第17話 壊れかけて、それでもまた動き出す
僕は何事にも無気力な少年だった。
いつからか、それはもう覚えてないけれど、多分「怠惰と妥協」という言葉を覚えるのが、早過ぎたんだと思う。気付けば、サボり方まで覚えてしまっていた。
つまらない、頑張りたくない、本当は何もしたくない。
別に特別な立場も特殊な関係性もない、普通の生活。だけど、どう行動しようにもその思いは悪質なストーカーみたく付き纏ってくる。
そのせいか、今まで自分からやりたいことを見つけることなんて僕には出来なかった。やることは常に誰かから求められたことで、そこに心は向いていなかった。
僕はどうすればいいんだ?
いつしか、その問いに答えられなくなってしまっていた。
無論、主体性と呼べるものは到底なくなっていた。だからかな、潜在的に僕は手を差し伸べる誰かを待っていた。
その時が来るまで、僕はそういう生き方しか知らなかった。
『よっ、お前名前は? どこ中?』
意外にも、手を差し伸べてくれる誰かはすぐそばにいた。入学式直後のホームルーム、僕はすぐに隣の席の男子生徒から声を掛けられた。
『佐倉灯。――中』
『へぇー、――中なんだな。あっ、俺は柴山愁斗、――中だ』
まさか、この時は今現在でも話し合うような中になるとは思わなかった。が、確かにこれが僕に手を差し伸べてくれた生徒、柴山愁斗との出会いだった。
正直、ここまで高校で友達が出来ただけでも喜ぶべきことだが、良いことはそれだけに飽き足らず、なぜか入学当初からクラスの人気者だった葵木七科とも時折連絡を取り合うほどの仲となっていた。こっちに関しては愁斗関係なく、きっかけもイマイチよく覚えていないが。
「灯っ、今日の放課後遊びに行かね?」
ただ、こんな僕なんかに手を差し伸べてくれたというのは間違いなく彼らの善意なわけで、僕自身の影響は何一つないのも事実だ。
三人で過ごしていると、たまにそんなことを思ったりする。それが、どこかで拡大解釈されてしまったのだろうか、いや、あるいはついに停滞と怠惰の生活に対する罪悪感が現れたか。
なぜか、高校に入って初めての夏を迎える頃、僕の心の内には少しだけ、今までにない感情が芽生えていた。
こんな僕でも、変われるかな……………………
誰かに相談するわけでもなく、僕は真夏の太陽にそう呟いていた。もちろん、この思いも愁斗や葵木から差し伸べてくれた手に依存したその結果、という自覚はあった。でも、それでも良かった。果てのない嫌気からの脱却。それが僕にはとても輝かしく見えてしまったのだから。
いつか、いつか、いつか。そう考えているうちに、真夏の熱は冷めていく。気付けば、緩やかな秋の流れも終幕に差し掛かっていた。
そして、
『電車、遅いな』
漠然とした決意表明から再びの停滞と堕落を挟んで、迎えた冬の幕開け。僕は一人の少女に出会った。
肩くらいまで掛かるサラサラの純白髪、透き通るような水色の瞳、日焼けなど一つもない程色白い肌に華奢な体躯。
頭の中にあったどんな考えよりも先に、僕が彼女から目を離せないという事実がそこにあった。
圧倒された。彼女の放つオーラに。
異彩、という言い方が正しいのかは分からない。ただ、それに酷似した感覚があった。ただの、日常の一ページで終わる気がしないような気がする。
内心で膨らむ予感に淡い期待を寄せながらも、僕と彼女はそこで別れ…………そして再会した。そこから数時間後、喧騒極まる教室の中で。
『今日から皆さんと同じクラスで勉強させていただきます。舞代六花です。どうぞよろしくお願いします。』
運命的な出会い。そんな痛くて、中二病みたいな言葉が僕の頭に浮かんだ瞬間だった
舞代と出会ってからの数週間は本当に非日常の連続だった。
クラスメイトとの衝突。そして舞代と一緒に早退。まさか、たかが席替え程度であそこまで楽しくなるなんて思わなかったな。期末テストの前は、見た目とは裏腹に勉強が苦手で、皆集まって放課後勉強会して…………何なら、学校サボって四人で勉強したなぁ。そのすぐ後の、マラソン大会は最初から最後まで一緒に走って…………途中で衝突したクラスメイトともしっかり和解できたし。それ以外にも一緒に帰ってもう思い出すこともできないくらいにどうでもいいことで雑談してたっけ。
あぁ、どうしてこんなに思い浮かぶんだろう。
直近だからか、違うだろ。
思い出せって言われても出来ないような無色無臭の日常が、忘れることのできない色のある日常に変わっているから。
その中心、僕の目の前には冬に魅入られた
舞代は手を差し伸べてくれた。愁斗のような友としての手じゃなくて、果てしない停滞と怠惰から僕を連れ出してくれる、導きの手を。
雪色の竜巻が辺り一面を包み込んで、海面が温度をだんだんと失っていく。もう、辺り一面最強寒波なんて言葉も生易しく思えてくるほどの極寒である。
「僕が隣にいる、って…………なんで、分からないの?!」
とても苦しそうに舞代は叫ぶ。うっすらと瞳に溜まった涙は圧倒的な冷気と暴風ですぐになくなってしまうが、それでも彼女が泣いているというのは分かる。
「私なんかに、構ったら駄目だよ、灯君。私は君の手なんか…………眩しすぎて、取れない」
眩しすぎて、取れないか。きっと君と出会う前の僕がそんなこと聞いたら、困惑で死んだ魚のような眼をするかもしれないな。
でも、今ならその言葉、ちゃんと否定できる。
「僕は、眩しくなんかないよ」
「えっ?」
とてつもなく、落ち着いた声を心掛けたからか、僕の短い返答に舞代は少し裏返ったような声を上げた。
「僕は、ずっと停滞の中にいたから。何をしても、全然満足できなくて。でも考えが纏まらなくてさ、誰かのために頑張るなんて以ての外だった」
眩しくなんかない、と言ったときは疑念を含んでいた舞代の視線も今はただ何の含みもなく僕に集中している。
「でも、さ。葵木や愁斗と出会って変わりたいって思ったんだ…………誰かのために、頑張りたいって…………」
安っぽいかもしれない、ベタかもしれない。僕の思い違いかもしれない。嫌な予感ばかりが背中に冷たい視線を送ってくる。
「舞代は、自分のこと「私なんか手を差し伸べられる側だ」って言うかもしれないけど、それは違う」
言葉を続ける。本心のままに。
「この数週間、僕は舞代から手を差し伸べられてたんだ。堕落と停滞と無気力の世界から抜け出してくれる君の手を…………」
停滞と堕落と無気力の世界でたった一つ、差し出された手に、僕は腕を伸ばした。
「舞代六花さん、僕は君のために頑張りたい!」
※※※※※※
私は何も持っていない。
失ったんだ。
取り戻せるわけもない。
けど、孤独はとても怖かった。
表面上であるだけでいいから、隣にいて欲しかった。
いや、むしろ表面上だけの誰かが隣にいて欲しかった。
とにかく、私はあの辛い過去から逃げたかった。
転校初日、私は最寄り駅で電車を待っていた。当時の私は電車が遅延していることなんて知ることもなく、ただ遅い電車に不満を感じていた。
『電車、遅いな』
『遅延してます、電車』
私の他に一人、少し寒そうに待っていた男の子がそう教えてくれた。独り言のつもりで言ったが、わざわざ教えてくれるとは…………優しい人だなって思ったんだ。
これが、私が佐倉灯君の初めての出会いだった。もちろん、この時は別に彼のことなど優しい人程度にしか思ってはいなかった。
転校三日目。不安だった初日と二日目を無傷で乗り切った私は多分少しだけ浮かれていたんだと思う。
だから、やってしまった。
気さくに話しかけてくれた女子生徒が私のことを怯えた目で見ている。周囲の視線が痛い。その光景がひどくあの時と重なってしまって、気持ち悪さが込み上げてくる。これ以上ここにいたら駄目だ、本能がそう言った。
すぐにその場から逃げ出して、気付いたら私は学校最寄り駅のプラットホームにいた。勝手に抜け出したことなんて一切気にせず、ただこれからの不安でボォーとしていたことを覚えている。
『舞代、大丈夫か?』
聞き覚えのある声がして、顔を上げたら隣に灯君がいた。
わざわざ、私なんかのために早退してくれたってことはすぐに分かった。それに、下心とかじゃなくて純粋に心配してくれてたってことも。
『だったら、僕が傍にいるよ!』
私に触れることを恐れないどころか、彼は私の隣にいてくれると言ってくれた。彼の嘘のない優しい笑顔は本当に綺麗で、とても輝いて見えた。
思えば、私の中に特別と呼べるものの片鱗はこの時生まれたのだろう。
この日から、私の中で彼の存在は特別なものになったのだ。
それから今日まで、本当に色んなことがあって、その度に私の隣には灯君がいてくれた。七科ちゃんや愁斗といった共通の友人も出来て…………二人きりの時間が減ったのは少しだけ寂しいけど、それでも嬉しいが私の気持ちとして勝っていた。だって友達や、好きな人と一緒にいれるのだから。
…………でも、普通に考えておかしいよね。
だけど、そんな私にも魔法が解けて現実を見る時間が来てしまった。もちろん、今まで一度だって思わなかったわけじゃない。けど、私はそれを言語化してしまったのだ。疑問の念として。
それから数日、灯君には悟れないように振舞いながらマラソン大会を終えた。もう、これが終わったら冬休み。そしたら少しくらいは何か変わるかもしれない、そんな期待はたった一枚の紙によって打ち砕かれた。
『…………何、こ、れ? どう、いうこと?』
告白。そして、それを見ていたのはその人に恋心を寄せる一人の少女。あの光景がそのまま流れているようだった。
傷が疼くようだった。とても痛くて、涙が出そうだった。不安で全てが虚無に感じる。疑心暗鬼になって、誰も信じられなくなる。私は、また逃げ出してしまった。
体育科裏を去ろうとしたとき、微かに灯君の声が聞こえてきた気がしたけど、私は振り返らなかった。
彼が追ってきてくれてるかもしれない。それが余計に辛かった。彼の手は私だけを引っ張ってくれる手じゃないから。私は彼の特別じゃないから。
あのときみたいに
灯君は眩し過ぎる。
私だから、その理由だけで手を差し伸べて欲しかった。でも、そうじゃないんだよね。
オブラートに包んだ表現でも、心がズキンと痛む。
結局、私は誰かの特別になりたかったのだ。否、誰かなんて抽象的かもしれない。私が特別になりたいのは………………………………たった一人、彼だけだった。
それからしばらく。吹雪く無人の埠頭まで灯君は私を追ってきた。数週間前も確か、そうだったかな。内心は嬉しかった。
けど、同時に状況と言う外的要因がこの結果を与えたのだと考えると、悲しくもなった。悲しくなって、それを全部吐き出した。
どうして、君はここに来たの?
私の気持ちなんて、手を差し伸べる側でしかない君には分からない!
君の手は私には眩しすぎる!
酷いことをたくさん、言った。重い女だと思われたかな、嫉妬深い女だと思われたかな。
でもどっちにしろ彼の特別になれないのなら全部ぶちまけてしまった方が良い。じゃないと、きっといつか痛くなる。
どうせなら、このまま一思いに否定して欲しかった。楽しかったことも全部忘れて、彼の前から逃げ出したかった。
『分かったよ…………』
今までに聞いたことがないくらい低く寂しい声色で灯君はそう言った。
これで、彼ともお別れだ。せっかくだから、せめてもう少しくらいは…………
いや、それは駄目だ。最後の小さな欲でさえも、私は許さなかった。きっとそれは未練になるから。未練があったら、忘れられないから。
あぁ、これから私は彼に見放されるんだ。私は目を閉じて、静かに覚悟を決めた。現実もまた、そこに帰納する……………………そう思っていた。
『やっぱり、僕が君の隣にいるよ!』
だけど、彼の口から放たれた一言は、私の覚悟に冷え来った心を揺れ動かすには十分すぎる衝撃を纏っていた。
やめてよ、そんなこと言わないでよ。悲劇のシナリオはただの妄想になって、灯君の口からは温かい言葉が放たれていた。
どうして、そんなこと言うの。
私は、灯君にとって助ける人の一人でしかないはずなのに。
なんで、私に構ってくれるの?
何で私なんかのためにそこまでしてくれるの?
僕は眩しくない、そんなことない。灯君は十分眩しいよ。
そうだ、彼は十分眩しい。そのはずなのに、なぜか彼の言葉を私は否定できなかった。その直後、彼の語った過去が全て、本当に思えてしまったから。
『舞代は、自分のこと「私なんか手を差し伸べられる側だ」って言うかもしれないけど、それは違う』
あぁ、馬鹿だな。何で、私は気付かなかったんだろう。
『この数週間、僕は舞代から手を差し伸べられてたんだ。堕落と停滞と無気力の世界から抜け出してくれる君の手を』
灯君は十分過ぎるくらいに、私の傍にいてくれたというのに。
「舞代六花さん、僕は君のために頑張りたい」
ありがとう、灯君。私、灯君のこと………………………………
零れ落ちた涙は、周りの氷を溶かしてしまうほどの温もりを持っていた。
「灯君…………」
彼の名前を呼ぶ。私なんかのために、頑張りたいって言ってくれたこと。凄く嬉しかった。だから、このまま黙ることなんて出来なかった。
「こんな…………こんな、どうしようもない私だけど、それでも頑張ってくれますか?」
つい敬語になってしまったけど、そんなの気にしない。涙が頬を伝ってるのも気にならない。
「うん、もちろん。舞代のためだったら僕は頑張れる。だから…………その、さ舞代の手を、取っていいかな?」
駄目な訳ないよ。灯君が私だけの手を取ってくれるなんて、そんなの嬉しくないわけがない。
「これからも、よろしくね。灯君!」
心が、気持が嘘みたいに軽い。でも、嘘じゃないんだよね。目の前で起こっていることは全て、本当のこと。
私は、嬉しさに躍る心のままに笑顔を作った。灯君もまた、それに応えて晴れ晴れとした笑顔を作った。
「こちらこそ。これからもよろしくな。舞代!」
嬉しさが込み上げてきて、涙のストッパーも壊れてしまう。心が高ぶって、気付いたら私は灯君を抱きしめていた。
「うわっ、ちょっ?! 舞代、何を!」
「しーらない!」
困惑しながらも、灯君は私を離さないでいてくれた。だからかな、私はしばらく彼のことを抱きしめていた。それこそ、テンションが元に戻って恥ずかしさから倒れそうになるその時まで。
「色々あったけど、良かった。舞代が元気になって」
私がハグを終えてもどこか、恥ずかしそうな表情をしながら灯君は言う。どうしてかな、先ほどから一向に目が合わない。
「ありがと、でもこれは灯君のおかげだからね」
私は、えへへと笑って見せる。相変わらず、灯君は顔が赤いけど、それでも嫌がってなさそうだから大丈夫だろう。
「…………帰ろっか」
灯君が駅の方を見ながらそう言う。よく考えたら、こんな吹雪の中に長時間いたんだよね。これは早く帰らないと風邪をひいてしまうかもしれない。
「うん!」
私は、笑顔で頷いた。せっかくだから、もっと恥ずかしいことをしても良かったけど…………いや、それはまだいいや。
もう、私たちを囲んでいた吹雪はどこかへとその姿を消していた。
ちなみに、私の予感は的中し、灯君は翌日風邪をひいてしまうのだった。
※※※※※※
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