3新音「そ、その制服……。ポリ公の方ですの⁉」
1オクターブ飛ぶように声が高くなる薬――『オクトーブ』を作った三実。翌朝になって、その効果を一星でテストしようとする。
「ええと、
ダイニングのテーブルを確認する。コーヒーの注がれたマグカップは二つあった。青いカップはおじさんのものだ。
「赤い方にだけこれを落とせばいいね」
白衣のポケットから錠剤を取り出す。そろ~りとカップに入れようとした、その時だった。
「おはよう三実。今日は早いな」
スーツ姿のおじさんが入ってきた。慌てて薬を背中に隠す三実。愛しの兄に向かって、あえて
「は、はあ別に?
兄への想いが母にバレたら離ればなれにされてしまう。と三実は思っている。本心とは真逆の態度をとらざるを得なかった。
「う……。ご、ごめん」
しょげるおじさん。ソファーへ押し倒した一件以来、ますます弱腰になっていた。
「こ、コーヒーだけ取ったらすぐ行くから。悪いけど、ちょっとどいてもらってもいいかな?」
「ん」
横にずれて、おじさんに青いカップを取らせる。
「ありがとう。行ってくるよ」
「さっさと次の仕事見つけてよね。家族がニートだなんて、恥ずかしいったらないっての」
三実はおじさんが会社を辞職したと思っている。強気な態度で再就職を
「うう……。本当にごめん」
浮かべた涙を悟られまいと、足早にダイニングを出た。それを確認してから、三実はため息をついてその場にしゃがみ込む。
「はあ~っ、びっくりした。……また二兄にひどいこと言っちゃった」
心の声はいつも愛情たっぷりなのだが、口では気のないフリをしなければいけないのが辛いところだった。気を取り直して、オクトーブをコーヒーに溶かそうと立ち上がる。
「……う?」
ところが、手には何も持っていなかった。床やテーブルにも落ちていない。
「……ひょっとして、さっき」
薬を後ろ手に隠した拍子に、勢いでカップに入ってしまったらしい。
「ど、どっちに入ったんだろ……」
顔を近づけて、残った赤いカップをじーっと見つめた。
「……こっちに入ったはず、だよね」
確認しようにも、コーヒーの熱で錠剤はあっという間に溶けてしまった。黒い液体を覗き込んだところで、判別など不可能だった。
「まさか、二兄の方に……?」
廊下へ出る。追いかけようとしたが、何と説明したものか分からなかった。
「……まあいっか。声が高くなるだけで実害はないんだし」
実験は成功したはずだと、三実本人は信じて疑わなかった。結局どちらのカップに落ちたのか分からないまま、ダイニングへと引き返した。
「う?」
テーブルを見ると、赤いカップからコーヒーが消えていた。すっからかんである。
「な、なんで? いつの間に?」
疑問に思っていると、玄関の方から元気な声が聞こえてきた。
『行ってきまーす!』
長男の一星だった。三実が廊下へ出ていた間に、一瞬で飲み干したようだ。すぐに車のエンジン音が鳴り響く。
「やばっ」
庭先に出てみると、既に車はなくなっていた。もぬけの殻となったガレージを見て目を丸くする。
「早っ。台風かよ」
薬が正しく作れたかどうか、一応確認する必要があった。家に入って電話をかける。音量を
『どうした三実よ! もう帰りが待ち切れなくなったのか⁉』
「そんなわけないでしょ~っ⁉ 今どこにいるの」
『ちゃんと脇に停めてるぞ!』
退避所に停車しているらしい。あくまで法令
『今日は北海道まで出張だ!』
「北海道て。相変わらず飛ばしてるなあ」
『行くのは新幹線でだけどな!』
社長自らあちこちを飛び回るのは日常茶飯事だった。仕事熱心な兄の出張うんぬんは置いておいて、妹は確認を急ぐ。
「一兄コーヒー飲んだ?」
『ああ飲んだぞ! 歯も磨いたし!』
「早すぎっ! 時間の流れおかしいでしょ!」
『俺以外の人間が遅すぎるんだぞ!』
通常の物理法則は通用しないらしい。付き合っていられないのでさっさと
「変わった味とかした?」
『うん? うーん、分からーん!』
「大雑把だなも~」
『はっは! 三実にだけは言われたくないな!』
「コーヒーの味くらい分かります~」
三兄妹のうち、彼ら二人は細かいことを気にしない性質だった。例外は次男だ。
『おかしいのは二郎か、ブラックとはな! やっぱり砂糖は入れた方がいいよな!』
「二兄は大人でかっこいいの!」
『はっはっは! ニートが大人とはお笑い草だ!』
一星の味覚が大雑把だったため、薬が入ったかどうか味では確かめられなかった。別の方法で確認する。
「ちょっと発声練習してみてよ」
声が高くなったのなら変化があるはずだ。一星は何も事情を知らなかったが、妹からのリクエストに快く美声を震わせた。
『ア~→ ア~↗ ア~↑ ア~↗ ア~→』
「うーん? 何も変わらないなあ。すぐには効かないのかな……」
即効性があるかどうかまでは、制作者の三実にも分からなかった。そうこうしているうちにタイムアップになってしまう。
『あ、トラック来ちゃった! もう出るぞ!』
ピッ。
「あ、切れた……」
薬を飲んだのかどうか、結局よく分からないまま終えてしまった。徐々に不安が募ってくる。
「ど、どうしよう……。もしも薬が失敗してたら? それを二兄が飲んじゃったら……?」
受話器を置く手が震える。
「あ、あわわ……」
最愛の兄に何かあったらと心配になったが、すぐに生来の自信を取り戻した。ダボダボの白衣を
「なーんてね。この天才三実ちゃんに限って、失敗なんてあり得ないっての」
いったいどこからそんな自信が湧くのかは不明だったが、三実はフフンと不遜な笑みを浮かべた。薬を飲んだのも、おじさんではなく一星に違いないと考えることにする。
「効果とかは一兄が帰ってから訊けばいいや。カンの公演は週末だしね」
チラと時計を見やる。もう出る時間だった。
「そろそろ学校行かなきゃ」
長男に続いて、末の妹も意気揚々と登校した。
*
その頃のおじさん。自室でコーヒーをすすっていた。
「?」
ふた口ほど飲んで首を傾げる。
「……なんか変な味するな?」
気にはなったが、もう家を出る時間だった。偽りのサラリーマンを演じなければならない。
「そろそろ行くか」
一服盛られたことに気づかないまま、悩める若者を探しに出た。
*
「うっ⁉」
道を歩いていると、急に頭が痛くなった。
「な、なんだ……?」
「最近こんなのばっかだな……」
頭痛の正体は分からなかったが、バス停があったのでひとまず腰を下ろした。
「な、なんか……。意識が遠くなってきた……」
腰かけたままフラフラとうなだれる。そのままゆっくりと気を失った。
*
「お客さーん。乗りますかー?」
「はっ!」
バスの運転手に声をかけられて、おじさんは目を覚ました。ぼんやりとした頭で顔を上げる。
「……?」
なんとなく、自分が自分でないような気がした。どこか落ち着かない。額に手を当ててうーむと
「お客さーん?」
「あっはい乗ります!」
「……???」
見覚えのない風景を車窓から眺める。知らない天井、ではなく知らない景色だった。
「……はてな。いったいどこでしょうかここは」
人の流れに乗るようにして、とりあえず駅前らしきポイントで降りてみる。辺りをザッと見渡してみたが、やはり見知らぬ街のように思われた。
「ふーむ、変なこともあるものです。さて、私は何をすればよいのでしょう……」
自分の口調が変わったことにも気づかない。途方に暮れて思案した時、何者かにポンと肩を触られた。
「おじさん、お腹が空きました」
振り返ると、ショートカットの女子高生と目が合う。背の高いスリムな体型の子だった。
(おや。このお嬢さん、どこかで……)
何か思い出しそうな気もした。が、妹の薬は無駄に強力だった。記憶の波はサーッと引いてしまう。
(気のせいでしょうね)
あっさり諦めた。初対面と思しき少女に、人違いではないかと確認を促した。
「? 私ですか?」
「え?」
「失礼ですが、どちら様でしょうか?」……。
こうして、おじさんは記憶喪失となった。
三実の実験はまたも失敗していた。『オクトーブ』ならぬ『
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