4ケイ「なぜ特攻服を着ているのですか?」

 『おくーぶ』入りのコーヒーを飲んだことで、おじさんの記憶は飛んでしまった。受け入れがたい現実を目の前にして、シノは難しい顔で考え込む。


「うーん……。どうしましょうね、これから……」


 我がことのように思い悩んだ。一方で、当のおじさんはのんきなものだった。シノの顔を見上げると、変わった口調で声をかけた。


「おやおや。そう眉間にしわを寄せてしまっては、綺麗なお顔が台なしですよ?」

「へえっ⁉ き、綺麗なお顔⁉」

「そうですとも。もっとよく見せてくださいませんか」

「ちょ、ちょっと!」


 サングラスを外してじっと見つめる。心なしか、その目はいつもより凛々しいようだった。


「容姿端麗なお嬢さんですな。スラリとしていて、まるで宝塚のようです」


 記憶と一緒に、頭のねじも何本か飛んでしまったようだ。褒められると思っていなかったシノは、顔を赤くして戸惑いを隠せなかった。


「も、もうやめてくださいっ! おじさんらしくもない!」


 口ではそう言いつつも、内心では密やかな喜びを感じてしまう。キリッとした顔つきの彼を見つめ返した。


「う……」


 ジェントルマンおじさんの熱視線に、うっかりときめきそうになってしまった。


「どうされましたお嬢さん」

「い、いえ……」


 おじさんのことは心配ではあったが、なんだかこのままでもいいような気がしてきた。実際悪い気もしない。シノは考えを改めることにした。


「も、もうちょっと様子を見ませんか? リセットされた人生の方が、案外幸せかもしれませんよ?」

「ほほう。なるほど、一理ありますな」

「そうですよ。人間お腹さえ満たされれば、後のことは割とどうでも……」


 自分で食事に言及して、空腹状態だったのを思い出してしまう。くうと鳴るお腹を恥ずかしそうに押さえた。


「うう……。お腹空いたなあ……」


 少女の悲しい顔を見て、紳士おじさんはより真剣な眼差しになる。記憶を失っても若者の味方だった。


「これはいけない。子供がお腹を空かせてはいけません」

「いやまあ、別にそこまででもないですから」

「そうですか? でもなんか、スーツ男装で大食いしてそうですよあなたは」

「いや記憶ないでしょ、お……」


 おじさんと言いかけて、シノはある発想に思い当たった。頭の上で豆電球が光るかのようだった。


「!」


 今のおじさんを利用すれば、ミスタードーナツにありつけるのでは――? よからぬ考えが浮かび上がる。


「何です?  『お……』とは」

「お……」


 いける――。そう確信して、シノは偽りの情報を吹き込んだ。


「お、金……」

「え?」

「お金、貸してましたよね? おじさんに」


 存在しない記憶――。


 事実として、おじさんがシノにお金を借りたことはない。が、今のおじさんには、それを確かめることができないのであった。


「なんとまあ……。そうでしたか」


 あっさり信じてしまう。自分自身の行いを呪った。


「私としたことが、恥ずべきことです。学生から金銭を巻き上げるなど」

「い、いやいや! そんな猛省しないでください! 罪悪感が!」

「罪悪感を抱くのは私の方です」


 内ポケットから財布を取り出す。


「おいくらでしたかな?」

「え? えーっと……」


 シノはチラと、すぐそばのミスタードーナツ店舗を見やった。


「あ」


 そこには、60分間の食べ放題――『ドーナツビュッフェ』のポスターが張り出されていた。記された数字をそのまま読み上げる。


「え、えっと……。1800円(税込み)です」

「(税込み)? どういう意味でしょうか」

「き、気にしないでください!」


 若者の言葉を疑うことなく、おじさんは1800円(税込み)を手渡した。


「ありがとうございますおじさん! 必ず返しますからね!」

「返す? 私が借りていたんですよね?」

「そ、そうでした!」


 ボロが出ないうちに、シノは魅惑のドーナツ食べ放題へと駆けていく。顔だけ振り返って手を挙げた。


「気をしっかり持ってくださいね。生きてればいいことありますよー!」


 何の根拠もない励ましとともに店の中へと消えた。一人残されたおじさんはしみじみとつぶやく。


「元気な娘さんですなあ……」


 軽くなった財布を戻す。


「さて、これからどうしましょうか」


 再び途方に暮れたその時、シノと入れ替わる形で、見知らぬ青年に声をかけられた。


「……社長? 社長じゃないですか」


 親しげな様子で間合いを詰めてくる。双子の兄と間違われていることなど知るよしもなく、おじさんは困惑した。


「社長とは、私のことでしょうか?」

「当たり前じゃないですか。俺たちの社長ですよ」


 一星は社員との距離が近かった。服装も各々自由。私服姿の青年は、この間大学を出たばかりの23歳。おじさんとは一個違いにあたる。


「私が社長……」


 そう理解したおじさんは、シノが言っていた言葉を思い出す。合点がいったようにひとり頷いた。


「なるほど。確かに『大物』ですね、24歳で社長とは」

「自慢ですか。こんなところで何してるんです? 出張だって聞きましたけど」

「そちらこそ何を? ええと……」

「えー? ショックだなあ、平野ですよ。平野光輝こうき


 平社員の光輝は、そばにあるすき家を示した。


「昼飯食ってました。社長もどうですか?」

「そうしたいところですが……」


 もうお金に余裕がなかった。そんな事情など知らない光輝は早合点する。


「なんだもう食べちゃいましたか。そういえば、なんで髪黒いんですか?」

「え?」

「口調も変わってるし、大声じゃないし……。も、もしかして……」


 ゴクリと固唾を呑む。現状を推理して叫んだ。


「イメチェンですか!」


 どうやらそうとらえたようだ。人違いに気づくこともなければ、記憶喪失に思い当たることもない。光輝は単純な男であった。


「え? いや私は」


 わけが分からず戸惑うおじさんも意に介さない。


「美容室行く暇あったら手伝ってくださいよー。仕事が山積みなんですから」

「いえ、ですから」

「ほら、いつもの元気はどうしたんですか? ダッシュで帰りますよ!」

「え? え?」


 双子の弟だと気づかないまま、光輝はおじさんの手を引っ張って会社へと向かった。

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