8れい「今ならタイトルだって獲れそう!」

 三実が一星と電話していた頃――。


 おじさんは1階の自室にいた。ちょうど三実の部屋の真下にあたる。れいにシバかれた頭をさすりながら、ソファーでの騒動を振り返った。


「妹を傷つけてしまった……。俺は兄失格だ……」


 実際の妹は傷つくどころかむしろ元気になっていたが、そのことにおじさんは気づかない。腕を組んで首を傾げる。


「でも俺、なんであんなことしたんだろう? 本当に記憶が曖昧なんだよなあ」


 れいは言い訳だと受け取っていたが、おじさんには本当に途中からの記憶がなかった。


「三実が淹れてくれたコーヒーを飲んだのは覚えてるけど」


 そのコーヒーに一服盛られていたとはつゆにも思わなかった。


「気づいたら三実を押し倒してて……」


 唇が触れそうなほど接近した時の光景がよみがえる。妹の切なげな顔が浮かんだ。


「……あいつの目、うるうるしてたよな。涙目みたいに。そんなに怖がらせちゃったのかな……」


 持ち前のネガティブを発揮して、恍惚の表情を取り違えていた。


「よく覚えてないなんて、三実からすれば関係ない。はあ、本当にひどいことをしてしまった……」


 実際には『ゲンキナール』のせいだったのだが、責任はすべて自分にあると思っているようだ。


「……そういえば、あの時」


 おぼろげな記憶を呼び覚ます。顔と顔がくっつきそうな距離で、三実がささやいた言葉。


『――二兄にーにい、× × × × × 』


 『大好きだよ』の部分は、ボケた頭の中では黒塗りになっていた。


「あいつ、なんて言ったんだっけ……」


 薬の影響で所どころ記憶が抜けていた。


「……ダメだ。思い出せない」


 妹に手を出し、母親には手を出される。そのうえ原因は謎のまま。ただでさえ三実に無職がバレてショックだったおじさんは、いよいよ心が限界だった。


 机の前まで移動すると、何かにすがるように引き出しを開けた。目当てのものを手にする。


「……もう、あの頃の三実じゃないのかなあ」


 取り出したのは、プラ板製の指輪だった。三実がおじさんにめようとして、一星に持っていかれたはずのものである。



    *



 6年前。


「ど、どうしたの二兄⁉ そのケガ!」


 小4の三実は二郎に駆け寄った。家の中に戻った彼はボロボロだった。


「はは……。また負けちゃった」


 傷だらけの顔で笑ってみせる。兄弟ゲンカの結果は、今日も一星の圧勝だったようだ。


一兄いちにいにやられたの? 待ってて、今キズを――」

「平気だよ。それより、ほら」


 二郎は拳を開いてみせた。


「あ……」


 その手に載っていたは、取られたはずのあの指輪だった。三実が作った、花模様の描かれた指輪である。


「ケンカは負けたけど、これだけは取り返した。あいつ、本気で横取りする気はなかったみたいだ」


 一星は乙女の恋路は邪魔しない。指輪は二郎とケンカするための口実に過ぎなかった。


「あ、そうだ。三実、ちょっと待ってて」


 何を思ったのか、傷の手当てもせずに自室へ走っていった。


「?」


 三実が疑問に思っている間にすぐ戻ってくる。


「はい、これ」


 手渡したのは、手作りの豚のぬいぐるみだった。


「家庭科の授業で作ったんだ。指輪のお礼に、って思ったんだけど……」


 お世辞にも器用とは言いがたい出来だった。いくつかほつれている箇所もある。


「釣り合わなくてごめんな? 俺、不器用だから……。三実は何でも作れてすごいな?」

「そんなこと……」


 売り物とは似ても似つかないぬいぐるみを、揺れる瞳で愛おしそうに眺めた。


「ねえ。この子の名前は?」

「え? 特に決めてないなあ。三実がつけてくれよ」


 『二郎』という名前はすぐに浮かんだが、三実はあえて口にしなかった。


「……分かった。一番好きな名前にするね?」


 本心を隠す妹の葛藤などつゆ知らず、兄はのんきなものだった。


「ああ。一番気に入るのを考えてくれ」

「……そういう意味じゃないけど」

「?」


 母への宣言を、三実は頭の中でひとり回想する。


    ♢


『でも、安心してお母さん』

『え?』

『三実はもう……。二兄のこと、好きになったりしないから』


    ♢


 兄を好きだと知られてしまえば、離ればなれにされてしまうかもしれない。


「二兄」

「ん?」


 そう考えた三実の、偽りの日々が始まろうとしている。


「もしかしたら……。これから先、三実は二兄にひどいこと言っちゃうかもしれない」

「え?」


 それでも、三実の気持ちは変わらない。


「でも、三実はずっと三実だから」


 ぬいぐるみを胸に抱く。目には涙が浮かんでいた。


「だからこれからも……。三実のこと、きらいにならないで……?」



    *



「『三実はずっと三実』、か……」


 6年前にもらった嵌まらない指輪を、おじさんは眺める。幼い妹の言葉がよみがえった。


『……これ、けっこんゆびわ。これがあれば、三実は二兄とけっこんできるの』


「……ひょっとして、三実はまだ――」


 そこまで考えた、まさにその時だった。


 おじさんの真上の部屋で、三実はカップ焼きそばを優先した一星にいきどおっていた。


    *


「も~っ、信じらんない! 弟のピンチにこんな幕切れってあるの⁉」


 床をドンドンと踏み鳴らして暴れ狂う。


    *



 ドンドン!



「うおっ! な、何だ⁉」


 天井からの怒りのこもった大音に、おじさんはビクッとなった。さっきまでの甘い考えは吹き飛び、サーッと血の気が引いていく。


「や、やばい。三実のやつ、めちゃくちゃ怒ってるぞ……。もしかしたら、一生許してもらえないかも……」


 指輪を持つ手がガクガク震えた。大事な宝物を落とさないよう、手の震えを抑えて引き出しに戻す。


 部屋の隅で体育座りした。


「か、完全に嫌われた……。三実はもう、あの頃の三実じゃないんだ……」


 ひとつ屋根の下ですれ違う想い。小田おだ家の夜は更けていく。その夜が明けるのは、どうやらまだまだ先のことのようだった。

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