11ケイ「いえ。バイクにも違反はありませんでしたから」

 縁はシャツの胸元をはだけた。吸いつくようにきめ細かい柔肌が、女の子らしい下着からチラと覗く。


「ん……」


 Dカップを寄せるようにして持ち上げると、自分の鼓動が伝わってくるようだった。呼吸がいっそう荒くなる。


「く、クサカベさん……」


 その息がかかりそうな距離に、椅子に座ったおじさんの顔があった。アイマスクをしているからか、縁の緊張が、おじさんにはかえって鋭く感じられるのだった。


「い、いくわよ、二郎……」


 潤んだ瞳でおじさんを見つめる。自分の顔が赤くなっているのが、鏡を見なくても縁には分かった。


「は、はい……」


 何をされるのか分からないまま、おじさんは震える声でそう答えた。彼女がゆっくりと近づいてくるのを、衣擦れの音などで察知する。


「ごめんね……」


 ぱふぱふの直前、縁がそう呟くのを聞いた時。何を思ったのかおじさんは、遠慮がちに口を開いた。


「あ、あの……」

「?」


 決まりが悪そうに身を縮こまらせる。申し訳なさそうに言った。


「こ、こんな時になんですが……。私、緊張してしまったようで……」


 縁のドキドキした気持ちが、おじさんにも伝播していたようだ。非日常なムードにあがっていた。


「緊張?」

「つきましては、その……。お、お花を摘みに参りたいのですが……」


 もじもじと体をくねらせる。縁はぽかんとしていた。


「お花っていうと……?」

「で、ですから――」


 もやは一刻の猶予もなかった。女の子の手前ではあったが、おじさんははっきりと伝えた。


「と、トイレに行って参ります!」


 アイマスクも取らずに立ち上がろうとする。その動きを察して、目と鼻の先まで来ていた縁は焦った。


「ま、待って! いま動かれたら――!」


 慌ててそう言ったが、二人の距離が縮まる方が早かった。おじさんが立ち上がったことで、顔が縁の胸に触れてしまった。


 ふにっ……!


「あ……」


 その瞬間、眼下のおじさんを見て、縁は体がカーッと熱くなった。何か柔らかいものに触れてしまったおじさんは、顔に当たる未知の感触に戸惑っていた。


「おや、これは……?」


 その声の振動が、縁には直接体に響くように感じられた。大事な場所に触れられたことで、女としての自分を意識してしまう。


「あ……。ああ……!」


 このままではどうにかなってしまう――。頭が沸騰しそうだった。冷静な判断などできそうにない。


「あ、あれ……?」


 その時、おじさんは突然すっとんきょうな声を上げた。長い夢から覚めたような思いがした。


「? 何だこれ」


 顔に当たる何かに、いま初めて触れたかのように戸惑う。口調も元に戻っていた。


「何も見えない」


 なぜか真っ暗闇な視界の中で、柔らかい温もりに包まれるのを感じた。実際の感触だけでなく、彼女の真心までもが感じられるようだった。


「ゆ、縁……?」


 姿は見えなかったが、本能的にその名を呼んだ。『オクトーブ』の効果がちょうど切れたのか、それとも幼馴染の想いが通じたのか――。真相は分からなかったが、ともかくおじさんは元に戻った。


 ところが、動揺激しい縁の耳には、どうやらその声は届いていないようだった。真っ赤になった顔をプルプルさせて呟いた。


「う……」

「う?」


 大きく手を振りかぶると、おじさんの顔を目がけて、そのまま勢いよく振り下ろした。


「動くなって言ったでしょ、このバカーっ!」


 強烈なビンタをお見舞した。


 バチーン!


「あってえ⁉」


 勢いのまま背もたれに叩きつけられるおじさん。ぶたれた頬をさすった。


「い、いきなり何すんだよ縁!」

「何すんだはこっちのセリフでしょー⁉ セクハラで訴えてや……」


 そこまで言ったところで、彼の口調が変わっているのに気づく。呼び方も『クサカベさん』ではなかった。


「あ、え? い、今、『縁』って……?」

「あっ、ほらその声! やっぱり縁じゃねえか!」


 雰囲気も変わっていた。ジェントルマンおじさんの面影はない。


「う、ウソ……。二郎なの? 本当に?」

「おーて。……おいこれ、失明してんじゃねえか! どんだけ強くぶっ叩いたんだよお前!」

「ち、違うわよバカっ! アイマスクでしょ⁉」

「アイマスク~? なんでそんなもん」


 自分の顔を触って確かめる。


「……あ、本当だ。まあいいや、取っちゃおう」


 アイマスクを外そうとするおじさんを、縁ははだけた胸を隠しながら必死に制した。


「わーっ! 待って待って! まだ取っちゃダメっ!」

「なんでだよ。うるさいから大声出すなよ」

「バカ10秒待ちなさいバカっ! アンタこのバカ!」

「バカバカ言うな! 何なんだもう、仕方ねえなあ……」


 おじさんが10秒カウントする間に、素早くシャツのボタンを留めた。焦りつつも確実に身を包んでいく。


「……きゅーう。じゅう!」


 仕上げにジャケットを羽織って、はあはあ言いながら乱れた茶髪を整えた。下着姿を晒すことなく間に合った。


「……ん? どこだここ?」


 アイマスクを外したおじさん。目をパチクリさせて、乱雑な社長室をいぶかしげに見渡す。


「物置部屋か何かか?」


 記憶を失っていた時の記憶は、どうやら引き換えになくなったようだ。初めて見る部屋に戸惑っている様子だ。


「おかしいなあ……。確か頭が痛くなって、バス停に座ったんだと思うけど……」


 そこからの記憶は消え去っていた。しきりに首をひねっている。


「うーん……???」


 見たところ健康には問題ないようだった。それを確認して、縁は肩をすくめた。安堵からため息をつく。


「ま、おいおい説明するわ」

「なんか変な感じだなあ。ていうかさあ……」


 自分の顔をペタペタと触るおじさん。


「さっき、俺の顔に何か当たってなかったか?」

「ふえっ⁉ え、えっと……」


 おじさんは難しい顔で考え込んだ。謎の感触を必死に思い出そうとしているようだ。


「なんかこう、ぱふっとした……。ぬくいマシュマロみたいなやつだったな」

「そ、それは……」


 今更ながら縁は、自分の胸が彼の顔に当たってしまったことを意識する。ハレンチな行為に赤面した。


「うう……」


 紅潮した顔を両手で隠す。自分は恥ずかしさでいっぱいだが、おじさんはどう感じたのだろうか――。指を開いて、隙間からこっそりと股間を盗み見た。


「……あ、あれ?」


 わずかに膨らんでいるようにも思われたが、エロ漫画で見たチョモランマとは程遠かった。それもそのはず、おじさんは本来慎ましやかなサイズなのである。


「な、なんで……?」


 しかし、縁はその辺りの事実を誤解している。意識していたのは自分だけだったのかと思うと、無性に腹が立ってきた。


「ちょっと二郎! なんでれてないのよ!」

「はあ? 腫れてないって……」


 おじさんはビンタされた頬を見せつけた。ヒリヒリと真っ赤になっていた。


「見ろ! こんなに腫れてるじゃねえか!」

「はあ~っ⁉ どうでもいいわよそんなとこ!」

「どうでもよくねえだろ⁉ なに開き直ってんだ!」

「ケイの時と全然違うじゃないの! なんでアタシには反応しないのよ!」

「ケイの時ぃ? 何の話だ」


 縁以外の人物のことも、今ではきちんと思い出していた。が、えるが描いたエロ漫画のことを持ち出されても困るというものだ。戸惑うおじさんに、縁はお構いなしに怒りをぶつける。


「納得いかないわ……。あんなに体張ったのに、張り損よ!」

「マジでわけが分からん。お前頭大丈夫か?」

「アンタに言われたくないわよっ! う~っ悔しい! なんか負けた気分だわ」


 漫画の中で描かれていた、おじさんの股から伸びるバベルの塔を思い出す。


「そもそも、えるはどうやってアレを見たのよ。『バッチリ取材したんで再現度100%ッス!』とか言ってたけど……」


 ラブホテルでの取材のことを言っていた。むろん縁にはラブホうんぬんの部分は伏せていたが、完成した漫画を手渡す際、えるは得意げにそう自慢していたのだった。


「ま、まさか……」


 えるとおじさんは、ただれた大人の関係になってしまったのでは――? そう勘違いして、縁はわなわなと震えた。


「あわわ……」


 軽いパニック状態に陥っていた。見かねたおじさんが椅子から飛び跳ねて近寄る。


「落ち着け縁!」


 肩に手を置いてなだめようとした。が、縁はそれを拒絶する。


「イヤっ! 来ないで不潔!」

「不潔じゃねえよ! いいからほら」

「来ないでって言ってるでしょ~っ⁉」


 再び右手を振り上げた。


 ベチーン!


「あってえ⁉ 何すんだおい!」

「信じらんない! 女子高生とか後輩とか、もうたくさんよ!」

「なに怒ってるんだ? 俺お前に何かしたか?」

「何も反応しなかったから怒ってるんでしょー⁉ バカっ!」


 せっかく記憶が戻っても、結局ケンカになってしまう――。幼い子供のように、二人はいつまでも年甲斐もなく言い争うのであった。

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