第14話 誘惑~オトナの手ほどき味わってみる?

 次の日の午後──


 約束通り柚の家を訪ねた俺は、上がって待っててと言う玲子さんに促されてそのまま二階へ上がってきた。だが、先日つけた鍵のせいで部屋に入ることは出来なかったのだ。たぶん、玲子さんは部屋の鍵を常に持ち歩いているものだと思っていたのだろうが、あいにく俺はそこまで気軽に入るつもりはなかった。もちろん鍵は俺の部屋に置いてある。


 そのため、部屋の前に腰を下ろしてスマホを取り出し時間を潰そうとした。そこで、花梨に声をかけられたのだ。


「楓~、いらっしゃい。柚、まだ帰ってないよ~」

 珍しく花梨が家に帰っていたようだ。


「なんかね、鍵つけたみたいで柚の部屋入れないんだよね~。漫画借りようと思ったのにさー」

 相変わらず、勝手に入ろうとしている様子で、俺は少し呆れてしまう。


「花梨さぁ、勝手に入っちゃだめだって。柚にだってプライバシーあるんだからさ」

「あー分かってるけどね~、ついね~」

 全く悪びれずに、そんな事を言う姉。


 一応、釘は刺しておこうと思って言ったのだが、「糠に釘」というのはこういうことなのだなという手応えが返ってきて思わず笑ってしまった。笑っちゃいけないんだろうけど。


「ね、おいでよ。柚帰って来るまでこっちでお話してようよ」

 そう言って花梨は、座っている俺の手を取って強引に立ち上がらせる。


 促されて入った花梨の部屋は、柚とはまた違う匂いがした。柚の部屋の香りは洗剤由来みたいだが、花梨のそれはどうも香水由来であるらしかった。少し、刺激的な甘さのある香りが俺の脳を仄かに揺さぶっている感じがした。


 布に包まれた円筒形の椅子を勧められて俺はそれに腰を下ろす。

 部屋の本棚には、なにやら難しい学術書や辞書、最新の情勢を知るためと思われる科学ジャーナルなんかも収められていた。こんな性格だけど、塾にも通わず自力で大学に行けるほど頭のいい人でもあるということに、今更ながらに思いが至る。

 天は二物を与えない、なんてよく言うけどそんな事無いなと、少し嫉妬にも似た感情が生まれてしまった。人格はアレだが、花梨は美人でスタイルも良い。これで頭もいいんだから男なんかいくらでも寄ってくるだろう。寄ってくるのが頭の軽い男ばかりというのは、まぁ……バランスというやつだろうか。


 久しぶりに入った花梨の部屋は、記憶とは違って少し殺風景だった。

 以前は、化粧棚に色んな小瓶が並んでいたが今は見当たらない。今住んでいるアパートの方へ、それらは持っていったのだろう。普段は、用があるときだけこっちに戻ってきて大抵は泊まりもせずにまた戻っていく。

 が、今日はお泊り用と思われる着替えの入ったバッグが部屋に無造作に広げてあって、化粧品の他に服やぱんつなんかがはみ出ていた。どうやら、今晩は泊まっていくつもりのようだ。


 そんな手荷物を横目に、俺は何気なく聞いてみた。

「今日は、こっちに泊まり?」


 花梨はマットレスだけのベッドに腰掛けて、俺に微笑みかけながら。

「うん、明日は朝から出かけるから。こっちからのほうが駅に近いしね。それに、朝ご飯も食べられるし、へへへっ」


 そう言って、嬉しそうに笑っている。

 その様子が妙に子供っぽくて、却ってどきり、とさせられるのだ。どこからどう見ても今風のオトナの雰囲気しか無いのに、たまに無邪気な顔をのぞかせる──こういうところが花梨の掴みどころの無さを助長していると思うのだが。


「花梨、ちゃんとご飯食べてる?」

 俺は、彼女の生活が少し気になって聞いてみた。

 多くの才に恵まれた花梨だが、どうも昔から料理だけは苦手らしい。いや、器用でもある彼女だからやればできると思うのだけれど、面倒くさがって全く手を付けないのだ。若いうちはそれでも良いだろうが、歳を取ってから大変だろうに。と、年寄り臭い心配をしたりする。あるいは……俺自身が少しでも、彼女に対し優位に立てる部分を欲していたのかもしれない。


「うん、もちろん。お腹へったらあたし動けないからね~。インスタントとかお店のご飯ばっかりだけど、あははは」


 ……やっぱりか。

 分かっていたが、無精のお手本のような答えが返ってきた。

 なんとなくだが、彼女にはのようなパートナーが必要な気がする。

「ちゃんとしたもの食べてくれよー? 体壊したらなんにもならないんだからさ」

「だから、ときどきこうして帰ってきて栄養補給してるの」

 全く悪びれもせずに、そんな事をいう。


「楓こそ」

「ん?」

 今度は花梨が俺に聞いてきた。

「あんなんじゃなくてさ、ちゃんとした捕まえなよ~? まぁ、オ◯ホと違って当たり外れはあるかもしれないけどさ~、あはははっ」


 思わぬ話題で切り返されてしまう。

 言いたいことは分かるが、ちょっとだけ、むっとした。

 そして、事実だから言い返すことも出来ない。


 無条件で上から言われるというのは、確かにストレスが溜まることだろう。そういう意味では、正論で殴るといういうのはあまり褒められたことではないのかもしれないな。

 柚の日々のいらだちが、なんだか分かるような気がした。

 しかし、俺にとっては他人であることが幸いし、そんな花梨の懐に敢えて飛び込んでみようという心理が、俺に生まれた。せっかく水を向けてくれたのだ、ここは敢えて甘えたふりして聞いてみようと思った。


「なんか、俺さ。そういうのあんまり、良い事だと思えなくて」

「ん~?」


 多少作為もあるだろうが、俺の神妙な語り口に花梨も少し雰囲気を落ち着かせて聞いてくれた。


「花梨はさ、毎日色んな男と付き合ったりヤったりしてるんだろうけど────」

「いや、言うほどヤってないよ?」

 何故かそこは否定した。

 実際どうかなんて、わかんないけど。


「経験は大事だと思うし悪いことでもないし、多分自慢にもなることだよな? 異性経験が多いって。でも、なんか俺そういうの好きになれなくて。いや、女の子は好きだけどさ──」


 花梨は、頬に手を付きながらそれでも微笑んで俺の方を見ながら話を聞いている。


「──自分を大きく見せるために女と付き合う、っていうの、なんか頭が悪いことと云うか……いや、違うな。そういうので人の軽重を計るような奴は、そもそも生きる上で重要な奴じゃ無いんじゃないかって思ってて。そこを重要視するよりは、もっとこう───」


 花梨は少し呆れ混じりに困った顔をして、


「なんか……拗らせてんねぇ。だから、オ◯ホなの?」

 それを聞いて俺は慌てて否定する。

「いや! あれは、単なる性欲処理というか」


 哀しい男のさがなんだよ。

 偉そうに理屈をこねても、溜まるものは溜まるんだ。


「ま、オ◯ホが悪いとは全く思わないけどさ。楓だったら言えばヤらせてくれる女くらい、結構いると思うけどなぁ」


 だから……そう言うのが嫌なんだよ、俺は。

 話、通じてないのか?


 だが、あえてそこは無視して、俺の疑問をぶつけてみることにした。

「そう言うのって、つらくない?」

つらい?」


 俺は、ある感情が芽生えた時のことを例にとって話してみた。

 子どもの頃(今も子供だが)、トレンディドラマのキスシーンを見た時に不思議な、どうしようもなく処理しきれない感情が沸き起こったことがあった。


 テレビドラマが作り物だ、ということが理解できた頃だったと思う。

 この女優は、好きでもない人とこんな事をしている、と云う事実が心をかき乱したことがあったのだ。そして、それを周囲の人間が普通に見ている、なんならそれをやらせている人間がいるということも。

 感情が伴わない行為を、こうして平然とできる人間がいるということに、その時衝撃を受けたのだ。


 こんなのは一時の心の迷い、或いは初めての情動の芽生え、で済む事象なのだと思う。でも俺は、なぜかそれを引きずってしまった。年齢を重ねれば消えるものだとは思うが、俺は未だにその時の違和感を持ち続けてしまっている。

 客観的な自分が、「これは早く手放すべき感情だ」と言っているのも分かる。それくらい自分でも異質と思える情動だった。だが、何故か俺の心はそれを手放そうとしなかったのだ。


 たぶん、違和感は一旦置いておいて、俺も誰かと突発的にをしてしまえば、青臭い過去になってしまう程度のことだと思う。

 正直なところ、この気持ちを抱え続けているのは自分でも少々辛い。いっそ蛮勇を効かせて風俗にでも飛び込んでしまえば終わる問題なのかもしれないと思ったこともあった。だが、一方ではそんな蒼い自分を大事にしたいという、どうしようもなく甘くて青臭い自分も確かに存在しているのだ。


「今はさ、ちゃんと付き合うんじゃなく……ヤリ友、っていうの? そういうのも普通にあるみたいだけど。なんかそういうのって俺……どうしても、わかんないんだよね。きっと、俺だったら、割り切れないで好きになっちゃうか、すぐ嫌になっちゃうか、どっちかだと思う」


 俺の話を聞いて、花梨は本当に真面目な顔をして聞いてくれた。

 こういうところは、やっぱりお姉さんなんだよなぁと、柚を羨ましくも思う。


「別にあたしだって、好きでもない男とヤってるわけじゃないのよ? 軽いだけ、ていうんじゃなく、あんまり選り好みしないだけ。そこは勘違いしないでほしいなぁ」


 確かに、実際は勘違いかもしれない。

 なんだかんだ、俺はイメージで見ているだけで、実際のところ花梨がどういう男付き合いをしているかなんて分からないのだ。

 柚に聞いた話と、俺がたまたま見た男が立て続けにチャラい系だったため、そう言う印象が根付いてしまっただけかもしれない。


「ま、楓の言いたいことは、何となく分かる」

 そして花梨はポツリとそう言う。

「でも、たぶん……ん~」

 花梨は、これまた珍しく言葉を選んでいた。

「最初のハードルを超える時の、んー……や、違うな。ファーストペンギン的な? 一番最初に、海に飛び込む勇気ときっかけみたいな事だと思うんだ」


 それも、言いたいことは分かる。

 なんのかんのと言っても、俺だってそこに飛び込まない訳には行かない。一生童貞という選択肢だって否定するわけじゃないが、やはり生き物としてそれは不自然だろう。生々しい想像だが、自分の両親だって柚の親だって……そうして俺らが生まれてきたわけだし。


 麻疹はしか、みたいなものなのかな。

 辛いことだけど、誰もが一度はかかる病。

 終わってしまえば一過性。


「別に、誰でもいいからとりあえずヤってこい、って言ってるわけじゃないのよ?」


 ───いや、花梨が言うとそうとしか聞こえないんだが。

 「お前が言うな」という言葉が喉元まで出かかったが、流石に今は違うだろう。


「それに、セックスフレンドって言っても、そこから本気になる事も無いわけじゃないし。たとえセフレでも、嫌いなやつとはそうはならないわけだし……まぁ、お金が絡むとどうなのかは、知らないけど」


 金が絡む……そういうこともあるんだろうな、やっぱり。

 そのことを想像して、また胸がちくりと傷んだ気がした。


「好きな子とか、気になる子がいるなら、別にそういうのは我慢することじゃないって言ってるの。いいじゃない、相手を傷つけたって」

「いや、よくないだろ!?」

 俺は反射的にそう反論していた。

 それこそ、俺が一番嫌うタイプの男のやることだ。欲望に任せて相手を平気で傷つける、そんな男にだけは絶対になりたくないと思ってるのだから。


 だが、花梨は少し怖い顔をして、俺に言った。

「楓さ……? 女が一方的に傷つく側だと思ってない?」

「え?」


 俺は戸惑った。

 そういう観点で物事を見たことがなかったからだ。完全に虚を突かれたという状態だった。


「自分に踏み込んでくれた男が傷ついてない、女だけが一方的に傷つけられてるなんて思ってる頭の悪い女なんか……いくらでも傷つければいいのよ。そんな女は男に愛してもらう資格なんか無いわ、ヤリ捨てられて当然よ」


 俺は、再び驚いた。

 がさつで過激だとは思っていたが、まさか女の内面にここまで切り込んだことを言うとは思っていなかったからだ。


「それに、本当に相手が嫌かどうかは、ぶつかってみなきゃ分かんないじゃない? ほんとは楓とヤりたくてうずうずしてる女だって、いるかもしれないのよ? もしそんな女を知らずに放置したとしたら、それってすごく残酷なことじゃないの?」


 そんなことは……

 無い、とは言えない……んだろうな、たぶん。


「女が肉食化したとか、男が草食化したとか言ってるけど、そんなのてんで的外れよ。そんなの、当たり前のことなのよ」


 俺は、今度はどきりとする。

 今日は、想定外のことばかりだ。


「男と女で役割分担するのは当然のこと。男はまだ産めないからね、それだけはしょうがないの。でもね、それ以外のことはっていうことで何が悪いの? あたしみたいに料理ができない女は結婚しちゃいけないの? ちがうでしょ!?」


「う、うん」

 いきなりの剣幕に、おれは思わず仰け反りながらも頷き返す。


「男が家事に専念したっていいし、女が工事現場で指揮を取ったって構わないの。それくらいは分かるでしょ?」


 もちろんだ。


「だったら、男だけに告白っていう痛みと楽しみを与えておくのは間違いだって、そう言ってるの。いいじゃない女に告白させたって。逆に男だって、告白されたいって思っても良いことじゃない?」


 痛みと楽しみ。

 告白される喜び……。


 言い得て妙だ。

 告白はすごく怖いことだと思う。失敗すればその痛みは計り知れない。一方で、成就したらそれは例えようもない喜びでもあるだろう。その権利が男だけに与えられているのは、たしかに不平等かもしれない。


「女だって、自分から踏み込んで傷ついたりしても良いのよ……傷つきたいわけじゃないけど」


 俺は、素直に頷いていた。


「女が誰でも言い寄られてるってわけじゃないのよ。それにいざとなったら贅沢ばっかりで……少しくらい妥協しなさいってのよ、全く。年収だ顔だ家柄だっていちいち条件並べやがって。そこまで揃ってても、どうせ浮気するくせにね」


 ん?

 それは花梨自身の実体験からくる愚痴では?


 これだけ男好きのする要素満載の花梨ではあるが、頭が良すぎることが逆に災いしているのか、なかなかこれといういい男には恵まれていないのかもしれない。そう考えると、軽い男しか寄ってこないのは、確かに災難とも言えるかもしれない。


「その点、あんたなら将来性もまぁまぁだし? 顔もイケてると思うんだけどね~」


 微妙な評価だが、決して悪い気はしなかった。

 俺は、すっかり花梨の手玉に取られていたのだろう。


「だからさ~……」


 不意に、花梨が立ち上がり俺に忍び寄る。

 そして、手が……下半身に伸びていた。


「ちょっとだけ、味見してみてもいいでしょ?」


 結局それか!?

 いい話じゃなかったのかよ!


「い、いや、そうじゃないだろ……!」


 俺は盛大に呆れながら、花梨の手を躱す。

 が、花梨は執拗に俺の身体に手を伸ばしてくる。


「じょ、冗談はそれくらいに───」

「本気よ~?」


 余計だめだろ!


 花梨の身体が俺に覆いかぶさって、思わず後ろに倒れそうになる。



「何やってるの!!!」



 後ろから大声がして、二人でそちらを見る。

 そこには、部屋の入口からこちらを睨みつけて柚が仁王立ちしていた。


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