おじさん「始まりましたね、じゃないよ!」第2話
「大丈夫だ、誰もいない」
男子トイレの外で控えていたシノを、おじさんが招き入れる。一発でアウトな光景だった。
「パパッと済ませてしまいましょう」
「そうだな」
幸い個室は二つあった。隣り合う個室に、二人がそれぞれ別々に入る。
脱いだ服は、個室を隔てる仕切りの上に引っかけておく。それを相手が着ていくという流れだ。
「……」
パンツ姿になったおじさんは、無言でシノの制服を手に取った。自分が置かれた状況に、改めて疑問を抱く。
(俺はいったい、何をしているのだろう……)
セーラー服、リボン、スカート……。
正真正銘、一点の曇りもなく、現役女子高生の制服だった。それも、ほやほやである。
それを手にしていることは同時に、この制服の主が無防備な姿になったことも意味している。薄い壁を一枚隔てたところで、瑞々しい肢体を露わにしているはずだ。
衣擦れの音が聞こえてくる。下着姿のシノが、おじさんのシャツに袖を通していく光景が目に浮かぶ……。
「はあ、はあ」
動いてもいないのに、なぜかおじさんは息が切れた。脱いだというのに汗をかく。
(い、いかん。いつ人が来るかも分からんのだ。もたもたするな)
着替えが済んでしまえば、男装シノが男子トイレにいても見咎められることはない。
しかし、おじさんは違う。女子高生おじさんが男子トイレから出てくれば、厄介な誤解を招くだろう。
一時的に、おじさんは心を無にした。無事に乗り切らなければ、シノにも被害が及ぶかもしれないからだ。震える指を言い聞かせて、慣れないコーデに身を包んでいく……。
「くっ、ウエストが……」
身長は166cmのおじさんの方が低かったが、腰回りは上回ってしまったようだ。
「どうしよう……」
自分の鞄をまさぐると、輪ゴムがあったので、うまく工夫してスカートのウエストを延長した。
他にも問題がないわけではなかったが、そもそも問題から始まっているようなものである。まずは着ること。多少おかしな点があっても割り切るべきだと考えた。
仕上げにウィッグをかぶって、シノからの合図を待った。
*
『おじさーん。誰もいませんよー』
扉の向こうから、着替えを終えたシノの声がした。周囲に人がいないのを確認した彼女からの、脱出の合図だった。
セーラー服に身を包んだおじさんは深呼吸した。
(よし)
扉を開けると、確かに誰もいなかった。シノは既にトイレの外へ出たようだ。
(スカートって、スースーして落ち着かないな……。歩くとより分かる)
手洗い場の鏡で女装をチェックするかどうか、ちょっと迷った。
(でも、人が入ってくるかもしれないし……。単純に見たくないしな)
結局見ずにやり過ごした。
*
トイレを出ると、身に着けた制服からいい匂いがするのに気づく。全身がふわりと包み込まれた。
(これは……。そう、柔軟剤。柔軟剤の匂いだ。シノのではない!)
そう言い聞かせなければどうにかなってしまいそうだった。おじさんは決してロリコンではなかったが、16歳の少女(の衣服)に包まれて何も感じないわけではなかった。
トントン。
「!」
不意に、何者かに肩を触られた。変態的行為に
(け、警察か? やばい、どうする⁉)
おじさんはパニックに弱い。あれこれ考えたが、結局何の策も浮かばなかった。
背後の何者かが前に回る気配がした。恐怖のあまり、目を
(南無三っ……!)
緊張の一瞬――。
「? どうして目閉じてるんですか?」
それは聞き覚えのある声だった。
(この声は……)
ゆっくりと目を開ける。そこに立っていたのは――。
「……し、シノ、か?」
思わず疑問形になるほどの、美形のイケメンだった。
端正な顔立ちに、女子としては短い髪。Yシャツにブルーのネクタイ。長身に長い手足で、メンズスーツを見事に着こなしていた。
(ほわぁ……)
おじさんは圧倒されたが、シノは何でもない風に受け答えした。
「他に誰がいるんですか。誰もいないって、合図送ったでしょう?」
「あ、ああ。そうだったな……」
彼女が身に纏うスーツは、確かにおじさんのものだった。普段着ているスーツが、今はやけに上等に見えた。
(着る人が違うと、こんなにも変わるものなのか……)
もはや敗北感すらなかった。何か尊いものを見るように、男装シノに目を奪われてしまう。それを見て、シノは感心したように頷いた。
「おじさん。なかなかいい演技しますね」
「え?」
少し顔を傾けて、戸惑うおじさんを覗き込むようにして見つめた。
「まるで恋する乙女ですよ?」
「! お、おとっ……!」
取り
「おと……大人だから、な。こ、これしきの演技、朝飯前だ」
「あっ、ダメですよ。ちゃんと女の子言葉でないと」
「店に入ってからでいいだろ」
「え? じゃあなんで、乙女の演技してたんですか?」
「ぐっ……」
精神的乙女になっていたのだとは言えなかった。
「し、試運転は、あれだけで十分ということだ。もう準備万端だ」
「うーん。何かしっくり来ませんが、まあいいです」
JKおじさんの姿を確認するシノ。全身をじっくり眺められて、おじさんは胸がドキドキした。
「かわいいじゃないですか。ちゃんと女の子ですよ?」
「そんなわけないだろ」
「自分で見ましたか?」
「いや、余裕がなかった。色々な意味で」
「もったいないですね。写真撮っていいですか?」
「頼むからやめてくれ!」
このうえ物的証拠まで残しては生きた心地がしなかった。
「あ。おじさん、ちょっと」
「何だ、どうし……」
言い終える間に、シノはおじさんの胸元に触れていた。
「ひゃっ……!」
おじさんは思わず変な声を出した。
「な、何を」
「じっとして」
シュルルッ。
制服のリボンを、シノは真剣な目つきで紐解いた。器用な指使いで結び直していく……。
「……」
胸の動悸が伝わりやしないかと、意識すればするほど、おじさんの鼓動は早くなった。
「……はい。少し緩めにした方がかわいいですよ?」
「ど、どうも……」
リボンは結び直したが、ファッションチェックはまだ終わらない。
「ウィッグも、ちょっと整えますね」
「!」
おじさんはカツラを撫でつけられた。視界の隅で、サラサラとした長い髪の間を、シノの細い指が繊細に流れいく。
「……なんかこれ、癖になっちゃいそうです。人にかわいい格好させるの」
「言っておくが、俺は今回限りだからな?」
「もったいないですね。ほかに誰かいませんかね。無理矢理かわいい格好させられたい人」
「いるわけないだろう、そんなやつ」
「やっぱりそうですかね」
「ああ。金輪際現れないな」
「そうですよね」
何か暗示めいた会話ではあったが、今回の二人のやり取りに直接の関係はないようだった。
「そういえば、店内で『おじさん』呼びはまずいですね。何て呼んだらいいんでしょう」
二人が衣装を交換したのは、そもそもデカ盛りチャレンジの挑戦権を得るため。飲食店の中では、それぞれ性別を偽った演技をしなければならない。
「あ。考えてなかったな」
「おじさんの本名教えてください」
「二郎だ。
「漢字は」
「数字の二に、おおざとの郎だ」
「二郎さん」
イケメンに頭を撫でられ、間近で下の名前を呼ばれる……。女子高生に憑依したおじさんの頭は茹で上がりそうだった。
(カツラをつけていてよかった……)
皮肉なことに、普段の髪の長さだったら、耳まで赤くなっているのが丸わかりだった。
「二郎さん……。じゃあ、つーちゃんで」
「も、もう、好きにしてくれぇ……」
ちょうど髪を整えたシノは、改めて女子高生おじさんを覗き込む。おじさんの瞳に映る彼女の周りには、キラキラしたイケメンオーラが漂っていた。
「うん」
出来栄えに目を細めると、シノは満足そうに微笑んだ。
「似合ってますよ、つーちゃん」
ぷしゅーっ……!
おじさんは湯気が出そうなほどのぼせ上がった。
(な、なんというイケメン力……。女だったら確実に惚れていた……)
男に生まれてきてよかったと思った。少女漫画のヒロインの気持ちが少し分かったおじさんだった。
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