第30話 初めての………………
「あっ、灯君おはよっ!」
真っ白な雪が絶えることなく降り注ぐ朝。最寄り駅に着くと、舞代はいつも通り僕に笑い掛ける。
「おはよー」
なるべく、普段通りを装って、僕はだらしなく声伸ばした挨拶を返した。けれども、内心は調子通りのお気楽ムードなど捨て去っていて、朝からどこか気持ちが落ち着かない。
その理由はたった一つだけ。今日の日付、そしてその意味を頭の中で再確認する。
二月十四日。
もう意味は言うまでもない。二月十四日と言えば、思い浮かぶものは一つのみ。
世の男子が揃ってそれぞれの期待に心躍らせるイベント。想い人や友達にチョコレートを作り、もらい。告白あるいは、失恋にまで発展する甘くて、酸っぱくて、苦くて、ドキドキな一日。
そう、バレンタインデーである。
「えーと…………今日も雪が綺麗だなぁ」
お互い無言の空間が気まずくなり、僕は何気ない話題を舞代に振った。ソワソワしっぱなしで家を早く出てしまったせいだろう。普段ならものの数分で電車がやって来るところ、今日は二倍くらいの待ち時間である。良くも悪くも会話には困らない状況が形成されていた。
「あっ、うん! 綺麗だね」
「この時期に雪を見るのってすごく久しぶりだから、ほんとに新鮮でさ…………」
これ、前後文脈とか大丈夫だろうか。不安でも何でもないが、自分にツッコミを入れる。
「そっ、そうなんだね」
舞代が、少しだけ動揺した声で反応する。もしかすると、内心は「何か今日の灯君様子がおかしくないか?」とか思っているのではないだろうか。いや、それならまだいい。
正直に言ってしまえば、『灯君、今日がバレンタインデーだから私からチョコレート期待してるのかな? どうしよう灯君にあげるつもりなんてなかったのに……』が一番恥ずかしいところではある。
「あー、もう二週間もしたらテストかぁ。気が乗らないなぁ」
再び両者沈黙の空気が漂いそうだったので、僕は再び話題を提示。ただ、めちゃくちゃわざとらしい物言いである。そもそも、今日から二週間先のことを考える時点で不自然だが。
「…………うん」
どうしようか、今までチョコレートをもらったことがない僕にはこの後の展開に全く予想が付かない。発想の逆転ということで、敢えて今日の話題に触れてみるか。いや、いくら何でもハイリスクだろ。かと言って、ここで踏み出さなかったら電車が来るまでの間、不自然に話題を振らなければならないぞ。謎な話題を振られまくる舞代の気持ちも考えてみろ。
「…………あはは」
乾いた笑い。脳内会議、結論纏まらず。
いつもならば刹那よりも短いはずの時間が今日はやけに長く感じてしまっていた。
再びの沈黙。
ちらりと、笑みの隙間から舞代の表情を覗いてみる。彼女もまた考え事をしているのだろうか。顔を俯かせて、何かを呟いている。
「……………………大丈夫、私」
極限まで耳を澄ませて、僕はその言葉を聞き取ることが出来た。
瞬間、直感するのは踏み出した感覚。がらりと、この場の空気が変わった。
「灯君は今日、何の日か知ってる?」
「えっ?」
独り言からの思いがけない質問に僕は面を食らってしまう。無論、考えるだけで良ければ、即答は可能だった。
「…………もしかして知らない?」
シュンとした表情に加えてその上目遣い。舞代の持つ圧倒的な可愛さと可憐さが強調されて、思わず目を逸らす。
「えっと、バレンタインデー……………………かな?」
本当は直視して言いたいところ、流れと恥ずかしさに任せて僕は問う。不思議と、間違っていた時の想像は僕の頭の隅にもなかった。
だって、間違ってないもん。
「うんっ!」
舞代はニコッと笑ったかと思うと、舞代はどこか落ち着かない様子で鞄から一つ、ある者を取り出した。
「ハッピーバレンタイン! 灯君!」
シンプルながら綺麗なカラーラッピング。対照的に彩りのあるデザインのリボンを開けると、中には袋に入ったチョコレートクッキーが入っていた。
「これ…………」
夢なのではないか。と、思って手の甲を抓る。けれども、そこには痛覚が伴われて意識もしっかりとしていた。
「うん、チョコレート。手作りだから自信はないけど、受け取ってくれる?」
嬉しい。その感情が、推測も結果も、思考も全てを通り越して、僕の口を動かす。
「もちろんだよ、本当にありがとう!」
「ううん、私こそ、受け取ってくれてありがとう!」
舞代の表情に綺麗な花が咲く。心地よくて、自然と僕の硬まった表情も綻んでしまう。二人して心を躍らせていた。
「あのさ、今から食べていい?」
「ほんと?! 食べてくれるの?」
「うん、僕、身内以外からチョコレート貰ったことなくて。その…………ずっと食べたくてさ」
「そっか…………私が灯君の初めてか」
失礼かとも思ったが、好奇と興味と舞代の笑顔には抗うことが出来ず、僕は可愛いリボンを解きチョコレートクッキーを一つ、手に取った。
細部まで丁寧にトッピングされた表面にザラザラしながらも嫌味のない触り心地。こんなの絶対美味しいに決まっている。
「じゃ、いただきます」
「召し上がれっ」
パクリと一口。案の定、サクサクとした触感とチョコレートのビターな風味、そしてクッキーの甘みが混ざり合った美味なる一撃が僕の味覚を射抜く。
「どうかな?」
「うん! めっちゃ美味しいよ」
手を止めることなく、チョコクッキーを頬張った結果、電車がやってくる頃には舞代からのチョコレートは一つもなくなってしまった。
少しだけが経って場所は学校へと移る。
「おはよ……………………?!」
舞代と共に教室へ入った次の瞬間、向けられるのは数々の冷たい眼差し。痛いというより、受けたこちらまで悲しくさせてしまうような同情に近い弓矢が僕を射抜いた。
「……………………なるほど」
察した、いや、どちらかと言えば僕は彼らに察せられていた。こいつ、女子からチョコレートをもらっているぞ、と。
今なお向けられているこの視線は恐らくドキドキと淡い期待に胸躍らせる男子生徒の集い、そこからの離脱宣告だった。
去年まで僕も同じ立場だったからだろうか。すんなりと納得が行く。もうね、見え方が違うんだよなぁ。気持ちの浮かれ具合や、顔色に決定的な違いが出るから。
「何かすまん」
独り言の謝意を述べて、僕はそれ以上の言及と思考を止める。もちろん、彼らを見下すわけでもなく、そして変に同情することもしない。僕が干渉すべきではない問題であることは言うまでもなかった。
「何か、凄かったね」
隣の席に意識を戻したところで、舞代が何とも言えない表情でそう言った。正直その顔にはもう困惑の色以外ない。
「…………そうなんだよ」
相槌、と言っていいのか分からないけど。とにかく肯定の反応を示す。悠長に「そうか?」なんて返せるわけがないからな。
「よーっす! 灯お疲れ!」
ここで、バレンタインデーだろうが何だろうが全く以て姿、形、態度その他諸々の調子全てが変わらない男、柴山愁斗が登場する。
その手中には数こそ多くないものの確かに複数個のラッピングされた包みが収まっている。隠すこともなければ見せつけることもない、ただ、彼はそれを所持していた。
「お前は相変わらずだなぁ」
確かに、愁斗は性格、ルックス共にかなり良くて学内でもかなりモテる方だが、何というか、この格好に一つの嫌味もない。前に、舞代から鈍感と言われたことがあるが、僕が鈍感だったら、こいつはどうなるのだろうか。もしかすると鈍感の自乗とかかもしれない。
「えっ? 何がだ?」
「いや…………何でもない」
言いたいことが纏まらず、僕は言葉を切る。否、そもそも僕からしたら特に彼に言いたいことなどないのだ。ただ、彼がいつも通りであったから、内心安堵した、それだけだった。
「あっ、愁斗君! はいこれ! ハッピーバレンタインだよ」
丁度愁斗が席に着いたタイミングで、舞代が一つ、鞄から袋を取り出した。それは、朝僕がもらったものよりも若干小さめのチョコレートクッキーである。
「おおー! これくれるの? ありがと、舞代さん!」
愁斗は素直に舞代のチョコレートを受け取ると、手元にあったほかのチョコレート共に鞄の中へと閉まった。
「ちなみに、今日は何個貰ったんだ?」
「今日は舞代さんの入れて五つだな」
「それ全部食べ切れるのか?」
「もちろんさ! 俺こう見えてめちゃくちゃ甘党だからな。チョコレートは専門ど真ん中だぜ! それに、こうなることを予想して昼飯は梅干ししか持ってきてない!」
仮にチョコレートを一つももらえなかったらどうするつもりだったのだろう。というか、それ以前にチョコレートと梅干しという組み合わせが謎過ぎる。
「…………そうですか」
考えることを放棄して、ホームルームが始まるのを待つことに決めた瞬間だった。
「はーい、お前ら、席に着けぇ。バレンタインデーだか、何だか知らないが、取り敢えずテキトーにホームルーム始めるぞぉ」
たとえバレンタインデーであってもこの担任教師はやる気を出すという言葉を知らないのだろうか。もはやホームルームを最短で終わらせることに対する強い信念にすら思えてくる。
「とは言っても、連絡はないから出席取ったら終わりだけどなぁ。えーと、今日の欠席は…………」
「遅れてすみません!」
担任教師が出席確認を始めると同時に勢いよく開く扉。そこから疾風のようなスピードで教室に入ってくるのは葵木だった。
珍しく姿が見えないと思っていたが、どうやら今日は遅刻ギリギリを攻めてきたらしい。
「おお、葵木が来たな。これで全員出席…………っと。よーし、ホームルーム終わり。じゃあなー」
葵木の謝罪を聞き流し、出席確認を終えた担任教師は発言通りホームルームを終了させて教室を後にしていった。
「珍しいな。葵木が遅刻ギリギリって」
喧騒が再び巻き起こる教室内。僕は率直な疑問を葵木に伝えた。
「いやぁ、今日に限って電車乗り過ごしちゃってさ。やっぱり家を出る時間をいつもより十分遅らせたのは無茶だったか…………」
どう考えても無茶だろ、それは。
ボケなのか、分からない葵木の発言に、内心でツッコミを入れる。この状況からすれば当然の流れなのかもしれないが、授業が始まるまでの数分はバレンタインデー、ではなく葵木の遅刻ギリギリトークでもちきりとなった。
時流れて、放課後。
今日がバレンタインデーということもあってか、校舎の内外にはまだ数多くの生徒が残っている。
「さて…………帰るか」
席を立ち、教室を出る。普段なら隣には舞代か葵木か愁斗がいるが、今日は生憎舞代が日直ということで今日は一人帰りだ。葵木と、愁斗も教室にはいないようだが、よく分からない。
一人、廊下を歩き誰もいない下駄箱で靴を履く。
突然だけど、振り返ってみれば今日一日凄かったな。まさか身内以外からチョコレートをもらえるとは、今となっても僕自身、少なからず浮かれている自覚があった。
「ホワイトデーのお返し何にしようかなぁ」
「あっ、灯!」
ずっと先のことを考えていた僕の意識を呼び戻す一声が下駄箱いっぱいに響く。通りの良いその声の持ち主は僕の良く知る人物だった。
「あれ葵木? どうかしたか?」
下駄箱、僕と向かい合う形で息を切らした葵木がいた。通りすがりって感じではなさそうだが、忘れ物か。
「いや…………あの、その」
一歩、二歩と葵木がたじろぐ。普段の強気な様子とはまさしく対照的なその姿にはどうしても目が行ってしまう。
静と寂。
「…………?」
葵木は顔を俯かせて、何も言わない。ただ、先ほどと同じくしてその姿には動揺の色が濃く染み出ている。
「大丈夫、大丈夫だから」
独り言。よく分からないが、多分僕にだって言いずらいことだろう。もしかすると、大事な相談かもしれない。
「……………………よし、もう言える」
決意が固まったのか、黙考していた葵木が顔を上げる。真っすぐできれいな瞳が僕を撃ち抜く、緊張からか少しだけ硬く、そして赤い表情が目から離れない。
客観的な可愛さじゃない、葵木の魅力が正面から見えた気がした。
「あのさ、灯。今日ってバレンタインデーだよね?」
「えっ、そうだけど」
藪から棒な問いに、何と答えたらいいか分からず、飾り気のない反応を返してしまった。そして、その次の瞬間。
葵木が、僕の手を握ってきた。
「はい、これ。受け取って!」
少しだけ、冷たくて、でも柔らかい素手の感触。そして目を落とした先、そこには一つのラッピングされた包みが置かれていた。
「お返し、期待してるから!」
青々と、ただほんのりと赤の残る笑顔を作って葵木はそう言うと、すぐさま校舎の方へと走り去ってしまった。
「…………え?」
一瞬の出来事が過ぎるだろ、これは。
結果として、まともにお礼も言うことが出来ないまま、僕はその後数分、その場から動けなかった。
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