7れい「な、なんか急にボクシングがしたくなったわ」

「う~。あの薬、どうやって作ったっけなぁ~」


 兄を見捨てて脱出した後、三実は自室の机に向かってうんうんうなっていた。『ゲンキナール』の作り方を思い出そうとしていた。


「三実は天才タイプだから、いちいちメモとかとらないんだよね~」


 実験に使った薬品やその分量などは、記録に残していなかった。天才タイプを自称していたが、単に面倒臭がりなだけだった。


「ダメだっ! 思い出せない~っ」


 その日の気分で材料を決め、大雑把おおざっぱに追加していく。母の提案した転校を断って、自己流の科学に固執した結果がこれだった。


 諦めてベッドにダイブする。


「あれがあればまた二兄にーにいと……。って思ったのに」


 望外の媚薬びやく効果を諦め切れない様子だ。枕を抱きよせる。


「……もしお母さんが入ってこなかったら、どうなってたのかな」


 ソファーで押し倒された続きを想像した。


「二兄と……。ち、ちゅーして。それから……」


 ベッドの上で体をクネクネさせた。おでこをくっつけた時の、間近で見た兄の顔を思い出す。


「……とろとろになった二兄、かわいかったなぁ」


 おもむろにベッドの下をまさぐった。風呂上がりに隠したものを取り出す。


「……また取ってきちゃった」


 それはおじさんのパンツだった。さっき脱衣カゴに返したものとは別のもの。おじさんが今日カゴに入れたパンツだった。


「……」


 しばしの黙考の後、三実は兄のパンツを顔面に押し当てた。鼻からスーッと息を吸う。


「……二兄のにおいがする」


 はぁと甘い吐息を漏らしてうっとりしていた。顔から離したパンツを、自分の下腹部の辺りに触れさせた。


「……パンツをにあてるのは、おかしなことじゃないよね。パンツなんだし」


 中断された行為の続きを、一人でシミュレーションする気らしい。刺激されたままになっていた欲求に、再び火が入った。


「はあ、二兄。好きだよ……。ん」


 おじさんのパンツを手にしたまま下腹部をまさぐり始めた。



    *



 ※しばらくお待ちください。



    *



「……ふう」


 何かを終えた様子の三実。筋トレでもしていたのか、全身びっしょりで軽く息も切れていた。


「……後で忘れずに戻しとかなきゃ」


 パンツをまたベッドの下にしまう。なぜかしわくちゃになっていた。また脱衣カゴに放る予定だったが、その前にやることがあった。


 呼吸を落ち着けてからクッションに座る。乱れた髪を整えると、スマホを取り出した。誰かに電話をかけるようだ。


「っと、危ないあぶない」


 画面を操作してあらかじめボリュームをしぼっておく。耳にあてると、相手はすぐに出た。


『はっはっは! こんな夜更けにどうした三実よ!』


 威勢のいい声を張ったのは、もう一人の兄――一星いっせいだった。彼の大声に顔をしかめて、三実はスマホを耳から遠ざけた。


『帰りが待てなくてラブコールか⁉ もうじき帰ると言いたいところだが、今日も会社に泊まり込みだ!』


 夜通し仕事だというのに、実に楽しそうに言ってのけた。


「ポジティブすぎっ! 一兄いちにいにそんなことするわけないでしょ~っ⁉」

『そうだったな! かける相手が間違ってるんじゃないか⁉』

「ぐっ……」


 三実は苦虫を噛み潰したような顔になった。返答に詰まる。


『お前のことだ! あいつのことでかけてきたんだろう⁉』

「もう、だから一兄って嫌い! 全部分かったようなこと言って!」

『はっはっは! 相変わらず一途なやつだな!』


 おじさんへの想いを知るただ一人の人物とは、一星のことだった。三実は厳重に釘を刺した。


「何度も言うけど、ぜ~ったい喋っちゃダメだからねっ⁉」

『心配せんでも、俺は乙女の恋路は邪魔しないぞ!』


 誰かにバラす気はないらしい。事実、現状秘密を知っているのは彼だけだった。


(……どうしようかな。今ならまだ引き返せるけど)


 電話はかけたものの、本題を切り出すかどうか迷っていた。


(二兄を助けたいけど、プライドを傷つけちゃうかもしれない。う~)


 おじさん自身は望んでいないことだったが、一星の会社に入れば無職ではなくなる。その件でかけていたのだった。


『どうした急に黙って! 二郎の就職の心配でもしてるのか⁉』

「いま考えてるんだから静かにし……。え?」


 三実は耳を疑った。


「い、一兄……。いま何て言ったの?」


 戸惑う妹に、一星はあっさりと答えた。


『二郎の仕事の世話でも考えているのか⁉ と言ったんだ!』


 三実は驚きに目を見張った。


「し、知ってたの……?」

『おいおい、俺はお兄ちゃんだぞ! お前らのことなどお見通しだ!』


 弟の現状を、一星は知っていた。衝撃は大きかったが、それならそれで話が早かった。


「なら、どうして二兄を入れてあげないの?」

『入れてあげるときたか! はっは! 俺の会社はボランティアじゃないぞ!』

「ゆかちゃんは入れたじゃん」

『彼女は優秀な秘書だぞ! ああ見えても!』


 あくまで身内贔屓びいきはしないと主張する相手に、三実は粘った。


「ちょっとの間でもいいの。卑怯な手だってことも分かってる。お願い、入れてあげて?」


 一星は声を弾ませてはっきり答えた。


『断ーる!』

 

 すげなくあしらわれて、三実はプンプンと怒りをあらわにした。


「う~。一兄のいじわるっ! いくら仲が悪くたって、自分の弟でしょ~っ⁉」


 だが、彼は単なる好き嫌いで判断しているわけではないようだった。


『勘違いするな三実! あいつには、あいつにしかできないことがある! だから断るんだ!』

「何よ、二兄にしかできないことって。いっぱいありすぎて分かんないよ!」

『いっぱいはないだろ⁉ 頭大丈夫かお前⁉』

「一兄に言われたくありません~っ!」

『あいつはな、いつも下ばかり見る男だ! 俺には到底真似できん!』

「でしょうね」

『二郎に自覚はないだろうがな、あいつにできて、俺にはできないことだってあるんだ!』


 珍しく否定的になる一星を、三実は意外に思った。


「一兄にもできないこと……?」

『あいつはこぼれ落ちたものを……。埋もれた大事なものをすくいあげるんだ! いや、いあげるんだ!』


 三実には分からないのを承知の上でそう答えた。案の定、妹は頭の上にはてなマークを浮かべていた。


「? なんで掬いあげるって2回言ったの?」


 口頭では、漢字の違いまでは分からなかった。


『はっはっは! 電話とは面白いものだな三実よ!』


 幼稚園時代を思い出してひとり笑う一星だったが、三実には何のことかさっぱりだった。当時まだ生まれてすらいなかった。


「ちっとも面白くないよ! また一人で分かった気になって」


 具体的な説明をき出そうとしたが、彼は早々に切り上げる気らしかった。


『残念だったな三実よ! もう3分経ってしまった!』

「3分? 何のこと?」


 元気な声を張り上げた。


『明星一平ちゃんのお湯を切らねばならんのだ!』


 兄が何を言ったのか、三実には一瞬理解できなかった。遅れて怒りをぶつけた。


「はあ~っ⁉ こんな時にどうでもいいでしょ~⁉ カップ焼きそばなんて!」

『いかん! このままでは、カップ焼きうどんになってしまう!』


 ガチャ。


「あ」


 スマホを確認する。通話は終了していた。


「う、うそでしょ……? ほんとに切った……」


 おじさんよりカップ焼きそばを優先した一星にいきどおった。


「も~っ、信じらんない! 弟のピンチにこんな幕切れってあるの⁉」


 床をドンドンと踏み鳴らして暴れ狂う。ひとしきり発散してからぽつりと呟いた。


「……一兄が言ってたの、どういう意味だったんだろ」


 何かを掬いあげるということまでしか分からなかった。彼らの砂場でのやり取りなど、年の離れた妹は知るよしもない。


「ドブさらい? ドジョウすくい? う~、分かんないよぉ~」


 しばらく考えたが、やがて放棄した。再びベッドにぽすんと身を移す。


「……一兄の会社もダメか」


 就職作戦は失敗。枕元の豚のぬいぐるみを手にした。


「一兄はあんなだし、三実が頑張るしかないよ」


 愛おしそうに頬へ寄せる。おじさんへの想いを抱いて言った。


「二兄のことは、三実が幸せにしてあげるからね……」


 そのために自分ができることは――。そう考えて、実験への熱意を加速させた。


「とりあえず、明日はもっと元気になる薬を作るぞぉ~っ!」


 自称天才博士の異常な愛情。心配するのはいったんやめて、兄への愛を爆発させた。

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