■月星歴一五四二年十月⑪〈月星王〉

 扉が開かれた途端に感じた異変に反応しなかった者は、そこには居なかった。

 嗅ぎなれた血の匂いと、静か過ぎる気配に飛び込むようにして執務室に入る。

 月星王アウルムは、執務机の脚を背もたれにして、床に座っていた。

 左手には短剣が握られ、血が滴っている。

「何があったのです?」

 顔色を変えるアトラスに、王は微笑で応えた。

「大丈夫だ。自分でやった傷だ」

 ネウルスがすぐさま応急処置に入る。

 左手を開くと、短剣は刃の部分が握られていた。

「お前に忠告されていたのにな。すまない」

 蒼い顔をしていたが、しっかりした口調だった。

 憑かれている様子はない。

「自分で戻ってきたのか……」

 ハイネが信じられないという様に呟いた。


 経験者には解る。

 魔物にしろ、魔物の呪縛にしろ、跳ね返すには相当な精神力が必要なはずだ。

 しかしこの王は、件の剣の力を使わず傷の痛みだけでそれを成した。


 アトラスに支えられて立ち上がりながら、王は言う。

「魔物は私に憑いていたのか、私を操ろうとしたのかは定かではないが。あんなものを野放しには出来ん」

「勿論です。その為に来ました」


 王は頭を一つ振って、ネウルスを振り返った。

「お前は先程の命を取り消せ。誤報……いや、訓練だったと、もう終わったと城下を収拾してこい」

「かしこまりました」

 状況の説明が欲しいネウルスだったが、今は時で無いと割り切り、飲み込む。

「ヴァルムは客人達に事態の説明を。問題無いと言い含めよ」

「はい」

「ハイネ殿。君は女王と妹を安心させてやってくれ」

「は、はいっ」

 そして、王はアトラスに向き直る。

「私でなければ、残る場所は一つしか無いと思うが……」

 月星の王が一歩引いて接する唯一の人間を思い浮かべ、唇を噛みしめる。

「……後宮ですね」

 うなずき、兄弟は歩き出した。


 現月星王には妻が居ない。

 王女は後宮を嫌い、本宮に部屋を持つ。

 そこを仕切るのは、王太后ただ一人。

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