第8章 記憶喪失おじさん、社長になる⁉

1ケイ「そこのお嬢さん、停めていただけますか?」

「うう、お腹空いた……」


 制服姿の青木シノは空きっ腹を抱えた。駅前のミスタードーナツ店舗が目に留まる。


「いいなあ。ドーナツいいなあ」


 第6章のエピソードタイトルでは、結局百衣露錯乱暴ももいろさくらんぼのスイーツにありつけなかった。今になって欲求不満が刺激される。


「でも、お金がなあ……」


 先日ラーメン二郎で外食したこともあり、いささか金欠気味だった。色々な意味で懐が寂しかった。


「……また演劇部でするか」


 ぼそりとそうつぶやく。断腸の思いでドーナツを諦めた、その時だった。


「あ」


 見覚えのある背中が目に入った。スーツ姿のおじさんだった。渡りに船とばかりに、シノは昼食代をせびろうと近寄る。


「おじさん、お腹が空きました」


 ポンと肩に手を置くと、サングラスのおじさんは振り返った。が、どうも様子がおかしい。


「? ですか?」

「え?」


 一人称が『俺』から『私』に変わっていた。シノの顔をじーっと覗き込む。


「失礼ですが、どちら様でしょうか?」


 まるで初めて出会ったかのように振る舞う彼に、シノは戸惑った。


「な、何言ってるんですか……。青木シノですよ。ちょっと多めに食べる女子高生の」


 自己紹介をされても、おじさんはまだ首をひねっていた。


「はて……。本当に私の知り合いでしょうか……?」


 自分より7cm背の高いシノを見上げる。


「こんな綺麗なお嬢さんが」

「ぬええっ⁉」


 急に容姿を褒められて、シノは思わず奇声を発した。


「ちょ、ちょっとおじさん⁉ いきなりどうしたんですか! 頭でも打ったんですか⁉」


 おじさんはムッとした。


「おやおや、おじさんとはご挨拶ですね。私はまだ……」

「……?」


 シノは続きを待ったが、おじさんは頭に『?』を浮かべた。


「はてな、私は何歳ですか?」

「はい?」


 なぜ自分の年齢を覚えていないのか――。シノにはわけが分からなかったが、とりあえず教えてやる。


「確か、24歳って言ってましたよ」

「24⁉ 失礼ですが、鏡ありますか?」


 スクールバッグから手鏡を出して渡す。まるで初めて見るかのように、おじさんは自分の顔をまじまじと眺めた。


「……なんとまあ、信じられません。これが24歳の顔でしょうか」

「それについては同感ですけど、自分の顔じゃないですか」

「これが私? 認めがたい現実……」


 なおも鏡とにらめっこするのを見て、シノはもしやと思う。恐るおそる尋ねた。


「お、おじさん……。あの、自分の名前分かりますか?」

「これはこれは、参りましたね。高校生? に子供扱いされるとは」

「いいから、さん、はい!」

「傾聴せよ、私は……」


 が、やはり続きは出なかった。


「あ、あれ? 私の名前は……?」

「うーん、やはりそうですか」

「何でしたっけ。レオナルド・ディカプリオでしたっけ」

「どう見ても日本人じゃないですか。芸能人とかは覚えてるんですね」

「とおっしゃいますと?」

「落ち着いて聞いてくださいね? おじさんは……」


 ここまで条件が揃えば、疑いの余地はなかった。狐につままれたようなおじさんに、シノは衝撃の事実を告げた。


「おそらく、記憶喪失になったんだと思います」

「な、何ですとー⁉」

「ちょっと! 落ち着いてって言ったでしょ!」


 街ゆく人々の視線が痛い。おじさんは頭を抱えた。


「なんということ……。しかし、辻褄つじつまは合うようですな」


 ショックを受ける彼をなだめつつ、シノは頷いた。


「たぶん、自分や周りの人間関係だけ飛んじゃうパターンですよ。鏡の使い方やディカプリオは覚えてましたから」


 言語能力や身体的動作そのものには、特に問題は見られないようだった。状況を理解したおじさんが確認をうながす。


「するとあなたは、私と近しい存在ということでしょうか」

「へ、変な言い方しないでくださいよっ! でもまあ、そうなるんじゃないですか? 衣装交換したこともあったし」


 デカ盛りに挑むため、互いの衣服を交換したことがあった。おじさんはシノのセーラー服を着たのだった。


「なんとまあハレンチな。こんなうら若いお嬢さんと」

「なんかいちいち調子狂いますね……」


 シノが着ているセーラー服を見て疑問に思う。


「そういえば、学生は学校にいる時間ではありませんか?」


 時刻は正午を回った頃だった。今日は木曜日だ。


「いまテスト期間なんです。中間テスト」


 定期考査中の特別スケジュールだった。学校は午前で終わりなのだ。


「そうでしたか。あれ?」


 自分のスーツ姿に目を落とす。明らかに会社員の出で立ちだった。


「私はどうして街中にいるのでしょう。昼休み?」

「え? あー……」


 自分は会社勤めのサラリーマンだと思ったおじさんに、無職だという真実をどう打ち明けたものか――。また驚かれても面倒だったので、適当にはぐらかすことにした。


「ま、まあいいじゃないですか。知らない方がいいこともありますよ」

「何ですか何ですか。いったい何なんですか私の正体は」

「お、おいおい思い出しましょう。また大きな声出されても困りますし」

「そんなに大物なのですか私は」

「ある意味そうですね。まあ、今は夢見ててくださいよ」


 とりあえず事実を隠すことに成功した。



 なぜ記憶が飛んでしまったのか。


 発端は昨日の夕方。おじさんの妹――小田おだ三実みみがクラスメイトと連絡をとったのがきっかけだった。

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