6れい「いいの? ありがとう。ゴクゴク」

 三実はソファーへ押し倒されてしまった。


「に、二兄にーにい⁉ これ押し倒しちゃってる! た、倒すんじゃなくて、座るのっ!」


 優しかった兄の豹変。『ゲンキナール』を飲んだおじさんは、熱っぽい視線で見下ろした。


「はあ、はあ」


 火照ほてる体で妹を覆う。作務衣さむえの前ははだけていた。


 心の中で三実は叫んだ。


(まさか、別の意味で元気になっちゃうなんて!)


 予想外の媚薬びやく的効果に、薬を作った本人も驚愕していた。実験失敗により、おじさんは元気な体を持て余す悲しいモンスターとなってしまった。


「に、二兄。本気なの……?」

「うう……」


 問いかけにはただ声を漏らすだけだった。どうやらはっきり意識して襲っているわけではないらしい。


(そうだよね。優しい二兄が、妹にこんなことするはずないもん)


 パニックに陥りつつも、兄が兄であることに安心した。今の彼は、あくまで薬の作用で盛っているに過ぎなかった。


 目の前で手を振ってみる。おじさんの視線は曖昧で、三実の手を追ったり追わなかったりした。


(たぶん二兄の感覚では、夢の中みたいなものかな……)


 健康に大きな問題はないようだ。大好きな人に迫られて、密やかな願望が徐々に刺激される。


(……三実だってバカじゃない。高校生になったんだもん。叶わないってことくらい分かってる)


 どうせ結ばれない想いなら――。そう考えて、そっとおじさんの頬に触れた。


「……二兄、聞こえてる?」


 汗を浮かべる彼の耳には届いていないようだった。ぼんやりした意識の中で、元気になった体だけを持て余している。このままいけば、獣と化したおじさんが本格的に牙を剥くのは時間の問題だろう。


(お風呂、入っといてよかったな……)


 少しずつ近づいてくる。少女の胸は高鳴った。心臓がバクバク動いているのを感じる。


 いつの間にか、その顔は恍惚としていた。絶対に叶わないと思っていた願いが、今まさに成就しようとしている――。


「二兄……」


 小さな声は震えていた。勇気を振りしぼって、おじさんの首に細い腕を回した。


 顔と顔が引き寄せられる。今にも唇がくっつきそうな距離で、そっと囁いた。


「――二兄、大好きだよ」


 その時。


「ん……」


 おじさんは夢から覚めたような声を漏らした。定まらなかった焦点が合ってくる。


「あ、あれ? 俺は……」


 だんだんと意識が戻りつつあった。妹とキスしそうになって、本能がブレーキをかけたのかもしれない。


 変化した状況はそれだけではなかった。


 ガチャリ。


 ほぼ同時に、部屋の扉が開く音がしたのだ。


「ふう。やっと終わったわ」


 仕事を終えたれいが入ってきたようだ。


(ま、まずい!)


 母親の登場に三実は慌てた。


(こんなとこ見られたら、二兄のこと好きだってバレちゃう!)


 首に回した腕をパッと離す。一方で、覆いかぶさるおじさんの体勢は、すぐには変えることができない。


(ど、どうしよう……!)


 頭をフル回転させる。が、この土壇場ではいい案は浮かばなかった。


(……これしかないか。ごめん二兄!)


 悩み抜いた結果、おじさんに罪をなすりつけるしかなかった。母親の前で、あくまで被害者を装って叫んだ。


「た、助けてお母さん! 二兄に食べられちゃう~っ!」


 妹の声で、おじさんはハッと我に返った。


「み、三実⁉ わわっ、近い!」


 なぜ妹を押し倒しているのか――。やはり身に覚えがなかった。たった今至近距離になったかのように驚いていた。


「はっ!」


 何者かの気配を感じ取る。恐るおそる、三実から顔を上げてみると……。


「!」


 そこには、驚きに目を見張る母親の姿があった。妹をソファーに押さえつけるおじさんの姿を、れいははっきりと目撃した。


「じ、二郎……」


 信じられないものを見る目で呟いた。おじさんは一瞬で目が覚めた。


「ち、ちが……。違うんです母さん!」


 慌てて誤解を解こうとする。れいはひと呼吸して気を落ち着けると、おじさんの方へゆっくりと歩み寄った。


「何が違うのかしら……。言ってみなさい」

「え、えっと……」


 なぜこんな体勢になっているのか――。説明したくても、おじさん本人にもさっぱり分からなかった。


「き、記憶にございません……」


 嘘は言っていない。しかしその言葉は、聞く者にとっては悪質なごまかしでしかなかった。れいからにじみ出る不穏な空気が濃くなっていく。


「……ねえ、二郎」

「は、はいっ!」


 大事な一人娘を守るため、綺麗で優しい母は鬼になった。パキポキと手を鳴らしながら尋ねた。


「人の記憶って、何回叩けば戻るのかしらね」


 怒りの鉄槌を予感して、おじさんの顔は真っ青になった。興奮の汗は冷や汗に変わっていた。


「か、母さん……。僕は、昔のテレビじゃないですよ……?」

「そうね。テレビは口応えしないものね」

「こ、故障が直るどころか、スクラップになってしまうかも……」

「大丈夫よ。うちにはもっといいテレビが2台もあるから」


 長男と末っ子のみを残して、次男は廃品回収に出されるらしい。その運命を察して、体から力が抜ける。


(今だっ!)


 その隙に、三実は兄の下からすり抜けて脱出した。おじさんは抜け殻のようになっている。


「三実、廊下に避難してなさい」


 おじさんに申し訳なさを抱きつつ、母の指示通りに部屋を出た。


 兄を元気づけるはずが、どうしてこうなったのか――。扉を閉めた三実には、心の中で謝ることしかできなかった。


(二兄、ほんとごめん!)


 その直後、ドアの向こうから断末魔の叫びがつんざいた。

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