第31話 蒼と雪の聖戦
※※※※※※
「はぁ、はぁ、はぁ…………私っ」
誰もいない校舎裏。下駄箱から全速力で離脱してきたからか、とてつもなく息が切れている。
けど、
「チョコレート渡しちゃったっ!」
私、葵木七科は超が付くほど舞い上がってしまっていた。
きっと、この内心は、どれだけオブラートに包んだとしても普段の私とは掛け離れているだろう。それくらいこの思いは特別だった。
「だって、チョコレートだよ。バレンタインデーに、女子が男子に誰もいない下駄箱で…………あぁ」
恐らく、今までそう言ったことに興味がなかったからだろう、誰も聞き手がいないというのに、話が盛り上がっている。
「もしかしたら…………このまま」
絶対にそんな展開はないだろうと、頭では分かっていても思いというのは実に正直で、勝手に理想のシュチュエーションが想像の中を駆け巡る。
チョコレートを渡した翌日の放課後。屋上で、そこには私と灯以外誰もいない。
『葵木、チョコレート凄く美味しかったよ』
『ほんとに? ありがとう!』
『僕も嬉しかった。葵木がここに来てくれて』
『えっ?』
『ずっと、ここで伝えたかった!』
『好きだっ……………………』
「って、そんなわけあるかーい!」
丁度一番の盛り上がりどころというところで、理性がストッパーを掛ける。恐らく、これ以上妄想を広げてしまうと、もう普段のキャラに戻れなくなってしまうところだったのだろう。一応、これでも人脈はそこそこ大切にしているので、いくら何でもここは踏み止まらなければならなかった。
「それに…………」
どうせ、六花だって渡してるんでしょ。
落ち着いて、すぐに姿を現すもう一人の冷たい自分。先ほどまで気持ちが舞い上がってしまっていた分、その落差は実に激しいものだった。
「本命……………………なんだから」
この場にいない彼女に向かってそう呟く。
今、私の脳裏を過っているのはあの時の光景だった。六花が芝野先輩に告白されて、そのまま失踪しかけたあの日。
一緒に、六花のことを探したまでは良かったけど、そこから先はまさにドラマの主人公とヒロインに独壇場。激しい吹雪の中で六花は灯に救われて、そのまま灯に抱き着いて、灯もまんざらじゃなさそうで、遠くから寂しそうに私が見てる。そんな光景だ。
「………………………灯」
私には一つ、確信がある。それは六花が灯のことを好きだということ。
もちろん、本人に確かめたわけじゃないし、物的証拠もありはしない。ただ、感じるのだ。灯に向けられた六花の、いや、私以外の誰かの好意を。
折角、チョコレートを渡したのに。
もう一週間近く前から考えに考えを捻って作った手作りのチョコレート。凄く緊張したし、何度も諦めかけたけど、それでも何とか今日中に何とか渡せた。
それなのに、
もう、灯の手にはそれよりも前にもらった別のチョコレートが乗っかっている。
「…………駄目だ、私」
先ほどまでクラッカーの音に包まれたパーティーの中心にいたのが、今この瞬間には蚊帳の外だ。とてもじゃないけど心地が良いなんていない。
「…………はぁ」
悔しいというより、自分が情けなくなる。今まで、チャンスなんていくらでもあったのに。それを活かせなかった自分が。
「…………私って、バカだ」
これ以上想い纏まらず、といったところか。私は一人、肩を落として校舎へと戻って行った。
「あっ、七科ちゃん!」
下駄箱は敢えて通らずに裏口から教室に入ると、無邪気な声で六花が声を掛けてきた。
「珍しいね、こんな時間まで残ってるの」
「まっ、まぁね。ちょっと、忙しくて………………………」
実際、私は忙しくない。完全に嘘である。とはいえ、今ここで想い包み隠さず「灯にチョコレート渡してきちゃった!」なんて言っても仕方ないだろう。
外堀を埋めてしまおうかと思ったけど、灯の迷惑そうな顔を想像すると行動に移せなくなってしまった。
「そうなんだね。私も今日、日直でちょっと忙しかったんだ。あっ、灯君ってもう先に帰ったかな?」
「灯ならさっき会ったけど、多分もう帰ってるんじゃない?」
「…………そっか」
チョコレートを渡したという事実は言葉の内側に包み隠して、私は灯が帰宅した事実だけを伝える。六花はあからさまなほどシュンとした表情を一瞬作った。が、私を再び視界に入れるやいなや、すぐにその表情は笑顔を取り戻した。
「そうだ! ねねっ、七科ちゃんこれから忙しい?」
「えっ?! 別に忙しくないけど」
咄嗟のことに得意なはずの取り繕いも上手く作動せず、私は冗談を抜いた反応を見せてしまった。
「じゃあさ、駅まで一緒に帰らない?」
まさか、こういう展開になるとは。
驚きと、それから僅かばかりの不快感を隠すように私は偽物の笑顔。ただでさえ気持ちが沈みかけているというのに、そんな状態でいつも通り接することが出来るわけがない。
いや、少なからずあの日から私は六花に普通の接し方が出来なくなっていた。そんな自覚がある。
「いいよ!」
舞代の誘いを了承した私はそのまま彼女と共に下駄箱へと向かった。
「今日…………バレンタインデーだね」
下駄箱に着いたところで、一歩二歩と、六花は私の前を行き、振り返り際に言った。ニコニコとしたその笑みは大胆不敵か、それとも純粋無垢か。
「そうね…………」
思えば、こうして六花と二人きりで帰ることは今までに一度もない。灯が風邪を引いた時は私一人で帰ったし、それ以外の時は基本的に傍に灯がいたからか、凄く新鮮な気持ちだ。
もしかすると、六花もそれに気付いて話題を提示してくれているのかもしれない。推測や期待でなく、可能性としてそれを信じたい自分がいた。
「七科ちゃんは誰かにチョコレート渡したりした?」
「えっ?!」
突然の問いに、素の反応という奴が取り繕うよりも先に飛び出てしまった。
「ちなみに、私は…………」
本当に無邪気で、私なんかには真似できないような輝きを纏って、六花は笑う。もう、眼前に私の望んだ可能性は残っていなかった。
「灯君にチョコレート、渡したんだ!」
息を呑む。
そんなこと、例え事実であったとしても言わないで欲しかった。
「…………そう、なんだ」
さっきまで舞い上がっていた自分が馬鹿みたいに思えてくる。勝手に躊躇って、それでも一歩、自分の意思で踏み出して、想いの欠片を渡せたというのに。
「えへへへ」
分かっていた、私だけじゃないって。これだけじゃ振り向いてくれないって。でも、こうして悪意なき現実を突き付けられると、どうしても心が曇ってしまう。
「あっ、愁斗君にも渡したよ。友チョコだけどね」
灯に続き、愁斗の名前が出たかと思えば、続けるように出てくるのは友達と恋愛対象の差。言うまでもなく、六花の中で愁斗と灯は同一の立ち位置ではない。
「ふ、ふーん…………」
あれ、ここからどんな反応を返せばいいだろう。普段なら半ば無意識にも近い形で口が動くのに、どうしてか言葉が喉を通らなかった。
「…………ねぇ、七科ちゃん」
力なく相槌を打つ私に嫌気でも差したのだろうか。僅かに冷たくなった声で六花は続けた。
「私、灯君のことが大好きなんだ!」
「っ!」
まだ、三か月ちょっとの付き合いでしかない私でも分かる。六花は変わった。例えるなら、冷たい吹雪から盲目の光になってしまうくらいに。
とても無邪気な笑みと底の見えないような想いがそれを裏付けていた。
「今日もね、朝渡したチョコレートほんとに美味しそうに食べてくれて…………」
六花は灯のことが好き。そんなの分かりきっていたことでないか。
「私、凄く嬉しかった!」
止めて、もうそれ以上、言わないで。
ギリギリのところで心の濁流を押し留めていた理性にジワジワ亀裂が入っていく。
どうして、私はこんなに苦しんだろう。六花が、灯のことを好きだからかな。
いや、多分違う。
「あぁ、なりたいなぁ。灯君の彼女に…………」
私も大好きだからだ。灯のことを。
パキ、パキ、パキ、バキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキ
「灯君って彼女いるのかな? いないなら、私…………頑張ってみようかな」
「……………………勝手に、話進めないでよ」
ついに押し留めきれなくなった想いが理性も抵抗も不安もすべてを弾き飛ばし、喉元に引っかかったその言葉は声となった。
「ん? 何で七科ちゃんがそんなこと言うの?」
まだ、六花ほどではないかもしれない。けれど、確かに今この瞬間、私は自分の気持ちと向き合えている。そんな気がした。
心が、叫ぶ。私だって
「大好きだから、灯のこと。六花に負けないくらい」
自分でも驚くくらい大きな声が出たというのに、六花の顔は変わらず笑顔。無邪気なその表情に驚愕のライトが点ることはなかった。
「……………………そっか」
「…………意外?」
いざ、冷静になってみるとまぁまぁ恥ずかしくなる。いくら自分の気持ちに向き合ったとは言え、やはり恥ずかしさは抜け切っていない。
「ううん、そんなことないよ」
まるで、最初から分かっていたかのように六花は答える。さては、私のことを刺激するような言動で誘導させたな。
注意力が著しく欠けていた数十分前の私に喝を入れてやりたい。
「うすうす気付いてたから、七科ちゃんの気持ち」
やっぱりか。
「じゃあ、なんでこんな…………」
「それより、チョコレートは渡せた?」
唐突な話題転換で、六花は私の問いを覆い隠した。というか、チョコレートのことも知っていたとは。何だか、ちょっと怖い才能が垣間見えてしまいそうなので敢えてこれ以上は触れないけど。
「…………渡せたっての」
「そっか。良かった!」
恥ずかしさそっちのけとは言ってもかなり小声でつぶやく私。対照的に六花はまるで自分のことのように声高らかに喜びを顔に出す。
「何でよ…………」
分からなかった。何で、そんなに笑ってられるの。何で、そんなに胸を張っていられるの。
「…………決意表明だから、私の」
おちゃらけた様子一切なし。笑顔はその姿を表情のずっと奥に隠して、無理やり飛び出してきた自信と真っすぐな瞳が私を射抜く。
「えっ?」
「七科ちゃんには、負けない!」
本当に、私って奴はバカだ。
向き合うことが怖くて、触れることも怖くて。目の前の彼女とは比べ物にならないヘタレだ。
張り合いが付かないだろう。
内心の囁きは迷いなくシャットアウトして、私は瞳の中心に六花の姿を据えた。
「私だって、六花には負けない!」
もう、迷わない。もう、逃げない。
夕暮れ雪空のバレンタインデー、二つの決意表明が二人だけの下駄箱いっぱいに響き渡った。
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