5三実「そ、そんなわけないじゃん! お母さんどうぞ」

(やっぱり、こいつを使うしかないか。この……)


 白衣のポケットの中で、三実はお手製の錠剤に触れる。心の中でその名を呼んだ。


(三実ちゃん製薬『ゲンキナール』を!)


 兄が元気なるようにとの願いを込めて、科学部の部活で生成したものだ。あらかじめセットしておいたコーヒーメーカーを確認する。


(沸いてるね。よーし!)


 準備は整った。おじさんを一瞥いちべつすると、冷たい声で作戦を始めた。


「そこに立ってられると邪魔。座れば」

「あ、悪い……」


 ソファーへと移動する彼。その間に、三実はマグカップを二つ取り出す。できあがったコーヒーをそれぞれに注いだ。


(学校じゃビーカーで淹れるから、カップだと変な感じだな~)


 チラと兄の様子を確かめる。ソファーに座って深くうなだれていた。妹に対する情けなさや申し訳なさでいっぱいのようだ。


(今だ! 二兄にーにいの方にだけこれを……)


 ポチャン。


 片方のカップに入った『ゲンキナール』が、コーヒーの熱であっという間に溶けていく。そのカップを持って近づくと、無愛想に突き出した。


「ん。飲めば」

「え、俺に? ありがとう」


 普段は辛辣しんらつな妹から優しくされて、コーヒーを受け取ったおじさんはじーんとなっていた。


(二兄のこと好きだって感づかれたら、一緒に暮らせなくなるかもしれない。他意はないって念を押さなきゃ!)


 母のいない場でも徹底していた。


「言っとくけど、量間違えただけだから。もったいないから手伝えってこと」

「うん。それでも嬉しいよ」


 湯気の立つコーヒーをありがたそうに飲んでいた。


(キュン! へこんでる時でもそんな風に言ってくれるなんて……。やっぱり二兄は優しいよぉ~!)


 いつの間にか三実の方が元気になっていた。


(三実も一緒に飲もうっと!)


 薬を入れていない方のコーヒーに、砂糖とミルクをたっぷり入れる。


(二兄はブラックが好きなんて大人だなぁ~。かっこいい!)


 兄の姿は何でも魅力的に映るようだった。


「ずっと立ってて疲れた。ちょっとズレてよ」


 長いソファーには十分ゆとりがある。さりげなく隣に並んだ。


(疲れたって名目で座るんだもん。くっついても怪しまれないよねっ!)


 ここぞとばかりに体を密着させる。自分のコーヒーを飲みながら、彼の横顔をチラチラと覗いた。


「……ん? どうかしたか?」

「は、はあ? 別に何も」


 薬が効いているかどうかを確かめているようだ。


(……実験が成功してれば、だんだんいい気分になるはず)


 自己流の科学を総動員して作った逸品だった。


(三実にはこんなことしかできないけど……。これで二兄が、いっときでも楽になってくれたらいいな……)


 自分がそうしてやったと、彼が気づかなくてもいい。愛しの兄が穏やかになってくれれば、それだけで十分幸せだった。


「……なあ三実。このコーヒー、砂糖とか入ってるか?」

「え? 入れてないけど。二兄はブラック派でしょ?」

「あ、覚えててくれたんだな」

「べ、別に覚えるってほどのことでもないし!」


 マグカップを見つめるおじさん。その目はどこかうつろだった。


「なんか、妙に甘ったるい気が……。いや、もちろんおいしいけどな」


 三実ははてなと首を傾げた。


(甘い? そんな成分入れたっけ……?)


 薬が正しく作れたのかどうか、徐々に不安になってくる。


(二兄が飲んだ1錠分しか作れなかったんだよね~。本当は治験しなきゃいけないんだけど、できなかったんだよ)


 実験で作ったものは、その多くが偶然の産物によるものだった。勘を頼りに選んだ材料を、目分量で投入していくスタイル。それゆえ、再生産不可能なものも多かった。


 三実は首を横に振った。下ろしたピンク髪がサラサラと揺れる。


(いやいや! 天才博士の三実に限って、失敗なんてあるわけないじゃん! 科学は計算じゃない、愛情だよっ!)


 根拠のない自信だけはあるようだった。が、どうも期待通りのリラックス効果は出ていなかった。


「うーん、なんでだろう……。なんかクラクラしてきたな……」


 マグカップをテーブルに置くと、胸のあたりを押さえて苦しそうにする。


「なんでか分からないけど、体が熱くなってきたぞ……」


 不調を見て取って、三実も自分のカップを置いた。


「だ、大丈夫? 二兄」


 さすがに体調不良を訴えられては、演技も何もなかった。兄を嫌う偽りの妹でも、看病するのは不自然なことではないだろう。


「熱があるのかも。体温計持ってくるね!」


 ソファーから立ち上がって、必要なものを取りに行こうとする。が、おじさんはその手を掴んで制した。


「いや、いらない」

「え? でも……」


 はあはあと息を切らしている。やはり熱があるようで、いくらか汗もかいていた。


「……三実が測ってくれ」


 彼が何を言っているのか、三実にはよく分からなかった。一瞬キョトンとしてしまう。


「? うん、だから体温計を……」

「そうじゃなくて……」

「え……? わわっ」


 急に手を引かれて、ソファーに座らされた。戸惑う妹の顔を、おじさんはじっと覗き込む。その視線は風邪を引いた時のように熱っぽかった。


(こ、これって……。ちょっとおかしくない?)


 予想外の症状に、薬を作った本人も困惑していた。


「ど、どうしたの二兄? なんか変だよ……?」


 おじさんは答えない。うろたえる妹の顔に、ゆっくりと手を伸ばした。


(な、何……? きゃっ!)


 三実の額に触れる。ゆっくりと前髪を持ち上げた。


「こうするんだよ」


 現れたおでこに、そっと自分の額をくっつけた。


「ひゃっ……!」


 思わぬ行動に、三実はパニックになる。視界いっぱいに兄の姿が広がった。


(二兄のおでこが……! て、ていうか近いっ! 近いよ二兄っ!)


 みるみるうちに真っ赤になってしまう。体温を肌で感じてあわあわする彼女に、兄は間近で口を開いた。


「あれ? 三実のおでこも熱いな」


 恥ずかしい事実を指摘されて、少女はますます赤面した。


(当たり前でしょ~っ⁉ こんな風にくっつくの、何年ぶりか分からないよっ!)


 おじさんに熱があるかどうかの測定など、もはや今の三実には不可能だった。すっかり混乱状態に陥っていた。


「き、急にどうしっちゃったの二兄⁉ ほんとに大丈夫なの⁉」


 半ば反射的な動作で、兄との間に自分の手を挟み込む。ゼロ距離のままではどうにかなってしまいそうだった。


「それが……。熱っぽいのに、苦しくはないんだ。なんかこう、ふわふわする……」


 おじさんは若干ろれつが回っていなかった。


「変な気分だけど、嫌な感じじゃない」

「そ、そうなの?」


 健康には問題ないと分かって、ひとまずその点では安心した。しかし、それでおじさんが止まるわけではない。


「に、二兄、いったん落ち着こう? ね? ちゃんと座って」


 おじさんはボーッとのぼせたようになっていたが、妹の言葉にコクリと頷いた。


「……そうだな。ちゃんとしなきゃ」


 言葉が届いたようでほっとした。


(よ、よかった。このままじゃ何というか……。三実の体が持たないよ!)


 安堵する三実の両手を、しかし彼は突然掴んだ。


「え⁉ ちょ、ちょっと二兄⁉」

「……ちゃんと座らせなきゃ」


 口ではそう言ったが、妹をソファーへと押し倒していた。三実には何が起こっているのかまるで分からなかった。


「に、二兄⁉ これ押し倒しちゃってる! た、倒すんじゃなくて、座るのっ!」


(ど、どうしよう! 三実、いったいどうなっちゃうの⁉)

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