第1話 冬、雪が舞う
澄み切った青空の下、僕・
不思議だ、周囲一帯には僕以外は誰もいない。人の気配は愚か、動植物も最初から存在していなかったように思える。
「どこだ? ここ」
確か、いつも通り日記を書いてそのまま眠りについたのだが。まぁ、ここは目の前の光景を受け入れるしかないだろう。
「誰か、いませんか?」
張り上げた声に応えるものはどこにも現れなかった。
孤独と不安と、非日常に対する僅かな高揚がそれぞれの体積を大きくしていく。気付けば、殺風景な木々を移していたはずの後方は一面黒に塗りつぶされていた。
「…………あぁ」
いいな。
一般的に見れば絶望的且つ不可解なこの状況で僕はそう、思ってしまった。
高鳴る鼓動を身体で感じる。今まで受け止めてきた現実とは一線を画す、そんな世界にドキドキとワクワクが止まらない。
ここから僕をどこに連れて行ってくれるのだろう。とうに不安などなく、切実な期待は徐々に大きく膨らんでいく。
黒が全てを飲み込んで、モザイクアートのように剝がれていく。
そして紡がれた新たな世界に僕は手を伸ばして、
「あっ」
そこで、意識を現実世界に連れ戻されてしまった。
少しなんて鯖読みも通じないほどの冷気が窓を貫通。そのまま服ごと僕を冷やしてくる。「いくらなんでも寒すぎるでしょ。まだ十二月だよ!」と心の中で叫んではみたが、ちっとも寒々とした部屋に変わりはない。
くしょんっと、鼻水飛沫を撒き散らし僕は素早く服を着替えた。
何で着替える必要があるんだろう? いや、着替えないと寒いし、衛生的にも良くないからです。と、自己解決した結果である。
「っ……………………冷たっ」
寒いのは服の袖を通した一瞬だけ。あとは再びベッドイン。あー、駄目だ。この暖かさ、二度寝不可避としか言いようがない。
結局、次に目が覚めたのはいつも家の玄関を越える時間ジャストだった。
「あー、やばいかも」
生憎融通は利かない。今ここで出ないと電車に乗り遅れる。電車通学だから一本分の遅れはかなりの痛手に繋がり兼ねないのだ。
急いで、布団を片付け部屋を飛び出す。隙間に小指ぶつけた、凄い痛い。
でも、そんなことを気にする訳にもいかず、僕はリビングに降り立った。
「あら? 灯。今日学校じゃなかったけ?」
リビングに降りると、すぐさま母さんが不思議そうな様子で訊いてきた。
「普通に寝坊した。あぁ、ごめん朝ごはん食べてる時間はないかも…………」
もしかすると準備してくれていたかもしれない。そう思うと申し訳なくなって、謝罪の言葉が出てくる。
「いいのよ、気にしないで…………あっ、そうだ! これ持っていきなさい」
昼食用の弁当と水筒の他に手渡されたのは、菓子パンの袋だった。
「この前、ちょっと買いすぎちゃったから。お腹が空いたら食べなさい。それじゃあ、気を付けて行くのよ」
そう言って、朝から元気そうな笑顔で僕を送り出してくれる母さん。ただ、ここでグタグタとしている暇はない。
母さんに手を振り、扉を開き、急いで最寄り駅へと駆け出す。普段なら駅までの最短ルートでしかない近所の裏路地が今日は少し違って見える。いや、正確には家々の屋根に遮られた太陽と外の冷気が相まってとてつもなく寒いだけだが。
「うぅー、寒っ!」
荒めの瞬きの白を纏って消える吐息。鼻腔から垂れかけた鼻水が妙に気持ち悪い。後で、ティッシュかタオルで拭いておこう。
と、この時は全く以て気にしなかったのだが、どうやら僕の鼻は急な気温の変化にはついてこれなかったらしい。これが駅に着く頃になってみれば息を吸えばズルズルと音が鳴ってしまう始末である。
あー、ティッシュ持ってきておいてよかった。
僅かばかりの安堵と共に鼻を嚙む。きっと鏡でも見てみればやや赤みを帯びた鼻周りが強調されているのだろう。流石にちょっと恥ずかしい。
「へっ、くしょん?!」
油断しているところ、不意打ちしてくるのは喉奥から飛び出してきたくしゃみ。あー、これは風邪のひき始めを疑った方が良いかもしれない。
無人改札の駅舎を抜ける。寒々とした海を一望するプラットホームにはいつも以上に人がいない。というか、僕一人だった。
「マジか…………誰もいない」
いくら無人改札の小さな駅だからと言っても普段なら、ほんの数名の客はいるのだが。到着時刻からして、この時間に誰もいないのは不自然である。
外気でひんやりのスマホを開き、運行情報を確認する。どうやら嫌な予感は当たっていたらしく、しっかり遅延していた。
「あぁ、まじかぁ」
幸い、学校にギリギリ遅刻するかしないかの時間には間に合う。が、この季節外れの寒さを直に三十分弱は鬼である。
こんなことになるのであれば、少しくらい厚着して来ればよかった。否、寝坊してかなり焦っていた自分にそんなことを考える余裕なんて一切なかったか。
ベンチに座り、縮こまることで辛うじて寒さを凌いでいる。とは言っても、やはり鳥肌は収まることを知らない。
溜め息交じりの白い息が空へ消える。
眺めたその先から零れ落ちてくるのは雪の粒だった。
「うわっ、まじか」
まだ十二月入ったばっかりだぞ。いくら冬だからってまだ初雪には早いだろう。
だが、そんな俺の見解を察してくれるわけもなく振りゆく雪は線路とホームに積もっていく。勢いを増していることは明らかだった。
「この服装で大丈夫かな………………………」
コツコツ、コツ。小さな駅舎の入り口からプラットホームに入り込む靴音が一つ、僕の他にあった。
スニーカーなどでも、はたまたパンプスや厚底のブーツなんかでもない。どちらかと言えば革靴に近い音。
雪の降りかかったホームで、一人の少女が、真っ白な空を見ていた。
「えっ」
頭の中にあったどんな考えよりも先に、僕が彼女から目を離せないという事実がそこにあった。
肩くらいまで掛かるサラサラの純白髪、透き通るような水色の瞳、日焼けなど一つもない程色白い肌に華奢な体躯。恐らく、客観的に見てもかなりの美人だろう。が、多分、僕が気になったのはそこじゃない。
圧倒されたのだ。彼女の放つオーラに。
異彩、という言い方が正しいのかは分からない。ただ、それに酷似した感覚があった。ただの、日常の一ページで終わる気がしない。
運命。そんな痛くて、中二病みたいな言葉が頭を過る。本来はそういうタイプじゃないんだけどな、僕は。
きっと偶然だ、取り敢えず、そうやって高ぶる気持ちを抑え付けた。
「…………電車、遅いな」
独り言、のつもりだろうか。少女が呟く。暖かそうなダッフルコートの下、あれはどこの高校のスカートだろう。どこか見覚えがあるような気がする。
まぁ、今はどうでもいいか、そんなこと。
「遅延してますよ、電車」
取り敢えず、さりげなくそう返してみた。
「えっ?!」
びっくりした様子で少女が僕の方に振り向く。その反応、やはり気付いていなかったか。
「あぁ、ごめんなさい。突然知らない人に…………」
先輩、には見えないが。一応敬語で話し掛けてみる。
「あっ、いえいえ。わざわざご丁寧に。どうもありがとうございます」
向こうも同じだろうか。慣れていないような敬語で言葉のボールを返してくる。いや、そもそもこの少女は人見知りの類だろうか。話し始めてからずっと目線が明後日の方向を旅している。
「あっ、じゃあそう言うことで」
言葉のキャッチボール終了。
もう少し話してみたい、という気持ちはあるがこれ以上は警戒されてしまいそうだ。
じゃあせめて名前を。いや、あくまで遅延を教えてくれただけの人でしかない僕にはハードルの高いことか。
そもそも名前を聞いてどうする。
解答――――どうしようもない。
慰めるわけでもなく、風が吹きつける。服装も服装なので気温を下げまくる寒さに対応しきれる訳はなかった。
「ううっ、寒いなぁ」
もちろん、そんな声に出してしまうほどの寒さかと言われればそうではない。でも、何となくこの拭えない気まずさが嫌だった。
「…………そうですよね」
先ほどよりも低い声のトーンで一言。言葉ごとその音を掻き消すのは遅れてやってきた電車。
「やっぱり、寒いですよね」
自分の目の前で扉が開く。意外に人の多い車内へ乗り込む直前、その声もそうだが、それ以上に彼女の顔は酷く悲しそうに見えた。
冷たい風と共に勢いよく閉まり、電車は雪を遮断する。窓枠の先、吹き付ける雪景色を眺める僕の中には少なからず興味と呼べるものが存在していた。
※3月23日 修正しました
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