8新音「り、リカちゃーん! 助けてくださいなー!」

『そうだ一星、今度ゴルフにでも行かないか?』


 縁の忠告も聞かずに、おじさんは先と電話していた。記憶喪失のことなど何も知らないサキは、仕事のし過ぎで一星がおかしくなったと思っているようだ。


『お前が来れば、うちの女性社員も喜ぶしな』


 おじさんはすっかり社長になり切っていた。得意げな様子で受け答えする。


「ほほう。私が行くと女性が喜ぶ」

『ああ。一星はゴルフしたことあるか?』

「マリオゴルフならありますぞ」


 縁やシノのことは忘れたが、マリオのことは覚えているおじさんだった。


『なんなら色々教えてやろう。私はプロ並みだからな』

「それはそれは。楽しみにしております」

『じゃ、またな』


 お互いご機嫌で通話を終えた。受話器を置く時、ちょうど縁が社長室に入ってきた。


「あっ! 何もしないでって言ったでしょ? もう」


 電話していたらしいおじさんに口を尖らせる。机の上を見ると、ノートパソコンが消えていた。


「あ、パソコンも! どこにやったの?」

「持って行かせました」

「誰に?」

「えーっと」


 光輝が持っていったのだが、やはりシンプルに名前が出てこなかった。


「忘れました。記憶喪失なもので」

「またー? 勘弁してほしいわよホント……」


 メガネを外してため息をつく。


「で? 誰と話してたの?」

「確か、サキさんとおっしゃってましたな」

「え」


 その名を聞いて、縁はピタリと凍りついた。


「さ、サキさんって……。徳井先重工の徳井サキさん?」

「おお、そうですそうです。そうおっしゃってました」

「大物じゃないの! うちの得意先よ!」

「ほう、そうでしたか」

「のんきでいいわねアンタは……」


 話の内容を確かめる必要があった。


「何か変なこと言わなかったでしょうね?」

「あれをやる約束をしましたよ。えーっと……」


 ゴルフという単語が出てこなかった。これもド忘れである。


「ほら、これですよこれ」


 椅子から降りてスイングのジェスチャーをした。


「? 何それ」

「何でしたっけ。ほら、穴にボールを入れるあれですよ」


 縁の勘違いが始まってしまった。


「あ、ボールを挿れる⁉ 変態じゃないの!」

「変態とは心外ですねえ。紳士のスポーツに何てことをおっしゃいますか」

「スポーツて」

「それに、誘ったのはサキさんの方ですぞ?」

「何考えてるのよサキさん」


 下手すれば会社同士のトラブルに発展しかねない――。そう案じて縁は、さらに詳しい話をき出そうとする。


「だいたいなんでボールの方なのよ。挿れるっていったら、普通はあの……」

「?」

「だ、だから、あの……」


 男性特有のものを想像して赤くなる。はっきりと口にするのははばかられた。


「……ぼ、棒みたいなヤツじゃないの?」

「棒? 棒というと……」


 ゴルフの話だと思って考え込むおじさん。ホールの位置を示すための、先端に旗のついたピンが思い浮かんだ。


「もしかして、旗竿はたざおのことですか?」

「旗竿⁉」

「旗竿はプレーする前から刺さっているんですよ」

「プレイする前から挿さってる⁉ どういうことなの……」

「まあ、オンしたら外しますけどね」

「? オンって?」

「ボールがグリーンに乗ることです。グリーンというのは」


 あくまでも親切に教えた。


「穴の周りにある、芝生が短く刈り取られたゾーンのことです」

「穴のそばにある……? それって……」


 思わず自分のスカートを押さえる。ちょうどデリケートゾーンの辺りだった。


「芝目を舐めるように読むのがコツです」

「変態じゃないの!」

「おやおや、せっかくアドバイスしてますのに……」


 おじさんはめげずにお節介を焼いた。紳士のスポーツを侮辱されたままでは黙っていられない。


「パットをする時は慎重にするのがいいですよ」

胸パッドパットなんてしないわよ!」

「え、パットをしない? パターを使わないという意味でしょうか……」


 グリーン内でボールを打つ場合、通常はパターというクラブを用いる。それを使わないとなると……。


「となると、ウェッジでしょうか」

「誰がエッチよ」

「あまりおすすめできませんね。穴を掘るのがオチですから」

「あ、穴を掘るのはちょっとね……」

「まあ、プロの方ならうまくやるでしょうけどね」

「プロって」

「サキさんはプロ並みらしいですよ?」

「そ、そうなんだ……」


 プロ顔負けの超絶プレイを見せつけるサキを想像してしまう。


「色々教えてくれるとおっしゃってました」

「な、何を?」

「それはもちろん、技とかテクニックとかでしょうね」

「何考えてるのよサキさん」

「早くサキさんとやりたいですねえ」

「な、何言ってるのよ二郎!」


 大胆な発言に耳を疑った。今日までのおじさんからは考えられないような発言だった。


「女性社員も連れてくるとおっしゃってました。私が行くと喜ぶそうです」

「二郎がイクとよろこぶ⁉」

「でもあまり大人数だと、長丁場になりそうですね。体が持たないかもしれませんねえ……」

「あ、あわわ……」


 性の饗宴きょうえんで踊り狂うおじさんを想像して、縁は恐怖にうち震えた。


「ど、どうしよう……」


 このままでは会社は倒産する――。乱痴気騒ぎなど起こしては、得意先とトラブルになるのは目に見えていた。


「と、とりあえず、記憶を元に戻さなくちゃ……」


 といっても、具体的な方法が分からない。誰かに相談してみようと考えた。


「誰でもいいわ。誰か……」


 なりふり構っている余裕はない。スマホの『連絡先』を表示して、たまたま目に入った人物に電話をかけた。


 数回のコール音の後、女性の不機嫌そうな声が届いた。


『何スか縁先輩。もうすぐ授業なんで、手短に願いますよ?』


 高校時代の後輩――教師になった忍野おしのえるだった。当時文芸部だった二郎を通じて縁も知り合い、大人になった今でも交流を持っていた。


 縁は前置きもなしにさっそく尋ねた。


「ねええる、急に変なこと訊いて悪いんだけど、人の記憶ってどうやったら元に戻るの?」

『記憶~? ゲームか何かの話ッスか?』


 オタクのえるはフィクションの話だと思ったようだ。


「この際何だっていいわ。大至急教えてほしいのよ」

『定番のイベントッスからねー。色々ありますよ』

「本当? 助かったわ」

『自分が好きなのは、やっぱあれッスかね。懐かしいなぁ、初めてプレイした時はビビったもんスよ』

「もったいぶらないで早くはやく!」

『んー? んふふ、もうちょっとらしたいところッスけどね』


 授業時間も迫っていたので、おあずけプレイは泣く泣く断念する。くだんのゲームに言及した。


『先輩、ドラクエフォーやったことありますか?』

「ドラクエ? 名前は知ってるけど、やったことない」

『序盤の方で、記憶喪失のキャラを正気に戻すイベントがあるんスよ。そのキャラにあることをすると戻るんス』

「あること……?」


 えるは声を弾ませて言った。


『そのあることとはズバリ、ぱふぱふッス!』


 ところが、オタクでない縁にはピンと来ていないようだった。キョトン顔で首を傾げる。


「ぱふぱふ? 何それ?」

『え、ぱふぱふ知らないんスか? へへへ、こいつぁ教え甲斐があるぜ……』


 えるマンガ先生のやる気スイッチが入ってしまった。


「何なにー? ぱふぱふ何なの教えてよー」

『た、たまんねー。無垢な縁ちゃんマジかわいいッス』

「先輩に向かって『ちゃん』とか言わないの!」

『いいんスかねこれ。でもまあ、あくまで訊かれて答えるんだからいいか』


 興奮を隠し切れない様子で、えるは縁にぱふぱふを教えた。

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