7新音「これはバイト先の原付で……」

 おじさんが徳井さきと電話している頃。秘書メガネをかけた縁はスマホを取りに行っていた。


「人に聞かれない方がいいわね……」


 記憶喪失の男が社長の座についていると知られたら、ほかの社員の混乱を招きかねない。人目につかない場所へ移動した。


「イッくん今どの辺だろう」


 音量の設定を調整してから、出張中の一星に電話をかけた。いつもの大声が飛び込んできた。


『どうした縁! 何かあったのか?』

「どうしたもこうしたもありませんよ。我が社存続の危機です!」

『はっはっは! 真面目な縁が冗談とは珍しいな!』

「冗談ならどんなにいいか。実はですね……」


 ことの次第を説明した。


『な、何ぃ⁉ 二郎が記憶喪失に⁉』

「そうなんです。社長室に入り浸って、好き勝手やっちゃってるんですよ」

『どうして記憶喪失だと社長室で好き勝手やることになるんだ⁉』

「知りませんよ私だって。本人は流れでって言ってました」

『どんな流れだ⁉』

「デタラメなデータ入れたり、ハンコついて書類出したり……。もうしっちゃかめっちゃかですよ」


 電話の向こうで、一星はうーむと思い悩む。


『まずいな! 指紋というのは双子でも違うものだからな、拇印ぼいんがあったら面倒なことになるかもしれん!』

「ボインがあったら面倒? この前は、Tカップでも足りないとか言ってませんでしたか?」


 いつかの通話を思い出して胸に手を当てる縁だったが、一星は胸の話だとは思っていない。


ティーカップの話などしている場合じゃないぞ! 今すぐ引き返す!』


 出張先の北海道へはまだ着いていないようだった。


「今どこですか?」


 新幹線に乗っている一星は、デッキに移動してから電話に出ていた。窓から外の景色に目をやる。


青函せいかんトンネルの目の前まで来てるぞ!』


 青森と北海道を結ぶ海底トンネル。ただそれだけの情報だったが、どういうわけか縁は驚いた風だった。


「せ、トンネル⁉ 目の前にあるんですか⁉」


 口頭のやり取りでは秘書のダイナミック勘違いに気づけず、一星は話を続けた。


『危ないところだった、もう少しで突入するところだったぞ!』

「本当に危ないところですよ! いったい何の視察してるんですか社長!」

『せっかくだから体験してみたかったんだ! 漢のロマンだからな!』

「確かに、男の人は気になるのかもしれませんけど……」


 自分の股に手を伸ばしてもじもじする縁。一方の一星は興奮した様子だった。


『必死に掘って開通させたトンネルを、時速210キロで突き抜けるんだ!』

「速すぎますよ! 死んじゃいます!」

『ああ、死ぬほど興奮するよな!』

「だからってハッスルしすぎですよ。女の子の身にもなってください」

『女の子って何だ? 日本一のトンネルのことだぞ?』


 青函トンネルは日本最長のトンネルである。


『確か、53.85キロだ!』

「体重ですか? 細かいですね」

『体重? たまに会話が噛み合わなくなるなあ縁は!』

「社長が変な話するからじゃないですか」

『変な話とは失礼な! ちょっと前までは世界一だったんだぞ!』


 2016年にスイスのゴッタルドベーストンネルが開通するまでは、世界最長のトンネルでもあった。


『スイス人に抜かれちゃったけどな!』


 その言葉に、縁はギョッとした。


「ぬ、⁉ 外国人にですか⁉ 何やってるんですか社長!」

『俺に言われても!』

「社長以外の誰に言うんですか!」


 一星が体を許したと思って憤慨していた。


『そうカッカするなよ! 人類みな兄弟じゃないか! スイスも日本も仲良くやろう!』

「仲良くヤってる場合じゃないですよ。社長はおおらかすぎです」

『縁は日本にこだわりたいのか? 確かに、北の大地と結ばれるなんてすごいことだよな』


 壮大なロマンに思いを馳せる一星に、縁は声を荒らげた。


「誰ですか北野大地って! 結ばれちゃダメですよ絶対!」


 謎の男の登場に混乱していた。一星にはわけが分からなかった。


『おいおいどうしてダメなんだよ! 開通した瞬間なんて、想像しただけでゾクゾクするじゃないか!』

「見境なさすぎますよ社長は!」

『でも漢のロマンが!』

「男も女もダメです! とにかく絶対いけませんからね!」

『絶対行けないか! うーん、今回は断念するしかないか!』

「未来永劫えいごういけませんよ」


 秘書からの強い圧を受けて、仕方なく会社に戻ることにした。書類の件も気になる。


『次の駅で引き返すか! 次は八戸はちのへ駅だな!』

「八戸駅っていうと、青森県でしたっけ?」

『ああ! 青森県八戸市、尻内しりうち館田たてだ!』

「し、尻打ち待ちたてだ……???」


 謎の言葉にはてなマークを浮かべた。


「尻打ちって何ですか? 待ちたてって?」

『よく分からんが、ここで降りると決めたぞ!』

「よく分からないのに決めちゃダメですよ! なんだか社長の身の危険を感じます!」


 愛しの一星が見知らぬ地でスパンキングなど考えたくもなかった。


「こっちのことは何とかしますから、社長はそのままでいてください」

『いいのか? このままだと青函トンネル突入しちゃうぞ?』

「それもダメですよ!」

『どうすればいいんだ俺は⁉』


 戸惑う彼を、縁は無理矢理ねじ伏せる。


「とにかく私に任せてください。二郎の記憶は、私が必ず戻してみせます!」

『わ、分かった……。頼んだぞ縁』


 ピッ。


「はあ~っ」


 勢いのままに通話を終えた縁は、頭を抱えてその場にうずくまる。社長から受けたトンデモ発言を思い返してげんなりした。


「いったい何しに行ってるのよイッくん……。ちょっと目を離せばすぐこれよ」


 ただ新幹線で移動していただけなのだが、そうは聞こえなかったようだ。気を取り直して立ち上がった。


「イッくんはあんなだし、仕方ないわね……」


 めげずに社長室へと向かう。何としてでもおじさんの記憶を戻すつもりだった。


「あのバカ、何もしてなきゃいいけど……」


 嫌な予感しかしなかったが、もう一人の幼馴染の待つ社長室へと向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る