出会ってしまったライネス・ジェイド・ボレアデス。
目の前で崩れ落ちた体の部位が、自身の複製の様に同じだった。
そして思い出す。
一度は死んだ赤ん坊が元気に声を上げた、さすがはタビスといった莫迦げた与太話。タイミング良く死んだジェイドの息子。
一笑に付す前に、すり替えたと考えれば辻褄が合った。
そもそも、アセルス王が自らつけたという名前が示唆していたのだ。『アトラス』とは『天を支える者』であり、『天』即ち『王』にはしないという明確な意思がそこにある。
結び付けて、気付いてしまった真実。
タビスである立場の葛藤と相俟って、自分の存在意義に迷ったアトラスは、思い詰めて城を出た。
「父は仰った。お前には辛い役目を押し付けた。だが、後悔もしていないと」
アウルムがだいぶ
アセルスのことだ。純粋にその言葉のみを語った筈はない。
アウルムは優しい。
その気遣いにアトラスは唇を噛み締める。
「アトラス、私はお前が『弟』でよかったと思う」
「アウルム……」
「お前がタビスである自分を疎んでいることも知っている。それがお前を縛り付けていることも。……それでも私は、タビスがお前で良かったと思う。お前がタビスだから、我々はこうして出逢えた」
タビスであったから、アトラスはアウルムを兄と呼べた。それもまた事実。
一つ歯車がずれていたら、あの戦場でアウルムと剣を交えていたのかも知れない。王を名乗っていたのはアトラスの方だったかも知れない。
選ばれなかった運命。
そこで手にしたかも知れない数多の可能性より、今はこの現実に感謝しよう。
アトラスは微笑で応えた。
少し泣き笑いに近かった。
「おかえり」
アウルムが手を差し出す。
「ただいま」
アトラスはしっかりと、その手を握り返した。
※※※
神殿で待機していた筈のアリアンナがハイネとレイナを伴って現れた。
制止を振り切って入ってきたのは明白だ。この王女様に歯向かえる人もそう居ない。
「結局、王太后様に取り憑いていたのね」
「病は心を弱くする。そこに付け込まれた様だ……」
「お母様は大丈夫なの?」
「気を失っているだけだ。すぐに目を覚ますだろう」
アトラスは妹にうなずいてみせる。
「……体調が芳しくないと言っていたが、どんな病なんだ?」
「動悸、息切れ、めまい、耳鳴り、頭痛、手足のしびれ、食欲不振といった症状が慢性的に続いていたそうよ」
「……それは更年期に多い症状だね。命に別状は無いだろう。症状を緩和する薬があるよ。
幽閉されていた間に許されていたのは読書だけだったハイネは、知識だけは豊富に蓄えている。
「大丈夫ね?」
レイナが伺うように、
「さすがに、疲れたよ」
アトラスはレイナに安心するように笑いかけた。何かが吹っ切れたような表情。レイナは微笑する。
「終わったのね」
「そうだな……」
アリアンナの盛大なため息が割って入る。
「終わってなんていないわよ。お兄様方、説明を求める人達が後宮の前に押し掛けてるわ」
「それは大変だ」
アウレムは笑い、弟妹を引き連れて本宮に向かう。
騒いでいた者達も揃って出てきた三兄弟妹の和やかな様子を見て黙るしか無かった。
因みにハイネとレイナは従者のふりをして付き添い、三人に目が集まっているうちにしれっと抜け出していた。
その後アトラスは、その足で王立セレス神殿に向かった。
明日は月の大祭。タビスは潔斎に入る。
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