第22話 燕荊軻

 曹家領の領都【曹陽】の牢屋  燕荊軻


『英雄将軍。』

 彼は旧申家領の民からだけでなく、大陳国の南方、長南江以南の民からはそう呼ばれていた。

 燕荊軻、それが彼の名である。

 平民に生まれ、申子爵家軍の筆頭将軍までに登り上がった男。

 今まで、魔物や他国から主君や領民を守ってきた英雄。

 彼の民からの信頼は戦いの勝利だけで得られたモノでは無かった。

 農民出身の彼が民の生活を良く知っていた。

 飢饉が起きると、その民の苦しさを領主である子爵に奏上し、年軍の減免や食料の援助などにも尽力した。

 村が魔力階級の高い魔物に襲われると、命を賭(と)して魔物と戦った。

 それは申家領だけでなく、困っている村であれば、他の貴族の領土であっても村の民を救う為に労を惜しまなかった。

 それが、燕荊軻という男であった。

 それが長南江以南の民、特に旧申家領の民にとって、燕荊軻の存在が、曹家の苦しい支配の中で生きる唯一の希望であったのだ。


 その彼が生まれたのは普通の農家で、しかも3男坊だった。

 どこの村も、3男や4男の男が徴兵される。

 彼もご多分に漏れず、成人になると、燕家の3男坊として申家軍に徴兵された。

 子供の頃から、争い事を好まない青年だったので軍に入るのは本意ではない。

 だが、3男坊の自分が徴兵されると覚悟はしていた。それに自分が徴兵に応じなかったら、代わりに誰かが徴兵される。だから、仕方が無いとあきらめていた。


 兵士になった彼は、輝かしい武勲を上げようなんて少しも考えていなかった。

 とにかく、生き残れば良い。

 彼の夢は、兵役の20年間を生き延びて、無事に退役することだ。

 退役すれば、少しばかりの恩賞が貰える。それを元手に畑を買って、細々と暮らすことが彼のささやかな夢であった。


 そんな彼が軍で配置された部署は、彼の希望通りの部署であった。

 彼が配属された輜重(しちょう)部隊は兵糧を運ぶのが主な任務だ。時には工兵として陣地を作ったりするが、ほとんど後衛で、敵と戦うことはない。戦わなくて良いという事は、生き残る可能性があがる。夢が叶う確率があがるわけだ。 

 それに、輜重部隊の兵士はほとんどが農民出身で、同じ心境の仲間がいるのは心強い。彼は輜重部隊で真面目に良く働いた。


 そんな彼に転機がきたのは、彼がまだ10代の頃だ。

 彼の輜重部隊は東の国境を守る国軍へ物資の輸送を命じられた。

 大陳国は聖大陸の中で、守り易い立地にあった。

 南は海で、西には天望山脈である。

 他国と面しているのは北の東だけ、2方面だけに国防を注げばよかったのだ。

 そして、接している国は3つ。

 北の大魏国、北東の大成国、南東の大商国の3国だ。

 長南江より南では、接している国は東の大商国だけであった。


「逃げろ。魔物だ。早く逃げろ。」

 運が悪い事に、彼の部隊は魔物に襲われた。

 東の国境に物資を運ぶ途中、突然現れた3匹の牛の魔物に襲われたのだ。

 輜重部隊は、農民兵の出身者ばかりだ。

 剣なんて持ったことが無い者が多い。

 腰に差している剣を抜いたことが無い兵がほとんどだ。

 魔物が襲って来ると、ほとんどの兵が荷物を放り投げて逃げた。


「とにかく逃げろ。物資は捨てるんだ。命があっての物種だ!」

 輜重隊の隊長が、部下に逃げるように声をかけていた。

 隊長は輜重隊には珍しく、戦う力を持っていた。

 自らが剣を持って殿(しんがり)を務めた。そして、自分が魔物を相手にしている間に、部下を逃がしたのだ。

 もし、襲ってきたのが下級魔力の魔物なら、隊長でも十分に相手ができただろう。

 だが、現れた牛の魔物は、上級の魔力階級の魔物だった。

 しかも3匹もいる。とても輜重隊の隊長が太刀打ちできる相手では無かった。


「早く、はやく、にげ・・・・・。」

 隊長は戦っていたが、暫くすると声が聞こえなくなってしまった。

 牛の魔物が持つ斧から血がこぼれている。

 頭のない隊長が地面に倒れていた。首から赤い血が地面に溢れ出ている。


「グルルルル」

 牛の魔物の一匹は、地面に倒れている隊長の手足を引きちぎって食べていた。

 その姿を見て、皆顔面は蒼白になっていた。中には吐き出す兵士もいる。

 そんな隙を見せた兵士から、牛の魔物の餌食になっていった。

 まだ、牛の魔物は2匹いる。

 吐き出そうと顔を下に向けた兵は、そのまま首を斧で斬られた。

 その光景を見て、悲鳴を上げたり、嘔吐する兵はいない。そんな隙を見せた瞬間、次は自分が同じように首を落とされるからだ。

 

 兵士たちは皆、とにかく走った。

 一歩でも遠くに、牛の魔物から離れるように必死だった。

 牛の魔物にとって、輜重隊の兵士達は美味しそうな獲物なのだ。

 猟師が兔を狩るように、牛の魔物は兵士を捕まえる。そして、鶏の首を絞めるように、兵士は首をひねり殺すのである。

 その後、食べやすく手足をちぎって口の中に放り込み咀嚼をするのだ。

 次々に、兵士たちが餌食になって死んでいった。


「うわっ。」

 荊軻も必死で走って逃げた。

 一緒に逃げている仲間が一人、また一人と脱落して、牛の魔物に狩られていく。

 だが、ついに荊軻の番がやってきた。

 牛の魔物が、彼の頭を叩き潰すように斧を振る。

 彼は剣を抜いて、魔物の斧を受け止めた。だが、牛の魔物の渾身の一撃を受け止めきれるはずが無い。彼は受け止めた剣ごと吹き飛ばされてしまった。


「痛てっ!」

 吹き飛ばされて、着地の際に左手で受け身をとった。だが、飛ばされた勢いが強すぎて、着地の勢いを殺せず骨が折れてしまった。

 ダラッと左手は動かなくなり、右手だけで剣を持って次の魔物の攻撃に備える。

 牛の魔物は荊軻に近づくと、獲物に止(とどめ)めを刺すように斧を高く上げた。


「ガウウウウゥゥ!」

 咆哮を上げて、巨体の牛の魔物がギョロリと彼を睨みつける。

 高く振り上げた斧が今にも落ちてきそうだ。

 あの斧が彼の頭の上に落ちたら、即死だろう。

 剣で受け止めても、あの高さからの勢いなら剣が折れて頭を叩かれて即死。

 逃げても、後ろから追いつかれた所を斬られて即死。

 どちらにしても即死だ。

 彼は死を覚悟して、目をつぶった。


 その時だ。

 無機質な声が聞こえた。

『リミッターが解除されました。』


 その無機質な声が何を意味するのか分からなかった。

 だが、その声を聴いた瞬間。

 彼の体の中を何かが動き回り、体が熱くなった。そして体が急に軽くなった。

 驚いて目を開くと、目の前に牛の魔物の斧が迫っていた。

 彼は条件反射で、斧を避けた。


「なんだ。」

 自分の動きに彼自身が驚いた。

 体が軽い。

 跳躍すると、簡単に魔物の頭の上を跳び越した。

 魔物の動きが遅いように感じる。いや、彼の動きが俊敏になっていた。

 牛の魔物も戸惑った顔をしている。まさか、自分の斧が避けられとは思っていなかったようだ。驚いて、斧を見て首を傾けている。


 その隙に、彼が動いた。

 彼の手に持っている剣は、橙色の魔力色で包まれている。

 彼が牛の魔物の後ろに回って、そのまま首に剣を突き刺した。


「グワアァァァ、・・・・・・・」

 魔物が大声で咆哮を上げた。

 彼は魔物の声に驚いて剣を握っている手を放しそうになったが、なんとか堪えた。そして、首に刺さった剣に力を籠めて、そのまま右に振り切った。

 途中で魔物の咆哮が止まった。

 ――ビシャー

 顔を失った首から、噴水のように緑の血が溢れ出した。

 彼はその緑の血を頭からもろにかぶった。


 ――ドタン。

 そして、魔物の胴体が地面に倒れた。

 魔物の首が、皮で半分だけ胴体に繋がったままになっていた。

 魔物の目の色が、赤から白に変わる。

 目の色が変わるのは魔物の死を意味していた。

 倒れた魔物の首から緑の血が溢れるように地面に染み込んでいった。


「ハァ、ハァ、ハァ、・・・み、見える。魔物の動きが、よく見える。それに、どうしたんだ俺は、いつもと違う感じだ。妙に体が軽い。」

 彼は、自分の体の変化に戸惑っていた。

 (何が起きたか、分からない。だが、立ち止まれば死ぬ。)

 今は自分の体の変化を考えている状況では無い。

 なんとか一匹の魔物を倒した。だが、まだ2匹の魔物が残っているのだ。

 直ぐに、周りの状況を見回した。

 後ろにいる1匹の魔物は、死んだ人間を食べるのに夢中だ。口の中で、「ガリッ、ガリ」と人間の頭を咀嚼している。

 もう一匹の魔物を探すと、もう一匹は彼の元に向かって近づいてきていた。

 彼が倒した魔物の咆哮に反応したようだ。


 牛の魔物が、斧をふり上げて歩いてくる。

 魔物は口を開いて牙を見せ威嚇してくる。

 強者が弱者を見下すような余裕の表情を見せている。

 牙の間には、咀嚼していた人間の赤い血がこびり付いていた。

 さっきの魔物は油断していた。

 その隙を攻撃して倒した。だが、今度は違う。向かって来るの魔物は、明らかに荊軻を警戒していた。

 まったく隙が無い。

 彼は逃げだしたい気持ちを我慢した。今まで、剣を持って戦ったことなど一度も無い。それなのに、魔物と戦って一匹倒したのだ。俺が隊長でも倒せなかった魔物を倒したんだ。もう、十分役目は果たしたはずだ。

 逃げたい・・・。だが、今逃げれば敵に背中を見せてしまう。その隙をあの魔物たちが見逃すはずが無い。ここでは戦うしかなかった。

 今、魔物に背中を見せて逃げるのは愚策だ。


「やるしかない。」

 それに、すでに牛の魔物の間合いに入ってしまっている。

 魔物は、獲物を見る目で彼を捕らえると、斧を振り下ろした。

 その斧の動きが今の彼には、はっきりと見えた。

 体が軽くなっているのか、斧の攻撃を軽く避ける。

 彼には魔物の動きが、鮮明に見えているだけでなく、その動きを遅く感じていた。彼は気づいていなかったが動体視力も上がっていたのだ。

 攻撃を除けながら魔物の懐に入ると、剣を下から振り上げるように胴体を斬った。


「グワアァァァ」

 魔物が断末魔のような咆哮を上げた。

 体を斬ったが、致命傷ではない。

 だが、彼は魔物がぐらついた隙を逃さなかった。

 流れるように、その勢いで剣を横薙ぎに水平に振り払って、魔物の首を刎ねた。


 ――ボトン。

 見事な2つの角を生やした牛の魔物の首が落ちた。

 先ほどと同じように、首から緑の血が噴水のように溢れ出た。

 目の色も赤から白に変わっている。


 ――ドタン。

 首が落ちて直ぐに、魔物の胴体も地面に倒れていった。

 胴体から流れる緑の血が、先ほどと同じように地面の中に吸い込まれていく。


「ハァ、ハァ、ハァ・・・。これで、2匹目か」

 3匹目の牛の魔物がこちらに向かって走っていた。

 さっきまでは食事に夢中だったが、2匹目の魔物の断末魔の咆哮を聞いて表情は変わっている。今までの2匹と比べても、体が大きい。

 どうも、この最後の魔物が親玉のようだった。

 肩で息をしながら、彼は呼吸を整えていく。


「あと一匹だ。死にたくない。」

 腰を低く落として、剣を横に構える。

 1匹目は無化夢中だった。2匹目でだいぶん勘も掴めて慣れてきた。

 牛の魔物の動きがよく見える。

 上段に構えた斧の動きと、牛の魔物の進行方向で彼は魔物の攻撃を読んでいた。

 彼は静かに、魔物の斧が上段から振り下ろすタイミングを待った。

 斧の間合いに魔物が入ると、彼の予想通り魔物が斧を振り下ろし始めた。

 その瞬間、彼は右から魔物の背後に動いた。

 背中に回ると、ガラ空きになった首に剣を突き刺す。

「グワァァァァァ・・・・・・・。」

 最後の一匹の牛の魔物も雄叫びを上げた。

 首に刺さった剣をそのまま右側に斬り裂いた。

 ――ピシャ。

 緑の血が噴水のようにあふれ出して、そのまま前に倒れていった。

 ――ドタン。

 牛の巨体が大きな音を上げて、地面に倒れていった。


 彼も、疲れ果てて、そのまま地面に座り込んだ。

「ハァ、ハァ、ハァ・・・。これで、終わりだ。」

 横で倒れている3匹目の牛の魔物を見て、信じられないようにつぶやいた。

「俺が・・、やったの・・・・。」

 ほっとしたのか、彼は言葉を言い終える前に、そのまま気絶した。


 どれだけ眠ったかは分からない。

 彼が目を覚ますと、目に入ったのは宿営地の天井だった。

「ここは、どこだ・・・。」

 目は覚めたが、なぜここで寝ていたのか覚えていない。

 布団を剥いで体を起こすと、そこは宿営地のベッドの上だった。

 なんでここに居るのか必死に記憶をたどる。

 確か、牛の魔物が現れて、輜重隊の隊長が逃げろと言われて必死ににげて・・・。その後、魔物に襲われて・・・中の良かった仲間やたくさんの仲間が魔物に捕まって魔物の斧で殺された。

 たどった記憶の中からは、そんな事しか思い出されない。


 そうだ、自分も殺されそうになった。

 (その時、なにかの音が聞こえたような・・・)

 記憶は曖昧だが少しずつ思い出していく。

 (そう、何か無機質な音がした。そうだ・・・)

 (それで、それから体が急に熱くなったと思ったら、頭の中に模様が浮かんでいて。その熱い何かが模様に流れ込んで、それから体が軽くなったような・・・)

 だんだん、荊軻の記憶が浮かび上がってきた。

 そうだ、信じられないが、その後、自分は魔物と戦ったんだ。

 はっきりとは思い出せないが、剣を振るって魔物と戦った記憶が荊軻には微かにあった。


(なぜ、俺はここに居るんだ・・・。)

 魔物と戦った処までは少しずつ思い出してきたが、自分がこの宿営地にいる記憶は全く覚えだせなかった。


「おお、起きたか。」

 居眠りをしていたのか、部屋にいた兵士が彼の様子に気付いて声を掛けた。


 「はい。あの・・・、それで、ここはどこですか、私はなぜ、ここに・・・。」


 「待ってろ、直ぐ上官を連れてくる。」

 兵士は荊軻の質問を無視して、誰かを呼びに行ってしまった。

 しばらくすると、厳(いか)つい軍服を着た兵士の上官が扉を開けて入ってきた。


「どうだ。体調は?」

 荊軻はその上官をどこかで見た覚えがあったが、思い出せない。

 軍服には、勲章がたくさん付いている。

 いかにも偉そうな軍人である。


「はい。大丈夫です。直ぐにでも働けます。」


「ほう。それは、良かった。私は穆泗水。将軍をやっている。」

 穆泗水は、彼のベッドの横に置いてある椅子に腰かけた。


「えっ。穆将軍様ですか・・・。なぜ、将軍がこんな所に。」

 彼は、名前を椅子に腰かけた男の顔を思い出した。

 穆将軍と言えば、この申家軍の中でも一番偉い将軍だ。確か、筆頭将軍だ。

 遠くからだが、穆将軍が演台の上で、兵士に号令を下しているのを何度か見たことがある。申家軍の中で一番偉い男だ。

 そんな男がなぜ、この部屋に現れたのかは分からないが、彼は部屋に入ってきた男の正体が分かって緊張した。


「いや、特級魔物の魔牛獣を3匹も倒した男を見に来た。」

 厳めしい顔でニヤリと、悪戯に成功した子供のように微笑んだ。

 顔を怖いが、その仕草が親しみやすそうに思えた。


「魔牛獣を3匹倒した男ですか?・・・」


「そうだ。その男を見にきたんだ。」


「その・・・それって、わ・・・私ですか?」

 彼は自分の事を指差した。


「そうだ、君だ。確か君の名は、燕荊軻だったな。」


「はい、私は燕荊軻ですが、その特級魔物を3匹を倒したのが私なんですか。きっと人違いと思うのですが・・・。」


「いや、残念だが人違いでないぞ。君が戦っている処を見た人間が何人もいる。」


「確かに、魔物と戦ったような気はしますが。でも私は剣も握った事にない農民です。今は申家軍の兵ですが。その私が魔物と戦って3匹の魔牛獣を倒すなんて、冗談にもなりませんよ。」


「でも、見た者がいる。それに、他の連中もお前と境遇が一緒で農民だ。もし、お前で無ければ誰が倒したかんだ。」


「それは分かりませんが・・・、本当に私が魔牛獣を3匹も倒したんですか。」


「ああ、そうだ。見ていた者の証言だと、上手に魔物の背中に回り込んで、首をグサリと斬りつけたようだ。あの鉄の剣で、魔牛獣の外皮を貫いたと言っていた。お前は、いや、荊軻は相当の魔力を持っていて、しかも魔力操作が上手い。そうでないと、あの魔牛獣の首の外皮はこんな鉄の剣では斬れないからな。」


「はぁ、そうなんですか。それで、その魔力操作っていったいなんですか?」

 荊軻は呆れた表情で溜息をついた。


「魔力操作を知らなくて、鉄の剣で硬い皮の特級魔物を倒したのか・・・。まぁ、今まで魔法が使えなかったのだから仕方が無いか。荊軻、お前は相当の大物だ。これは掘り出し物かもしれんな。」

 穆将軍は嬉しそうにほほ笑んでいる。

 厳(いか)つい顔が微笑むと、正直怖い。悪だくみを考えているように見える。


「そうだな、魔力操作は武器に魔力をまとわせたり、体に魔力をまとわせて身体能力を上げたりする力だ。普通の武器に魔力をまとわせると、極端な例で、鉄の武器でもオルハルコンのような硬質な武器と同等の硬さになる。そうでなければ、鉄の武器で特級魔物の外皮は貫けない。鉄の剣が普通は砕けるからな。」


「そ、そうなんですか。」


「それで、荊軻。剣が光ったりしていなかったか。」


「はい、確かに光っていました。」


「そうか、それでその色は何色だ。赤か、橙か、それとも藍色か。」

 穆将軍は喰いつき気味で尋ねて来た。


「あ・・・確か、橙色かと思います。」


「そ、そうか、橙色か。それなら荊軻、お前の魔力階級は王級だ。遂に、我が申家軍に王級魔力の騎士が生まれたか。う~ん、素晴らしい。」

 穆将軍は一人で喜んでいる。


「それで、荊軻。お前は魔力を持っていたようには見えないが。どうやって魔力が発現したんだ。それとも、前から魔力は持っていたのか。それと、お前の両親、いや一族に魔力を持った者はいなかったか。どうやって王級魔力を手に入れたんだ。」

 矢継ぎ早に聞いて、穆将軍が彼を質問攻めにする。


「いえ、その・・・、まず、私の両親に魔力持ちはいません。一族もそうです。魔力の魔の字も関係ない家です。それと、生まれた時から、魔力を持っていると言われた事もありません。今の自分に魔力がなぜあるのか分かりません。ただ・・・。」

 タジタジになりながら彼は穆将軍の質問に答えている。


「ただ、なんだ。」

 穆将軍が顔を寄せてくる。


「ただ、その・・・音が、いや声がしました。無機質な声が。その声が、私の頭の中に『リミッターが解除された。』に語り掛けてきたのです。その声が聞こえたら、急に体が熱くなって。力が湧いて、相手の動きが見えるようになっていました。」

 彼は、覚えている事を全て穆将軍に話した。

 話を聞いていた穆将軍は首を傾げて考えこんでしまっている。


「・・・、分からん。そんな話は聞いたことがない。」


「そうですか。まぁ、そうですよね。」

 彼も自分の話が信じてもらえると思っていなかった。

 彼が逆の立場で同じ話を聞いても、信じないからだ。


「まぁ、その荊軻が感じた不思議な力は、たぶんだが魔力だな。」


「えええ、魔力なんですか。でも、なんで私に魔力が・・・」


「私も詳しくはないが、後天的に魔力に目覚める者もいるそうだ。荊軻の場合は、あくまで仮定だが、死を直面して魔力に目覚めたんだな。その無機質な声が、魔力に目覚めたのを教えてくれたんじゃないのか。『リミッターが外れた』という意味は分からんが。」


「私に、魔力ですか・・・。」

 彼はまだ、状況が呑み込めず、首をひねっていた。

 まぁ、仕組みが分からなくても、何でも魔法で解決されるのがこの世界だ。

 深く考えても仕方がなかった。


「ああ、それと、荊軻。お前は配置替えだ。」


「えっ、配置換えですか。私は何か不味い事をしましたか。」

 彼は輜重部隊を気に入っていたので、今の部署を離れたく無かった。

 それで配置換えと聞いて、左遷と条件的に思った。

 あの魔物の事件では百人近い人間が死んでいる。

 隊長も勇敢に戦って死んで逝った。

 もし、自分に王級魔力があるなら助けられたはずだ。その責任を取らされて、危険な部署に飛ばされるのかと焦ったのだ。


「そうだ、配置替えだ。今までのような後方部隊ではなく、君には前線で働いてもらう。」


「えっ、前線ですか?」

 彼は絶句した。

(やっぱりそうだ。前戦は死ぬ確率の高い部署だ。俺は危ない部署に飛ばされるんだ。やっぱり、あの魔物だ。まぁ、たくさんの人間が死んだんだ。生き残った私が責任を取るのは仕方が無いか。)

 身に覚えがあるだけに反論もできない。

 あの事件では、隊長を始め多くの仲間が死んでいる。

 生き残っただけでも儲けモノなのだ。左遷くらいで文句を言っていたら、死んで逝った隊長たちに申し訳が立たない。

 それに、文句を言うとしたら、相手は筆頭将軍の穆将軍だ。文句を言う相手にしては身分が高すぎる。

 ただ、何をやらかしたかは聞いておきたかった。

「あ、あの・・・、穆将軍。私は何かやらかして、前線に左遷されるのでしょうか。」

 恐る恐る穆将軍に聞いた。


「はあ?左遷じゃないぞ。」

 穆将軍は左遷と聞いて不思議な顔をしている。


「それなら、できれば今の部署が良いんですが。」

 前線に向いていない事は自分が良く分かっている。

 この部署で20年間を無事に過ごすのが彼の夢である。左遷で無ければ、この部署にいさせて欲しい。


 将軍は首を傾げている。

「それは無理だな。この申家軍は、王級魔力の騎士を後方の輜重部隊で遊ばせていくほど、人材に恵まれておらんのだ。輜重部隊はあきらめろ。」


「誰が王級魔力の騎士なんですか。」

 騎士と聞いて、思わず聞き直した。

 騎士とは鎧に搭乗する操縦者のことだ。軍の中でも家柄の良い優秀な人物にしか成れない。逆立ちしても、農民出身の兵士が成れるモノではない。


「王級魔力の騎士なれるのは、この申家軍の中に一人しかいないな。」


「私ですか?」

 彼は自分を指差して、再び首を傾げた。


「君は勘の鈍い男だな、燕荊軻。王級魔力の騎士とは君のことだ。君が後方部隊から、鎧騎士部隊の騎士に異動だ。さっきも言ったが、伸家軍では王級魔力の騎士を遊ばせておくほど人材に余裕がない。反論は許さん。これは決定事項だ。」


「へっ・・・」

 彼は思わず、変な声を上げた。

 逆立ちしても成れないはずの鎧騎士の部隊に、自分が異動だと言われたからだ。

 騎士になると、名誉だけでなく、収入も各段と上がるし、場合によっては陪臣に引き立てられる特権もある。

 もし、申家軍の陪臣に引き立てられれば、子孫も安泰だ。

 申家軍の中で、鎧騎士部隊の配属を望まない者は彼以外にいなかった。

「はあ、私が鎧騎士部隊に異動ですか・・・。」


「そうだ。嫌か。」


「はい、嫌です。私などに騎士が務まると思えません。」

 騎士に異動すれば、待遇が良くなり実家への仕送りも増やせるかもしれない。

 だが、それ以上に彼には自信が無かった。

 彼は元々、農民の三男だ。良く分からず、牛の魔物を倒したが、同じことをもう一度やれと言われてもできる気がしない。

 騎士と言われても、困ると言った処が気の弱い彼の今の心情であった。


「まぁ、そう言わず、まずはやってみろ、荊軻。これはさっきも言ったが、決定事項で反論は許さん。だが、どうしても無理なら、また言って来い。その時は配置換えを考えてやる。何かあったら、俺が相談に乗ってやるから頑張れ。」


 そこまで、申家軍の一番偉い将軍に言われると彼も断れなかった。

「分かりました。やってみます。」

 結局、彼は騎士への配置換えを受け入れた。


 彼が鎧の騎士になると聞いて一番喜んだのは、彼の両親や村の人だった。

 両親は仕送りが増えると聞いて、生活が良くなると喜んでいた。

 村人たちは、自分たちの村から騎士が出たと大喜びだ。


 だが、そんな彼を快く思わない連中もいた。

 先祖代々から申子爵家の陪臣家の者たちだ。

 代々からの陪臣家の者たちは、騎士になることを誇りに感じている。

 それが、農民出身者が騎士になると聞いて、誇りが傷つけられた気がしたのであろう。陪臣家の者たちが強く反対した。申子爵家に直談判するくらいだ。

 最終的に、申子爵と穆将軍の2人が陪臣家の家臣をなだめた。

 2人が言ったのは、『反対するなら陪臣家の者たちが昇華を行って、魔力階級を王級まで上げろ』ということだ。

 それを言われると、今まで騒いでいた陪臣家の者も何も言えない。

 

 貴族軍の箔をつけるのは、力を示す事だ。

 力を示すのに一番分かり易いのは鎧騎士の数だ。だが、鎧騎士の数は王国によって家ごとに数が決められている。それに、金もかかる。

 次に力を示すの目安が、鎧を操縦する騎士の力だ。これは、王国にも決まりはない。神級魔力の騎士は何人までしかダメだとは決まっていないのだ。

 そこで大陳国の貴族軍で、神級魔力の騎士を抱えている貴族軍が力あるという事になる。神級魔力の騎士を抱えているのは当時は蔡家、蘭家、楊家、趙家、羅家の5家であった。

 その中でも蔡家は5人の神級魔力の騎士を抱えて突出していた。

 他の4家には各家一人ずつの神級魔力の騎士がいた。


 申子爵家にとって、その中で何より目障りだったのは羅家である。

 羅家は格下の羅男爵家で、自分と同じ南3家の楊公爵家の寄子の一家である。

 その羅男爵家には神級魔力の騎士がいるのに、子爵の申家には王級魔力の騎士すらいなかった。

 神級魔力の騎士がいなくても、曹家や虞家、清家のように王級魔力の騎士がいれば、まだ貴族軍の中ではマシに扱われる。

 上から3番目の魔力階級の将級魔力の騎士しかいない貴族軍は雑魚扱いだ。

 そして、御多分に漏れず申家軍にも将級魔力以下の騎士しかいなかった。それが負い目になっていた申家軍にとって、王級魔力の騎士の出現は宿願であった。

 陪臣家の者が農民出身の騎士に反対しても、ならば誰かが王級魔力まで昇華しろと言われれば、陪臣家の者共はぐうの音も出なかったのである。


 彼は騎士になって陪臣家の者に陰口をたたかれることは会っても、露骨な嫌がらせは無かった。そこは、申子爵の命令が徹底されていた。

 だが、陪臣家の者たちの態度は、意図的に彼を無視したものであった。どこか仲間外れと言うか、溶け込めない雰囲気を醸し出していたのだ。

 食事の時は、彼だけいつも食堂の片隅で、一人で食べていた。

 打込稽古相手もいなかったので、黙々と一人で素振りを続けた。

 彼は部隊の中で誰かと話すことなかった。

 それでも彼は不服を言ったり、めげることでは無かった。ただ訓練に集中する事で気持ちを紛らわし、一日訓練に明け暮れる生活を過ごした。


 そんな彼にとって、唯一の救いは、穆将軍が目をかけたことであろう。

 穆将軍は何かと彼を気をかけた。話し相手にもなったり、時には訓練の練習相手になったり、彼が一人でいると声をかけた。

 それに穆将軍は、よく彼を家にも招待して食事を振舞ったりもした。

 彼が家にくると、穆将軍の息子の穆珪臣が練習相手を務めた。穆珪臣は軍の中でも彼によく話しかけていたのでお互いに良く知っている。

 彼にとって、穆将軍の家が心地よかったのかもしれない。


 軍で孤立するのは悪い事ばかりではない。

 反って良かったこともある。

 それは、武術と魔法の訓練に集中出来ることだ。

 1人で黙々と訓練を行った結果、短時間で武力と魔法の力が大きく伸びた。

 彼の一日は、寝るか、訓練か、食事のどれかだ。

 練習相手も、穆将軍や穆珪臣が引き受けてくれる。この2人は武術の腕は申家の中で非常に高く、教えるのも上手い。

 習ったことを、自分の力になるまで集中して反復練習を行った。


 孤立しているお陰で、集中できる時間は多い。

 それに、彼には武術の素質があったのかもしれない。スポンジが水を吸収するように、彼は武術の技や型を吸収していった。

 武術以上に適正があったのは魔法の方だ。

 彼は魔力に目覚めたと同時に、魔力操作を器用に使いこなしていた。

 そのお陰か、魔力操作を必要とする『身体能力強化』魔法や、自身の属性である土属性の魔法を直ぐに使いこなしていた。

 日中は、軍で戦闘の訓練。その後は、一人での反復練習。夜は、寝る時間を惜しんで魔法の訓練。一日中訓練に明け暮れた。

 そのお陰で、彼は短期間で武力と魔力の力を大きく伸ばしたのであった。


 そんな彼が、申子爵家の中で頭角を現したのが『死海の森の戦い』である。

 今から約10年前。

 大陳国が、南東の小国である大商国に攻め込んだ戦いでだ。

 大商国との国境は、楊公爵家の管轄であった。大陳国では、隣接する3国の対応を3大貴族が受け持つことになっていた。

 北の大魏国が蔡辺境伯家。

 北東の大成国が蘭辺境伯家。

 そして、南東の大商国が楊公爵家の管轄である。

 慶之の父である楊公爵が国王に奏上し、大商国攻めを決めたのであった。

 大商国は人口や国土の国力は小さく大陳国の半分の国力しかないが、商業で栄えている。それに、東も南も海に囲まれて他国から攻め込まれにくい地形である。

 大陳国が大商国を併合しても、国境が接する敵国が増える心配もなく。国土を拡大する為に侵攻するには一番好都合の国と言って良かった。


 そして侵攻軍の総司令官は、この侵攻を奏上した楊公爵であった。

 大陳国はこの侵攻に対して、鎧騎士2千騎、歩兵20万の戦力を集めて、侵攻軍を編成した。

 対する大商国が集められた戦力は鎧騎士1千騎、歩兵も10万。

 国力が大陳国の半分の大商国が集められるギリギリの戦力であった。大商国は東と南を海に囲まれているとはいえ、北には大成国が控えている。

 全ての戦力を大陳国との戦いに投入するわけにもいかず、大陳国の約半分の戦力しか投入できなかった。


 国軍と貴族の2つの戦力で編成された大陳軍は東に向かって進軍した。

 この軍の編成は、大陳国に限らずどこの国でも構成は同じである。

 軍の割合が貴族軍の方が多い国、もしくは国王の国軍の方が強いかは、その国によって異なる。

 今回の大陳国は、国軍の鎧騎士千騎、貴族軍の鎧騎士千騎の半々の割合である。

 そして、今回の貴族軍は、楊公爵家の軍を中心に、寄子の南3家、それに北の蔡辺境伯家やその寄子の曹家などの大陳国中の貴族軍から成っていた。


 大陳国の侵攻軍が、当時の東の国境線である桂長江沿いに陣取りを行った。

 桂長江は聖大陸を南北に流れる河で、長南江から南の海へと繋がっている。

 この聖大陸では、西から東に流れる3大河が有名である。

 一番北にあるのが長北江。聖大陸の中心を走るのが黄華江。そして、一番南にあって大陳国の中心を走るのが長南江である。

 そして、この桂長江は西から東に流れる3つの河を南北に繋いで、最後は海に出る。千年前に始祖が物流を考えて作った河との言い伝えがあった。


 そして、大陳国と大商国の戦いは何百年も前から、いつもこの桂長江を境に東西に分かれて繰り返されてきた。

 大陳国の総司令官は楊公爵である。彼は、桂長江の西岸に数千の船を並べて、桂長江の渡河を企てた。

 対する大商国の総司令官は、西に領地を持つ大貴族の張公爵であった。

 彼は桂長江の東岸に、魔弾砲や実弾砲をメインに並べて、軍船を近くに控えさせて迎撃を行う構えで待っていた。


 実弾砲とは、魔法では無く火薬で砲弾を放つ大砲である。

 魔力の威力で攻撃を行う大砲が魔弾砲、火薬で攻撃を行うのが実弾砲である。

 実弾砲は魔弾砲に比べて、火薬のコストがかかり、重たく輸送に難儀。その上、飛距離も魔弾砲に比べ短いので、あまり実戦に投入されなかった。

 だが、魔力を持たない者でも使用できるので、輸送の必要の無い国境沿いの防衛に使われることはあった。


 戦いは、大陳軍の渡河作戦から始まった。

 千隻近い軍船が西岸から離れ、東に向かって前進を始める。

 桂長江の河幅は大きい。東から西に流れる3大江には敵わないが、それでも反対岸が見えないほどの河幅はある。

 大陳軍を指揮する楊公爵は、大商国の防衛陣が見える位置で軍船の進軍を止めた。この位置なら、大商国の東岸の魔弾砲の射程距離に入っていない。

 旗艦の楼船(ろうせん)を中央に、露橈(ろとう)、艨衝(もうしょう)や艇(てい)などの軍船が桂長江に並んでいる。

 大商国の東岸の陣から見ると圧巻の大軍勢である。


 大商国の司令官の張公爵も味方が敵の軍容に飲まれないように声を荒げる。

「魔弾砲はいつでも砲弾を発射できるように魔力充填を開始!実弾砲も砲弾を撃てるように準備をしておけ!一隻も敵をこちらに侵入させるな。」

 張公爵も大商国の旗艦の楼船に乗り込んで指揮をしていた。

 東岸には300砲の魔弾砲と200砲の実弾砲を並べ、桂長江には500隻の軍船が浮いている。砲弾数なら大陳国と互角。

 河の戦いでは、鎧騎士の出番はない。砲弾の数が勝負を決めるのだ。

 その意味では、大商国は大陳国と互角の戦力で対峙していた。

 その上、桂長江の水の中には渡河を阻止すべく、網や岩などの罠も配置してある。

 大商国にとって、桂長江の防衛こそが、国の防衛に直結している。今まで何回もの大陳国の侵攻を、その都度、この桂長江で撃退してきた自負があった。

 今回の大商国の迎撃態勢も完璧であった。


 大陳軍は、射程距離の外から動かず、その日は夜を迎えた。

 大商国は警戒を緩めず、百隻近い艇(てい)を警戒にだしていた。松明の火を燃やして、明々と東岸を照らしている。

 夜襲に備えた警備は万全であった。

 だが、その日の大陳国の動きはなかった。

 陽が明けて東岸から見ると、千隻近い大陳国の軍船が並んでいる。

 東岸の大商国から見る、軍船が並ぶ光景は圧巻である。

 いつ、動き出して攻撃してくるか分からない。

 その圧迫感は相当に大きい。

 大商軍からは攻め込まない。いや、攻め込めないのだ。

 大商軍から船団で攻め込むと、東岸の魔弾砲や実弾砲が使えないからだ。大商国からの攻撃は、大陳軍にとって思う壺である。

 大軍の軍船に睨まれる圧迫感に耐えて、待つしか無いのだ。


 翌日も、大商国は東岸の警備を怠らず、万全の態勢で大陳国の侵攻に備えた。

 大陳軍側は、楊公爵の旗艦の楼船を中心に、今にも千隻近い軍船が攻め込んできそうである。

 大商軍は魔弾砲に魔力を充填し、実弾砲にも砲弾を入れ迎撃の準備を怠らない。

 だが、その日も大陳国の軍船は動かなかった。

 静かに、東岸に向けて軍船が並んでいるだけであった。

 

 3日目になっても、大陳国の動きは変わらなかった。

 一切、砲撃の射程距離の位置から東に進もうとはしなかった。

 大商国も士気が緩み始めた3日目の夜中。

 その伝令が張公爵の耳に入った。

「張公爵、大変です。」

 伝令兵が旗艦である楼船に乗り込んできて、張公爵の寝室の扉を叩いた。


 がバッと目を覚ました。

「中に入れ。何があった、報告しろ。」

 こんな夜中の報告とは、よほどの重大な緊急の報告しか考えられない。

 張公爵は軍服に着替えながら、話を聞く。

 

「それが、大陳軍が桂長江を渡河しました。」

 伝令兵の報告を聞いて、張公爵は直ぐに西の桂長江を見た。


「何を言っているんだ。大陳国の軍船は動いていないではないか。」

 張公爵は、桂長江に見える大陳国の軍船の大船団を指差した。

 大陳軍の動きは無いが、警戒は怠っていない。


「違います。張公爵。ここではありません。」

「戦場はここしかないぞ。どこで戦いが起きているのだ。」

 伝令兵の言葉に首を傾げる。


「桂長江沿いの、ここから北の漁村です。大陳国の軍船が渡河したのは。」

「なに、ここから北だと・・・。それでは戦場以外の場所に奴らは渡河したのか。」

 張公爵の頭の中に、桂長江の地図が浮かんだ。

 この大商国と大陳国の国境を通る桂長江の長さは数千キロにも及ぶ。

 今まで大陳国が攻めて来るのは、大商国の軍営地の対岸しかなかった。

 それには、大陳軍の戦略上に必要なことであった。

 後方に大商軍を残せば、兵站が確保できない。その上、西の敵を残して東進すれば、東西から挟まれてしまう可能性がある。だから、まずは大商軍の軍営地を潰さないと、東進はできないのである。

 今まで、数百年に及んで同じ戦いが行われ、大陳軍はこちらの軍営地の反対側からしか攻めてこないと思い込んでいた。事実、今回も反対側から攻めてきた。


 張公爵の額から冷汗が流れた。

 桂長江が流れる国境線は数千キロある。

 もし、大陳軍が桂長江の渡河だけを考えれば、一番防衛が厚い場所から攻め込むのは愚かだ。別の地点から渡河すれば良いのだ。

 「やられた。」

 大陳国の国境の軍営地の対岸に大商国の軍営地が築かれていた。それで、大商国と大陳国の戦いは、過去数百年に渡ってこの軍営地を挟んだ領域で行われていた。

 だが、別にこの領域しか軍が渡河出来ないわけではない。数千キロに及ぶ大商国と大陳国の国境には渡河できる場所が数十か所はある。その内、何か所には、見張りを置いて狼煙で発信させるように手配はしてある。

 だが、生きる為に魚を獲る漁村を含め、全ての港に見張りと狼煙台を設置している訳では無かった。


「やられた。」

 張公爵を始め大商国の軍部は、大陳国の侵攻ルートを従来同様一本に絞っていた。

 それは別に悪い判断ではない。数百年に渡って、その侵攻ルートしか攻撃を受けなかったのだ。そのルートしか考え無いのがむしろ当然である。

 だが、その常識は敵側にとっては常識では無かったのだ。

 大陳国の別部隊が、ここからもっと北の場所から桂長江を渡河したのだ。


「それで、敵の戦力はどれくらいだ。」

「鎧騎士1000騎、歩兵5万人程度です。」

「なに、鎧騎士1000騎だと・・・。」

 張公爵がうねり声を上げる。

 大陳軍の今回の遠征における鎧騎士の数は2000騎。

 その半数の鎧騎士を、桂長江のこちら側に上陸させたことになる。これでは、桂長江の防衛線戦が突破されたと同じだ。


「・・・・・・。」

 張公爵は北への対処どうするか悩んだ。

 桂長江からの攻撃への備えは万全だった。軍船が並び、魔弾砲や実弾砲が迎撃態勢を整えて並んでいる。

 だが、北への備えは無い。あっても大した戦力ではなかった。

 こちらの鎧騎士の数は1000騎。

 その1000騎をそのまま北に向けると、手元の鎧騎士がいなくなる。

 大陳軍の鎧騎士の数は2000騎。まだ、1000騎が出てくる可能性がある。

 鎧騎士は、江上戦では役に立たないが、上陸されたら厄介な相手だ。

 

 一旦、岸の上にいる歩兵と、鎧騎士の半数を回すしかない。

「鎧騎士500騎と歩兵5万人を北に回せ!北の軍の司令官は馬伯爵を任命する。北の敵は兵糧が続かない。持久戦で臨むよう伝えてくれ。」

「はっ。」

 伝令兵は命令を聞くと、旗艦の楼船から小舟に乗り換え岸に向かって行った。

 馬伯爵は堅実な用兵を行う武人だ。

 それに、王子派の良識な人物である。

 彼に任せれば、北の戦線も持ちこたえるだろう。

 北の敵は桂長江を渡っている。兵糧を運ぶには、桂長江を渡らなければならない。兵站を攻めれば、活路は見えるはずだ。とにかく、敵の本命はまだ桂長江から動かない。ここを死守すれば、2方面作戦にはなるが、まだ何とかなる。


「張公爵。大変です。」

 再び、別の伝令兵がやってきた。


「どうしたのだ。」

 今は、それどころではないと言いたかったが、押しとどまった。


「南にも、南にも。大陳国が現れました。」

「な、なんだと・・・。今度は南だと。」

 張公爵は伝令の言葉に思わず絶句した。桂長江の流れを頭に浮かべるが、この戦場はだいぶん南側にある。そして、ここより南側だと河幅も広く、ほとんど海と変わらない。


「はい、海から南岸に上陸したようです。」

「海か・・・。」

 海にも、防衛はしてあった。これは、大陳国を相手にするというか、海賊や南の大陸の獣人族、魔人族に対する備えでもあった。

 だが、今回の戦いでこの戦線に多くの戦力を移動させていた。


「戦力はどれくらいだ。」

「海から陸に上陸したようで、その数、鎧騎士1000騎、歩兵5万人です。」

「そうか・・・。」

 張公爵はその場に膝をついた。

 もう、南に送る戦力が無かった。桂長江の真正面の敵にも対処しなければならない。3方向からの攻撃に戦力を分散する必要がある。

 しかも、今度も鎧騎士1000騎を投入してきた。

 これで、大陳軍の鎧騎士の居場所は把握できたが、全て桂長江より東岸に渡河されてしまった。もう、この桂長江の防衛線はすでに崩壊したも同じであった。


「撤退だ。東に一旦、撤退する。【塊土高原】の南東まで一旦引く。そこで陣を敷いて立て直す。北に向かう準備中の馬伯爵にも北への進軍を中止し、東に撤退するように伝えろ。軍船に乗っている兵も船を捨てて、陸に降ろせ。東に撤退だ。」

 北から鎧騎士1000騎、南からも鎧騎士1000騎と南北から挟み撃ちをされて、本命は桂長江の本軍。

 3方向から包囲攻撃を受けるだけの戦力は大商軍には無かった。

 大商軍は大陳軍の半数の戦力しかないのだ。戦えば、全滅は免れない。

「くそ・・・大陳軍に、まんまとやられたか・・・。」

 張公爵はまなじりを決するような表情で、船から降りて行くのであった。


 大商国は大きく東に撤退した。

 逆に、大陳国は遂に桂長江を渡河した。

 この一歩は、数百年に及ぶ大陳国の悲願の一歩であった。

 苦渋を嘗めさせられ続けてきた桂長江の渡河に、遂に成功したのだ。

 大陳国の士気は大きく上がった。

 上陸した大陳軍は、直ぐに基地の造営を開始した。

 桂長江東岸の確保は大きい。この勝利を永続的にするには、この一帯を基地化して、再び奪われないようにすることが重要であった。

 それに、大商国への侵攻の兵糧拠点としても重要である。

 暫くは、柵や塹壕の設置などに力を注いだ。


 そして、数日休息をとった上で、大陳軍は進軍を開始した。

 今度は、一気に王都【商陽】を陥落させる。そして、大商国を併合するのが目的である。

 鎧騎士2千騎、歩兵20万人の大陳軍の大軍勢が、粛々と東に進軍していく。

 桂長江の戦いの勝利が功を奏し、士気の最高潮と思うほど高かった。

 大商国を奪い取れば、恩賞も十分に期待できる。

 一国を併合するほどの勝利となれば一般兵でも奴隷を2,3人は与えられる。それに、王都での略奪行為も大陳軍では許容されていた。略奪も、恩賞の一つと考えられていたのだ。


 対する大商軍は、東に大きく後退を余儀なくされていた。

 ただ、士気は低くない。

 国が負ければ、その国の民が奴隷になる。そして、勝った国の兵の恩賞になるのである。これが、奴隷制時代のこの大陸の常識であった。

 だから、大商国の兵の一人ひとりが必死だ。

 ここからは、負けられない戦いだ。

 負ければ自分の家族が奴隷になるのだ。

 勝利した国は、敗戦国の領土や王家の財宝、そして民を奴隷にして財を手に入れる。そして、その財で次の国を侵略していくのである。

 今の大商国は、亡国の危機に瀕していたのである。


 大商国は陣を【塊土高原】の南東、【死海の森】の北東に張った。

 【死海の森】は魔物の領域である。

 神級魔物が、領域の主として領域に睨みを利かせていた。

 なぜ、そんな危ない場所の近くに大商国が陣を張った理由は2つ。

 一つは、王都に行くにはこの陣を突破するのが一番早くて安全だ。

 逆に言えば、この場所を確保していれば、王都へは侵攻できない。

 北の【塊土高原】と、南の【死海の森】の間のこの道が王都への最短距離で、通行にも適していた。

 だから、この道を押さえないと、兵站を確保できないのである。

 南の『死海の森』を通るルートは論外だが、北の【塊土高原】を越えるルートも遠回りで道も細く高低差があった。

 

 もう一つの理由は、守り易いからだ。

 南に【死海の森】という魔物の領域があるので、南からの大陳国の攻撃を受ける事は無いと考えて良かった。

 大商軍は大陳軍の戦力の約半分しかない。

 しかも初戦で敗北して、士気は大陳国の方が高い。この地は、攻め口が正面と北の2方面に絞れるので、少ない兵でも守りに適していた。

 東と北に、柵や濠を何重にも張り巡らし、徹底的に守りに徹すれば地の利は大商国にある。

 味方の援軍が来たり、もしくは敵の兵糧も尽きる可能性もある。

 今の大商国にとって持久戦が一番負けない策であった。

 もし、ここで敗北したら、王都【商陽】まで大陳軍を遮る障害は何もない。張公爵にとっては、勝つことよりも負けない事が重要であった。


 対する大陳軍は、大商軍の西側、真正面に陣を張った。

 両軍が睨みあう。

 軍の数と士気は、圧倒的に大陳国が有利。

 対する大商国は必死の覚悟と、守りに徹する姿勢で大陳国の攻撃を待った。

 初めに動いたのは、大陳軍であった。

「全軍、突撃!」

 楊公爵の号令で、20万の大軍が大商国の軍に襲い掛かった。

 兵の数の有利を活かして、まずは歩兵で強引な力押しを始めたのだ。


 対する大商国は対する大商軍は、魔弾銃や魔弾砲を以って応酬する。

 魔弾銃を放つ魔法兵の魔力階級は、普通は『下級魔力の上』の魔力を持った者が多い。中には農民兵出身の特級魔力の魔法兵もいるが少ない。

 理由は『下級魔力の上』の魔力階級までは鎧に搭乗できない。

 特級魔力の持ち主ならば、鎧の騎士になれるので、皆、魔法兵にならずに騎士を目指すからだ。


 『下級魔力の上』の魔法兵の魔力量で、魔弾銃の放てる数が決まって来る。

 彼らの魔力量では、魔弾銃で300発。

 それも殺傷力の低い魔弾銃の威力『小』の場合だ。

 魔弾銃の威力には、『大』『中』『小』とあり、魔力量も変わって来る。

 魔力量の一番少ない魔弾威力の『小』は相手を気絶させて一日動けなくさせる威力。魔力消費量も少なく、『下級魔力の上』の魔法使いでも一日300発は放てる。

 次は魔弾威力の『中』。これは相手を戦闘不能にさせる。攻撃を受けた相手は当分の戦闘復帰はできない。『下級魔力の上』の魔法使いでも一日150発は放てる。

 更に、魔弾威力『上』。これは相手を殺してしまう。『下級魔力の上』の魔法使いでも一日75発しか放てない。


 魔弾砲の場合だともっと魔力を消費する。

 『下級魔力の上』の魔法使いの魔力量では一日1発から2発がいい処だ。

 ただ、1,2発の魔弾砲では戦闘の場合に困るので、魔法使いが交代で魔弾砲を放つことになる。


 張公爵は大陳軍の兵が近づくのを、目を細めて見ている。

「もう少し・・・、もう少しだ。もう少し待て・・・・、よし。全軍放て!」

 全軍に号令をかける。

 張公爵の号令で、魔弾銃の一斉射撃が行われた。

 敵は歩兵なので魔弾銃で十分なのだが、大陳軍の兵も弱くない。大きな盾を並べて前進してくる。いわゆる重装歩兵だ。

 大商軍の一斉射撃もほとんどが、盾で弾かれてしまう。


 戦力や士気は大陳国が有利なのだが、防衛陣の防御を敷いて、必死に守る大商軍を簡単には破れない。

 大商軍は、柵や濠を上手く使って、魔弾銃や実弾銃の遠距離攻撃で敵を近づけないように反撃して敵の兵士の数を削っていく。

 歩兵同士の一進一退の戦いで一日目は終わった。


 翌日には、大陳軍が虎の子の鎧騎士を投入して戦いは始まった。

 前日の戦いで落とし穴や塹壕などはだいぶん潰していた。

 鎧騎士の装甲であれば、防衛側の魔弾銃や実弾銃の銃弾などビクともしない。

 大陳軍にとって、数で有利な鎧騎士で一挙に押し込んで、強力な破壊力で、大商軍の防衛戦線を突破するつもりであった。

 大陳軍の鎧騎士は、敵の歩兵や魔弾銃の攻撃を圧倒し、陣地を攻略していく。

 鎧騎士に対抗できるのは、鎧騎士と近距離で効果を放つ鎧騎士砲くらいだ。


 だが、大商軍も簡単には侵攻を許さない。

 決死の大商軍は、近距離での鎧騎士砲の攻撃で対抗した。

 だが、鎧騎士の近くに近づくことや、一撃しか魔砲弾が無いので、戻ってくる生存率が極めて低い。将に特攻のような作戦。

 鎧騎士砲は、大砲級の威力を持つ鎧騎士を倒すことに特化した砲撃だ。魔力を砲弾とする魔力型と、実弾を砲弾とする実弾型がある。鎧騎士砲の欠点は飛距離が短く、近距離で攻撃が必要となる点だ。

 それに魔力型は、魔弾砲と同じで連射が利かない。その上、魔力を大量に喰うので『下級の上』の魔力階級の魔法兵なら、1回や2回の砲撃で魔力を使い果たしてしまう。

 実弾型の鎧騎士砲の方は、実弾砲と同じく重くて、火薬の消費量がハンパない。

 どちらにせよ、落とし穴に落ちた鎧騎士や塹壕で足をすくわれている鎧騎士は鎧騎士砲の絶好の餌食になってしまう。

 鎧騎士の数が少ない大商軍は、鎧騎士砲で大陳軍の鎧騎士に対抗するしかなかった。

 近距離で、敵の鎧騎士を相手にするのは相当に危険であった。

 相手が機動力、攻撃力、防御力に優れた鎧騎士である。簡単に押しつぶされたり、腕に装備されている魔弾銃で攻撃されたりする。

 近距離で鎧騎士砲も持つ魔法兵は決死の覚悟である。

 だが、ここで大陳軍の侵攻を許せば、国が、家族が大切な人たちを失ってしまう。大商国の兵士は自分が命を失う事を恐れていなかった。


 対する大陳軍は、虎の子の鎧騎士を投入のタイミングを悩んでいた。

 鎧騎士は最高戦力である。

 むやみやたらに戦いに投入して、鎧騎士を減らしたら国の戦力が減少する。

 鎧騎士の数は、その国の戦力そのものと言って過言ではない。

 しかも、鎧は簡単に生産ができない。特級魔力以上の魔石が必要だからだ。

 大商国に勝利しても、鎧騎士の数が減っては国を守れない。

 仮に鎧騎士が破壊されても、魔石さえ破壊されずに残っていれば良いが、魔石を破壊されたら鎧の再生はできない。

 後は、冒険者が特級以上の魔物を倒すのを待つしかない。それで地道に鎧の数を増やしていくのだ。だが、他国はそれを待ってくれない。

 せっかく他国を奪って版図を広げても鎧騎士を減らしたら、別の国に攻められて、国土を失ってしまうのだ。

 大陳軍の総司令官である楊公爵は、ただ大商国に勝利するのではなく、鎧騎士を消費せずに勝利しなければならなかった。

 それで、鎧騎士の投入のタイミングを迷っていたのだ。


 「楊公爵、大商軍も必死です。ここは鎧騎士を投入しましょう。」

 司令部内で、貴族や国軍の将軍などが集まっていた。

 その中で、鎧騎士の投入を叫ぶのは、国軍の将軍たちだ。

 国軍の将軍たちの方が兵士に近い。たくさんの歩兵が死んでいる。

 桂長江の渡河までは策が上手くハマって順調に進軍を行っていたが、【死海の森】の北部の戦場では膠着状態に落ちっている。

 大商軍の防衛網が予想以上に堅固に構築されていたのだ。

 大陳軍が桂長江の東岸にしっかりした軍事拠点を作っている間に、大商軍はここの防衛を固めていた。

 それに、大商軍の兵士の粘りも侮れない。

 自分の家族を守る為に、死を恐れずに向かって来る。攻めている大陳軍の兵士の方が、大商軍の兵の必死さに引いていた。

 2倍の戦力で、強引に大商軍を押し潰すつもりでいた大陳軍の司令部は、ここで頭を抱えてしまっていた。


「楊公爵様、戦況は一進一退。大商国はしぶといです。」

 ここで口を開いたのが、若き日の蔡辺境伯である蔡伯龍であった。

 この頃の蔡家は、まだ父親や2人の兄も健在で、3男の蔡伯龍が蔡家の少ない手勢を率いてこの戦いに参戦していた。

 蔡家の管轄は北の大魏国なので、体裁だけ整え、三男の蔡伯龍が少ない兵を率いて参戦していたのだ。

 彼が蔡家の兵と共に寄子貴族である曹家、申家、雷家なども連れてきている。


「蔡伯龍殿か。なにか良い案はあるか。」

 楊公爵が机に置かれた戦線の状況が描かれた地図を見ながら、顎に手をやる。

 地図の上には、大陳国の国旗の色の緑の駒が、大商国の黄色の駒を西と東から取り囲んでいる。

 司令部の諸将も額に皺を寄せて、地図を睨みつけている。


「大商軍もこの陣を落とされたら、後は王都【商陽】まで遮る障害はないですから。彼らも必死なのでしょう。」

 蔡伯龍はこの場では若い武将に入るが、3大貴族の蔡家を代表しているので、楊公爵もこの場で一目置いていた。

「そこで、楊公爵。南から攻めるのは如何でしょうか。【死海の森】の魔物を刺激しないように、南にある【死海の森】の北側の道をかすめて通るのです。大商軍は南からの攻撃は想定していないので濠も塀も柵の防衛も手薄です。」

 ここは、大商軍にとって庭ともいうべき土地。

 その大商軍は『死海の森』は危険だから大丈夫だと、守りを置いていない。

 それだけ、大商軍が『死海の森』の魔物を危険視している証拠だ。


 ここで、楊公爵家の寄子の申子爵が口を開いた。

「反対です。ここは、大商国の庭。その大商国が、『死海の森』は通れないと判断した。それに、この戦いで、すでに魔物どもを刺激している可能性も高い。そこに、我らが近くを通れば、襲って来れと言っているようなモノです。」

 魔物は人間の血の匂いにも敏感だ。

 その魔物どもが、自分たちが大人しくしていると考えるのは甘いのではないか。それを知っている大商軍は南に守りを置いていないと考えるのも一理ある。


「ですが、強引にこのまま攻め続ければ、鎧騎士を消耗も激しいです。かと言って、大軍をここに貼り付けて置くのも得策ではありません。」


「確かにそうですが・・・。」

 申子爵は黙ってしまった。


「・・・・・。」

 楊公爵も髭に手をやって考え込む。

 確かに、この場に大陳国の大軍を貼り付けて置くと、北の大魏国が動くかもしれない。

 それに、桂長江を渡ってこれだけの大軍の兵糧となると輸送に不安が残る。

 桂長江の近隣や『塊土高原』の北はまだ大商国の勢力圏内であり、兵糧を襲われる危険は十分にある。

 この戦いの後には、王都の攻略も控えている。

 王都は籠城戦で臨んでくるだろうし、今のうちに兵糧などの準備をしているはずだ。

 この戦場でこれ以上、時間をかける訳にはいかない。


「申子爵、戦いに危険はつきものです。危険を冒さないで勝利は得られるものではありません。それに、このまま、この場で時間と鎧騎士を浪費するのが一番の愚策。他に良い手があるなら良いが。申子爵にはもっと良い代案をお持ちなのですか。」

 蔡伯龍は声を大きくして、糾弾するように申子爵を指差した。


「・・・・・・、代案は無いです。」

 申子爵は、代案を返すことが出来なかった。

 結局、この一言で、蔡白龍の意見が採用されることになった。

 このまま、消耗戦を繰り広げて、時間と人を無駄に浪費するは許されなかった。


 ただ、一つ条件が付いた。

 それは、南の【死海の森】の上を掠めて進行する別動隊は少数で行くことだ。

 数が多ければ、それだけ魔物を刺激する。

 別働隊の編成は、作戦の立案者の蔡家軍と北3家の貴族軍になった。

 この編成は蔡伯龍が臨んだものだ。

 大商国一国を併合する大武勲を楊公爵家に独占される事を避ける為だ。

 この別動隊の作戦が上手くいったら、蔡家の武勲も大きく宣伝されるはずだ。そうすれば、伯龍の名も大陳国内に広まる。

 三男の白龍としても、この作戦を成功させて武将としての自分の地位を蔡家軍の中で確立とさせたかったのである。


 だが、現実は甘くなかった。

 別働部隊は、【死海の森】の魔物に遭遇してしまったのだ。

 申子爵の言った通り、魔物は人間の血に反応して興奮状態になっていた。

 そこに、別動隊が【死海の森】の北側を掠めるように侵入してきた。

 興奮していた魔物が一斉に、別動隊に襲い掛かった。

 千匹近い魔物に攻撃された別動隊は、陣を組んで戦う勇気も無かった。

 魔物に襲われると、剣も抜かずに一目散に逃げ出した。

 別動隊が逃げるのは、大陳軍が陣の敷いている方向である。

 当然、魔物たちも逃げる別動隊を追って、大陳軍の本陣にやってきた。

 その結果、別動隊は魔物の大群を引き入れてしまったのだ。

 

 南から魔物の大群が突然現れたのだ。

 予期せぬ方向からの攻撃で大陳軍の本軍は混乱に陥った。

「馬鹿者が・・・」

 司令部にいる楊公爵は拳を握りしめて、蔡伯龍を呪う言葉を吐いていた。

 本陣の南から、魔物が攻めてきてと報告を受けたからだ。

 「申子爵、羅男爵それに魏男爵。3人は自軍を率いて、南を頼む。」


 「「「はい。分かりました。」」」

 楊公爵の言葉に3人の貴族が頷いた。 

 南3家の申家、羅家、魏家の3つの貴族軍が南に向かって陣を敷いた。

 その数は、鎧騎士100騎と歩兵1万人であった。


 大商軍と戦っていた前線も大いに慌てた。

 大商軍の防衛線を崩す為、多くの兵が大商軍の陣地内で戦っていたのだが、気付くと、後方の本陣が魔物の大群に襲われている。

 前線の大商軍との戦いを上手く引いて後退しないと、大商軍と魔物の挟み撃ちに遭ってしまうことになる。

 大商軍の陣地内で戦っていた大陳軍の前線部隊は、急いで後退に転じた。

 ここで、大商軍に追撃をされると危なかったが、幸いなことに大商軍は大した追い打ちをしてこなかった。

 大商軍が追撃しなかったのは、大陳軍に同情したわけではない。大陳軍を追撃すると、魔物とかち合ってしまう。それで魔物を大商軍の陣に引き込んだら、大陳軍の二の舞だ。だから、魔物に任せて、深いせずに静観したのである。

 

 殿の残った3家の軍は良く戦った。

 逃げてくる蔡家軍や北3家の秦家、曹家、雷家を収容しながら、襲って来る魔物を倒す。この戦いで、申家軍の活躍はめざましいものがあった。

 穆将軍の指揮で、息子の穆珪臣や彼がたくさんの魔物を倒していた。

 惨めに敗走していた北3家の兵も救われて一息つくと、情けない状況に気づき、南3家の軍と一緒に戦う者もいた。

 一旦は、たくさんの魔物を倒し、態勢を立て直せそうになった。


 だが、それは甘かった。

 王級魔物の鬼餓狼(おにがろう)が現れると状況は一変した。


 一匹の魔物の出現により戦場は修羅場と化した。

 鎧騎士では鬼餓狼には歯が立たないのだ。

 ふつうの剣や槍では、鬼餓狼の外皮を貫く事はできなかった。

 魔弾砲の射撃は、迅速な動きの鬼餓狼から避けられてしまう。

 魔弾砲は魔法充填が必要なので、一発撃つと捨ててしまう。魔力充填を行っている間に敵にやられてしまうからだ。重たい魔弾砲を持って戦う鎧騎士などいない。


 鬼餓狼は無敵だった。

 辺り一面に、鬼餓狼の爪や牙で斬り裂かれた鎧騎士の残骸や兵士の亡骸が転がっている。

 また、亡骸の無い死体もあった。

 鬼餓狼の口から《炎の咆哮》が吐かえれると、兵士を燃えてしまう。その燃やされた兵は消し炭になり、亡骸も残らなかったのだ。

 本当に見るに堪えない光景が戦場に広がっていた。

 鬼餓狼とまともに戦える鎧騎士など一騎もいなかった。10秒も鬼餓狼の前で立っていられる鎧騎士すらいない。

 殿(しんがり)部隊にいた100騎近い鎧騎士も半分も残っていない。

 人形の首を落とすように、鬼餓狼の爪によって斬り裂かれていった。


 その状況を見ていた楊公爵は全軍に撤退の命令を出した。

 これ以上、この戦線を維持することは無理だと判断したようだ。

 桂長江の東岸に作った大陳軍の軍事拠点まで逃げるように命じたのであった。

 公爵自身も西に撤退を始めた。

 王級魔力を持った息子の王剛之と、神級魔力の朱義忠の2人公爵を守るように警護して西に向かって撤退していった。

 誰も、王級魔物の鬼餓狼に敵対できる騎士などいなかった。たった一匹の魔物によって、大陳軍は敗北を喫したようなものである。

 まだ、事前に武器や騎士の数を揃えて戦うのであれば、王級魔物を倒せる。だが、大商軍との戦闘中に不意に現れたので、大打撃を受けてしまったのである。


 全軍の撤退命令が出ても、殿として頑張っていたのは申家軍しかいなかった。

 殿に残った魏家軍は早々に魔物に恐れをなして退却してしまっていた。

 羅家軍は、羅男爵本人の足を魔物に喰われ、瀕死の状況で撤退を余儀なくされている。

 殿には、申家軍しかいなかった。

 撤退した軍も、強い騎士を何人か『馳走』といって申家軍に残していった。

 申家軍だけに任せて、自分たちだけが逃げるのに負い目がある。

 有力な鎧騎士を残せば、殿の部隊の戦力が上がり生き残れる確率が上がる。

 大した数では無かったが、それでも数の少ない申家軍には助かる。

 

 幸いなことに、鬼餓狼は食事に入った。自分が倒した兵士や鎧騎士が辺り一帯にいる。《炎の咆哮》で消し炭にした兵が多かったので、鎧騎士を引きちぎって、中から出てきた兵士を前足で押さえて口に入れる。

 前足で押さえた兵士を頭から美味そうに食べていた。

 

 鬼餓狼が食事中も、下級魔力の魔物が襲ってくる。

 下級魔力や特級魔力の魔物なら申家軍の兵士でも倒せる。

 鎧騎士であれば、特級以上の魔力を持っている。魔物が特級や将級クラスでも倒すことが出来た。

 倒せる魔物の判断は、魔物の外皮を武器が貫けるかどうかだ。

 魔物の中には、魔犀獣のように外皮の硬い魔物もいれば、魔猿獣のように大して硬くない魔物もいる。

 それと、味方の鎧騎士たちが持っている武器だ。

 普通の騎士は特級魔物の素材で作った武器を使っている。この武器では特級魔物の外皮までしか貫けない。

 あとは、貴族の当主が持つ希少金属の武器。3大貴族が持つアダマンタイトの剣であれば、特級以上の魔物の外皮も貫くことが出来る。

 だが、この戦場で唯一アダマンタイトの剣を持った楊公爵が退却した以上、王級魔物を倒す武器は無かった。


 とにかく、追いかけて来る魔物を凌いで、味方が撤退する時間を稼ぐのが殿の役割であった。

 そして、その役割は鬼餓狼が食事に集中してくれたおかげで達成できぞうだ。

 けっこうな時間が稼げた。

 楊公爵も退却し、本陣の撤退も終わったようだ。

 大商軍は魔物との戦いに巻き込まれるのを嫌って、深追いをしようとしない。

 (ここが潮時だ。殿を撤退させよう。)

 申子爵が退却の命令を発しようとしたその時。


 王級魔物の鬼餓狼が再び姿を現した。

 食事が終わったのにも関わらず、獰猛(どうもう)な目で獲物を見ている。

 その目は、獲物を逃さない目である。

 『もう一仕事を始めるか。』と言っているような表情だ。


 殿部隊は、現れる魔物を倒して助かるかもしれないと思った矢先。

 鬼餓狼が現れ、再び地獄に突き落とされたのであった。

「怯むな、火球弾を奴にぶつけろ。」

 子爵の命令で、申家軍の鎧騎士が火球弾を撃ち込む。

 だが、火球弾が鬼餓狼に命中しても、硬い外皮はビクともしない。


「魔法兵、魔弾砲を放て!」

 続いて、魔力充填をしていた魔法兵が鬼餓狼に向かって魔弾砲を放つ。鬼餓狼に直撃する砲弾も何発かあったが、土煙を上げるだけで鬼餓狼は無傷だ。

 魔弾砲の直撃なら、特級魔力の魔物なら倒せるが、王級は難しい。

 『もう、終わりか。』とでも言うように、鬼餓狼の口元がニヤリと微笑んでいるように見える。


 そして、『今度は、俺の番だ。』とでも言うように、鬼餓狼は脚で地面を蹴った。

 一瞬で申家軍の近くまで駆け上がると、爪や牙で鎧騎士の硬い装甲を斬り裂く。

 口からは《火の咆哮》を吐いて、周りの歩兵を消し炭に変えていく。

 一瞬の間に、今までの戦況が一変して、辺り一面が修羅場に化していた。

 味方の鎧騎士が一騎、また一騎と倒れていく。

「散会しろ。奴には火球弾は効かない。近接で魔弾砲を放て!」

 申子爵が大声で命令を下すと、魔法兵は鬼餓狼の近くに寄って魔弾砲で迎撃しようとする。近接なら魔弾砲の効果もあるかもしれない。

 だが、鬼餓狼も甘くはない。近くまで近づいた魔法兵を爪で斬り裂いた。

 鎧騎士に装備された魔弾砲の砲弾も鬼餓狼は避けていく。

 鬼餓狼の独壇場であった。

 戦場には多くの大陳軍の鎧騎士が破壊され、多くの兵士が鬼餓狼の《火の咆哮》の餌食になっていた。


 千匹近い魔物と戦いで、申家軍も魔力や戦力も疲弊していた。

 そこに追い打ちのように鬼餓狼の攻撃が加わったのである。もう、殿の部隊は全滅寸前であった。

 戦場から逃げる兵や鎧騎士も出てくる。

 申家軍以外の援軍は特にそうだ。

 だが、その場から逃げようとする鎧騎士から倒されていく。

 鬼餓狼は、せっかくの獲物を逃がすつもりは無いようだ。

 それに、背中を見せてば、鬼餓狼に襲ってくれと言っているようなものだ。

 背中に、鬼餓狼の爪が突き刺さる。

 魔餓狼は攻撃の手を緩めない。

 執拗に機動力を発揮して逃げる鎧騎士から襲っていく。

 更に一騎、また一騎と味方の鎧騎士が数を減らしていく。


 最後に残った鎧騎士は7騎。

 申子爵、穆将軍、穆将軍の息子の穆珪臣、それに燕荊軻と申家軍の鎧騎士2騎、あと曹家の鎧騎士が一騎で、合計7騎しか生き残っていなかった。

 しかも、申子爵の鎧騎士も左腕が破損して、子爵自身の魔力も枯渇していた。

「子爵様。お逃げください。私が時間を作ります。」

 声を上げたのは、穆将軍である。


「穆将軍。私が時間を作ります。穆将軍は子爵様と早くお逃げください。」

 穆将軍の声に続いて、荊軻が殿に残ると主張した。


「荊軻、お前が子爵様を死んでも守れ。これは将軍の命令だ。若い者が儂より先に行くのは許さん。」

 穆将軍が有無を言わさない大声で、荊軻の主張を却下した。


「ですが・・・」

 荊軻は含みを持つが、渋々、穆将軍の言葉を受け入れた。


「珪臣。お前も、荊軻と一緒に子爵様を守れ。それと、曹家の騎士もずいぶん若いな。貴殿も早く行け。3人で子爵様を守るんだ。いいな。他の2人の騎士は悪いが、儂に付き合ってもらう。さすがに、一人では鬼餓狼は厳しそうだからな。」


「「はっ。」」

 申家軍の2人は穆将軍の命令に素直に従った。

 曹家軍の若い騎士は戦場での経験も浅そうで、首肯して穆将軍の命令に従う素振りを示した。


「分かりました。父上。」

 穆将軍の息子の穆珪臣も、父の命令に従った。


「分かりました、穆将軍。ですが、死なないでください。」

 結局、荊軻も穆将軍の命令に従った。


「戦場で、死ぬなとは難しい願いだな、荊軻。できるかどうか分からない約束はしない主義だ。今は、生き残る為に努力するとだけ言っておく。それでは行くぞ。」

 穆将軍はそう言うと、2騎の鎧騎士を連れて、鬼餓狼に向かって行った。

 その間に、子爵と荊軻たちは西に向かって走って逃げた。

 背中で、穆将軍と鬼餓狼が戦っている気配を感じるが、振り向くことはしない。

 とにかく、今の荊軻にとって子爵を逃がすことが最優先である。

 後ろを振り向いている暇などない。

 走る、走る、走る。走って申子爵を生かして逃がすことが、穆将軍に託された荊軻の任務であった。


 だいぶん、西に進んだ。

 もう直ぐで大陳軍が桂長江の東岸に作った軍営拠点が見えてくる頃だ。

 すでに【死海の森】からも離れている。

 ここまで撤退すれば、もう鬼餓狼は追って来ない。

 荊軻は、申子爵を守り切ったという安堵感と、自分を可愛がってくれた穆将軍を失った失望感に浸っていた。


「うっ、なんだこの気配は。」

 荊軻は強力な魔力の気配を感じた。今まで走ってきた道の後方からだ。

 その魔力には覚えがある。

(鬼餓狼か・・・こんな処まで追ってくるとは・・・。)

 もの凄い勢いでこちらに近づいてくる。

 正直、ここまで鬼餓狼が追って来るとは思っていなかった。

『魔力溜り』にいる魔物は『魔力溜り』を遠く離れる事はないと聞いていた。

 ここから【死海の森】はだいぶん離れている。

 当然、他の魔物は追って来ていない。

 ただ、鬼餓狼だけが一匹で申子爵や荊軻たちの後を追ってきたのであった。


 このままでは、子爵がやられる。

 それだけは、なんとしても阻止しなくてはならない。

 珪臣の顔を見ると、珪臣も同じように鬼餓狼の魔力を感じ取ったようだ。

 表情が厳しくなり、珪臣も同じことを考えているようだった。

 そして、珪臣は荊軻の顔を見つめた。

「荊軻、一緒に死んでくれるか。」


「はい、珪臣殿。お供します。」

 荊軻は珪臣の言葉に頷いた。


 珪臣は曹家軍の鎧騎士に声をかけた。

「曹家軍の鎧騎士殿。俺は穆珪臣と言う。貴殿はまだ戦えるか。」


 灰色の専用機の騎士の声は若かった。

「俺は、李剣星。曹家軍の王級魔力の騎士だ。俺には李家の家宝の鎧と剣がある。王級魔物だろうが、相手してやんよ。」

 曹家軍の騎士は若いが、えらい元気が良かった。

 彼が剣に魔力を籠めると、橙色の光に剣が包まれていく。

 彼が王級魔力の騎士というのも嘘では無いようだ。


「そうか、それは頼もしいな。なら悪いが、一緒にここで鬼餓狼と戦ってくれないか。何としても、子爵様を逃がさなければならない。貴殿にとっても武勲を上げるチャンスだ。一騎で戦うより3騎で戦った方が勝てる確率も上がる。どうだ、やってくれるか。」


「分かった。貴殿の申出を受けよう。」

 珪臣の言葉に、若い李剣星は大きく首肯した。

 この時の李剣星は15歳になったばかりの新米の騎士で、しかも初陣だった。

 曹家軍が退却する際に、『馳走』と言って、殿の申家軍に預けてくれた騎士の一人である。

 ここで、珪臣の言葉を断る理由は無かった。


「申子爵、この場は我ら3人で時間を稼ぎます。子爵様は何とか、味方の軍営拠点まで撤退してください。そうして、楊公爵に鬼餓狼が近づいている事をお伝えください。」

 珪臣は厳しい視線で子爵に訴えた。ここから、味方の軍営拠点までは遠くない。

 このままだと、大陳軍がやっとの思いで奪い取った桂長江の東岸の拠点まで鬼餓狼の襲撃を受けるかもしえれない。


「・・・・・分かった。すまん。直ぐに楊公爵に援軍を頼む。少しの間、時間を稼いでくれ。」

 暫く沈黙していた申子爵は頷いた。

 申子爵の鎧は破損して魔力は無くなっている、とても戦える状況ではない。

 この場にいても戦力にはならない。味方のお荷物でしかなかった。

 そして、大陳軍の軍営拠点に向かって走って行く。


 走り去る主君を見ながら、珪臣が荊軻に話しかけた。

「荊軻、すまないな。お前まで道連れにして。」


「なにを言われる。珪臣殿。私は穆将軍と一緒に残るつもりでした。穆将軍が私を行かせたのは、このような事態を見通していたからでしょう。」

 荊軻は東を睨みながら、鬼餓狼が現れるか警戒している。


「そうか、そう言ってくれると助かる。それと、荊軻。お主に一つ頼みがある。聞いてくれるか。」


「何でしょう。私にできる事でしたら、何でも言ってください。ただし、この場を生き残らないと、珪臣殿の願いを叶えられませんが。」

 荊軻は珍しく冗談を言った。


「ああ、それで良い。もし、荊軻が生き残ったらでいい。」


「私が生き残れたら、きっと、珪臣殿もご無事ですよ。」


「そうだな。そうかも知れんな。だが、荊軻。お前に言っておきたいんだ。」


「そうですか。それで願いとは何でしょうか、珪臣殿。」


「もし、私になにかあったら、妹を、珪西を頼む。」

 珪臣が妹の珪西を溺愛しているのは有名だ。

 荊軻も穆将軍の家に遊びに行った際に何度か見た事があった。気は強そうだが、優しい父や兄想いの娘であった。

 男が珪西に近寄ると、珪臣が片っ端から叩きのめしていたのも知っている。


「珪西殿ですか・・・。」

 荊軻は良く穆将軍の家で珪西に会ってはいたが、あまり話した事は無かった。

 そもそも口かずの少ない荊軻は、女性といえば母親としか話した事が無い。


「そうだ。まだ、死ぬつもりは無いが、もし俺が死ねば、妹は一人になってしまうからな。まぁ、お前も生きて帰れるか分からないが、もし生きていたら頼む。お前なら、任せられる。」


「考えておきますよ。仲間内では、珪西殿には怖い兄がいると有名ですかね。怖い兄上殿が珪西殿に近づいて良いと許可してくれるなら、喜んで引き受けますよ。」

 荊軻はニヤッと笑って答えた。

 本当は、奥手の荊軻がそんなに簡単に女性の珪西に近づける訳が無い。ここは、荊軻も見栄を張って明るく答えていた。


「馬鹿か、俺は妹に近づいて良いとは言っていない。ただ、頼むとだな・・・、もう良い、いくぞ、荊軻。」


「はい、珪臣殿。」

 荊軻が珪臣の後をついて行くと、後ろから李剣星もついてきた。

 直ぐに、鬼餓狼の強力な魔力を感じる。

 既にだいぶん近くまで来ていたようだ。


 3人は左右の岩陰に身を潜めて鬼餓狼を待った。

 右の岩陰には、珪臣と李剣星の2人。

 左の岩陰には、荊軻が隠れている。


 3人は気配を悟られないように魔力を抑えていた。


「珪臣殿。鬼餓狼が来ます。このままでは通り過ぎて、行ってしまいます。」

 李剣星が一緒に身を潜めている穆珪臣に飛び出すタイミングを尋ねた。

 彼は今回の戦いが初陣で、戦闘に慣れていない。

 このように敵が来るのを黙って待つのが耐えられないのか、緊張と恐怖で腕が震えている。


「剣星殿。真正面に出たら危ない。鬼餓狼の攻撃をもろに受けるます。我らの盾や鎧の装甲では、奴の攻撃は防げない。だから、鬼餓狼が横を通る瞬間に攻撃するのです。そして、その時、剣に魔力を最大限に籠めれば、その剣でも鬼餓狼の外皮を貫く事が出来る剣にかわるかもしれない。」

 魔物の外皮は硬い。

 上級魔物になれば、外皮は鉄よりも硬い。

 王級魔物となれば、その硬度は上級魔物の中でも上位である。とても騎士が持つ特級魔物の素材で出来た剣では歯が立たない。

 王級魔物の皮を貫けるのは、アダマンタイトやミスリルなどの希少金属か、王級魔物以上の魔物の素材で作った武器くらい。

 そんな希少金属や素材で出来た剣はここにはなかった。後は魔力で何とかするしかない。剣に魔力を籠めて硬度を高め、切れ味を良くするのだ。どこまで通用するかは分からないが、それしかなかった。

 ただ、珪臣や荊軻が持っているような剣で王級魔物を倒した者はいなかった。

 珪臣が李剣星に話したのは、魔力を籠めて剣を硬化させるという手段だ。有効性は分からないが、今は他にとり得る手段がないのだ。


「分かりました。」

 李剣星は珪臣の話を聞いて、自分の剣を見つめた。

 剣星の持つ剣は、陪臣家ではあるが李家の伝来の剣だ。

 将級魔物の素材で出来ている。他の騎士が持つような剣より硬い。

「ほ、本当に魔力を籠めれば、剣が硬くなるのか・・・・。」

 剣を見つめていた剣星は、珪臣から聞いた話を思い出し、無意識に持っている剣に魔力を籠めてしまった。


「早い。まだ、ダメだ。剣星殿。」

 珪臣は急いで止めた。

 だが、既にその言葉は遅かった。

 剣星が剣に魔力を籠めると、抑えていた魔力が外に漏れてしまったのだ。

 すると、鬼餓狼の目が動いた。

 岩陰に隠れている李剣星の魔力に気づいたようで、進行進路を変えたのだ。

 鬼餓狼の魔力の動きの変化で、李剣星は慌ててしまった。

 (まずい・・・鬼餓狼がこっちに来る。)

 鬼餓狼は間違いなくこの岩陰に気づいたはずだ。そして、こちらに向かっている。

 李剣星は待つのに耐えられなくなってしまっていた。


「ま、待て。剣星殿。」

 李剣星は岩陰から姿を現して鬼餓狼の前に立ちはだかってしまったのだ。

 一緒に隠れていた珪臣が彼を止めようとしたが、珪臣の手は振りほどかれた。


「鬼餓狼、俺が相手だ。」

 李剣星は剣に魔力を籠めて、鬼餓狼の攻撃に備えた。

 鬼餓狼は大きく地面を蹴って跳躍した。

 空中の鬼餓狼の口から、李剣星に向けて《炎の咆哮》が放たれる。

 慌てて、李剣星は咆哮を避けたが、その動きは鬼餓狼の予想の範疇であった。避けた先に鬼餓狼の鋭い爪が襲い掛かる。


「うわぁぁぁぁぁぁぁ」

 李剣星は避けきれずに、鬼餓狼の爪をもろに喰らう。

 ・・・はずだった。

 気付くと、彼は自分がいた場所から弾き飛ばされていた。

 自分がいた場所には、胴体から二つに引き裂かれた紺色の鎧騎士の姿があった。

 穆珪臣の鎧騎士である。

 引き裂かれた機体からは、赤い血が零(こぼ)れ落ちる。

 李剣星は直ぐに悟った。

 穆珪臣が自分の機体を突き飛ばし、身代わりになったのだと・・・。


「うわぁぁぁあああああ!」

 珪臣の機体が引き裂かれた光景を見て、李剣星は思わず叫び声を上げてしまった。


 李剣星の叫び声が、倒した鎧騎士を見ていた鬼餓狼を刺激した。

 鬼餓狼は、壊れた機体には興味を失ったようで、声を上げたもう一つの鎧騎士の方に視線を移す。

 鬼餓狼は前足の鋭い爪をかざして、李剣星の鎧騎士に向かって跳躍した。


 気が動転している李剣星は立ち上がることができない。

 腰に力が入らないのだ。

 突き飛ばされて地面に腰をおろした状態で、持っていた剣に魔力を籠めた。


 とにかく剣を構えた。

 襲い掛かってきた爪の攻撃を、李剣星は剣で受け止めた。

 鬼餓狼が爪に力と魔力を籠めて押し込む。

 李剣星の剣が悲鳴を上げるように押されていく。

 ――ピキ・・・・・・・。

 剣星の剣にひびが入りはじめた。

 鬼餓狼の爪の圧力に剣が耐えきれない。

 剣星は魔力を剣に流し込んで、なんとか爪の攻撃の圧力に耐えようとする。

 だが、動揺して魔力が少ししか剣にまとわりつかない。剣を包み込む前に、魔力が霧散してしまうのだ。

 対して魔力が籠っていない剣星の剣は、ただの将級魔物素材の剣にすぎない。

 鎧騎士に標準装備されている剣より硬度は高いが、王級魔力の魔物の爪には敵わない。

 ――ピキ、ピキ・・・・バキ。

 ついに剣に入ったヒビが砕けた。

 (・・・死んだな、俺。)

 思わず李剣星は目を閉じた。

 爪が剣星の剣と一緒に、鎧騎士の両腕を斬り裂いたのであった。


 だが、鬼餓狼は剣星の腕を斬り裂くと、直ぐに体を後ろに跳び跳ねた。

「ぐぅるるるる・・・・。」

 鬼餓狼がうねり声を上げて苦しんでいる声が聞こえる。

 圧倒的に有利のはずの鬼餓狼の方が苦しんでいるのはおかしい。

 トドメの攻撃が来ると思っていた剣星は、攻撃がこないので目を開いた。

 後ろに跳び跳ねた鬼餓狼は、首を振って何かを振り払おうとしていた。

 そこにあったのは、鬼餓狼の目を剣で突き刺す紺の鎧騎士の姿であった。


 燕荊軻の鎧騎士だ。

「よくも、珪臣殿を・・・・・・・。」

 手に持った魔力を籠めた剣を鬼餓狼の目に突き刺し、抜いては何度も突き刺した。

 珪臣を殺された恨みも込めて何度も、何度も剣を抜いては目の奥に強く押しこむように突き刺した。その都度、緑の血が噴き出してくる。

 鬼餓狼は首を振り、必死に荊軻を振り払おうとしている。首を振り回す度に、鬼餓狼の目から緑色の血しぶきが上げる。

 鬼餓狼は跳躍して後ろに着地すると、首を振り回すのを止めた。

 態勢を整えると、爪をひっこめた前足で自分の顔の汚れを拭き払うように、荊軻の鎧騎士を拭き張ろうとした。

 鬼餓狼が李剣星から離れて後方に着地すると同時に、荊軻は鬼餓狼の顔から飛び降りた。


 鬼餓狼が左目を潰され、溢れ出る血でパニックになっている。

 この状況を見逃さず、荊軻は次の攻撃に移った。

 潰れた左目の死角に回ると、そのまま鬼餓狼に近づき、今度は右目を狙ったのだ。

 鬼餓狼が前足で血が溢れる左目を押さえつつ、何が起こったか確認している間、隙が生まれた。この隙を見逃さず、荊軻が左目の死角のから回って右目を攻撃したのだ。


「ぐぅぎゃぁぁあああ・・・・。」

 この策は見事に嵌(はま)った。

 左目の出血に集中して、隙が生まれた所を完全に突いた。


「これで、両目を塞いだ。」

 鬼餓狼は、刺された右目の剣を片方の前足で振り払おうとする。

 荊軻は、今回は無理に剣を目の奥に押しこむことはしないで、直ぐに鬼餓狼から離れた。


「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ。上手くいった。」

 距離をとった荊軻は肩で息をしながら、呼吸を整える。

 この作戦は、珪臣と2人で鬼餓狼を倒す為に考えた策であった。鬼餓狼が横を通り過ぎる瞬間に、左右の岩陰から奴の目を狙うのだ。

 鬼餓狼の皮は、荊軻や珪臣の持っている特級魔物の素材の剣では刃が通らない。

 だが、硬い皮に覆われていない目なら話は別だ。目なら、特級魔物の素材の剣でも貫く事ができる。

 だが、鬼餓狼も馬鹿ではない。そんな簡単に目を攻撃させる隙を見せるはずが無かった。

 それで、荊軻は珪臣と左右の岩陰に隠れ、魔力も潜め奇襲を狙ったのだ。

 同時に攻撃すれば、どちらが倒されても、片方が成功するはずだ。

 その奇襲は李剣星が鬼餓狼に魔力を悟られ失敗してしまったが、鬼餓狼が李剣星に集中することで、隙が生まれた。

 結果は、鬼餓狼の両目を塞ぐことに成功したのであった。


 鬼餓狼は両足で、両目を押さえながら地面に転がっている。

 目が見えなくて、動き回る事が出来ないのか地面に背中をつけてドタバタしている。

 今の鬼餓狼は、魔力の放出をまともにできていない。

 魔物の皮が硬いのは、素材の機能による所が大きいが、決してそれだけではない。

 体を覆う皮に魔力を流して、硬い甲冑のように身を守っている。だから、魔力階級が高い魔物ほど皮が硬いのである。

 それが、今の鬼餓狼には出来ていない。魔力が体中を覆っていないのだ。


「今なら、殺れる。」

 荊軻は剣を構えると、地面に転がって、両手で目の出血を塞ぐ鬼餓狼を見つめる。

 この状況なら、暴れる足の動きさえ注意すれば、鬼餓狼の間合いに近づくことができる。

 荊軻は息を殺して、剣に魔力を籠めるのに集中した。

 魔力を武器に集約させる魔力操作は得意だ。

 すぐに、剣が橙色の魔力色に覆われ、更に魔力を籠めると、魔力色の量が濃厚になる。剣に大量の魔力が覆われているのが分かる。

 剣だけでなく、自分の体に身体強化魔法を発動して、自身の筋力、脚力、瞬発力などを強化する。

 強化された感覚で餓狼の動きを見極め、全ての意識を鬼餓狼に集中した。

(今だ・・・・。)

 荊軻は瞬時に鬼餓狼の間合いに入ると、剣を鬼餓狼の首に突き刺した。

 硬い外皮で覆われているはずの首に、荊軻の橙色に光る剣が突き刺さった。


「ぐわぁああ。しゅ・・・・・。」

 鬼餓狼の叫び声が途中で消えた。

 代わりに首の刺さった剣の場所から空気が漏れる音がする。

 荊軻が剣を刺した首から空気が漏れ、鬼餓狼の叫び声は音にならない。

 鬼餓狼は慌てて首の外皮に魔力を流したが、既に遅かった。


 荊軻は、魔力で硬くなった剣に振り斬るように力を込めた。身体強化魔法で補強された筋力を使って、思いっきり力を籠めた。

「うわぁぁぁぁぁぁぁ。」

 叫び声を上げて、全部の魔力を剣に籠める。

 剣は砕けることなく、鬼餓狼の首の半分を斬り裂いた。


 首が、鬼餓狼の体にぶら下がっている。半分の首の肉が、胴体と繋がっていた。

 斬られた首の後から、噴水のように緑の血が噴き出した。

 赤い目が白色に変わった。

 ――ズドン

 鬼餓狼の巨体は地面に向かって倒れた。

 噴き出した血が地面に染みていく。


「や、やったのか。」

 李剣星の鎧騎士は、両腕を噛み砕かれて立ち上がれない。

 機体の操縦席を開けると、李剣星が外に出てきた。

 荊軻の機体に向かって走ってくる。

 近くまで来て、地面に転がっている鬼餓狼を見ると、荊軻の方を振り返った。

「あんた、すげえな。一人でこの魔物を倒したんだよな。」

 荊軻の鎧騎士の前に倒れた鬼餓狼の巨体を見上げて感心している。

 そして、李剣星は真面目な表情で、荊軻の方を向いて地面に跪いた。

「すまない。俺が珪臣殿を殺したようなもんだ。」

 両手を地面につけて、頭を下げた。

 頭も地面につけて土下座をしたのであった。

 そのまま、彼は暫くの間、微動だにしなかった。


 荊軻の鎧騎士の機体から、荊軻が外に出てきた。

 無言で土下座をする李剣星に近づいて、彼の前に立った。

「・・・・・・・・。」

 荊軻も無言だ。


 土下座の状態で固まっていた李剣星の方が先に根負けしたように口を開いた。

「俺が、魔力を解放しなければ・・・。俺がビビッて鬼餓狼の前に飛び出しさえしなければ・・・。すまない、俺はお前の仲間を殺したも同然だ。俺の事を斬ってもらっても、思う存分殴ってもらっても構わない。」

 頭は地面につけたままだ。


「頭を上げてくれ。それじゃ、殴れないだろ。」

 荊軻は低い、冷たい声で答えた。


 李剣星は、その言葉を聞くと直ぐに顔を上げた。

 目は閉じて、歯を食いしばっている表情だ。

 そのまま黙って、『早く、殴れ!』という姿勢で固まっている。


「嘘だ。お前を殴るつもりは無い。顔を上げたなら、早く立て。私が、貴殿の機体を立ち上がらせてやる。もう帰るぞ。」

 荊軻は李剣星の肩に手をやった。

 声を掛けると、そのまま振り返って機体に戻ろうとした。


「ま、待ってくれ。燕荊軻殿。俺を殴ってくれ。」


「殴る?なぜ、私が貴殿を殴るんだ。穆珪臣殿が自分の意思で李剣星殿を助けた。しかも死を覚悟して助けた。それだけの事だ。珪臣殿が助けた男を私が殴る理由がない。」


「いや、俺の気持ちが収まらない。俺が場に飲まれて、魔力を解放さえしなければ。珪臣殿は死ぬことは無かった。本当は俺が死ぬべきだったんだ。」


「・・・穆珪臣殿は、私にとって兄のような御仁だ。貴殿を殴っても、珪臣殿は生き返らない。それに、珪臣殿を殺したのは鬼餓狼だ。その鬼餓狼の注意を貴殿が引き付けてくれたおかげで、奴に隙が生まれた。もし、その隙がなければ鬼餓狼は倒せなかったかもしれない。だから、貴殿は負い目を感じる必要は無い。後は知らん、勝手にしてくれ。貴殿がここに居たいなら置いていく、私はもう行くぞ。」

 そう言うと、荊軻は機体に向かって歩いて行った。


「待ってくれ。兄貴。荊軻の兄貴。」


「私が兄貴か・・・。兄を失って、弟を得るか。まぁ、呼び方は勝手にしろ。それに、『戦いの勝敗は兵家の常』だ。今日は、鬼餓狼に勝てたが、明日は死ぬかも知れん。勝負にこだわるな。自分の生き方にこだわれ、李剣星。」

 荊軻はそう言うと鎧騎士に乗り込んだ。


「ああ、勝手にさせてもらう。俺は、荊軻殿のことを兄貴と呼ばせてもらう。そして、死んだ穆珪臣殿への恩も含めて、あんたに恩を返す。それが俺の生き方だ。」

 李剣星は自分の思いをつぶやいた。

 だが、その言葉は荊軻には届いていなかった。

 彼は既に鎧に乗って、李剣星の鎧を抱えながら歩いていたのであった。


 * * *

 これが、世にいう『死海の森の戦い』であった。

 大陳国にとって汚名というべき大敗北だ。この戦いで、大陳国は500騎近い鎧騎士を失った。そして、5万人以上のたくさん兵が死んだ。そのほとんどは、大商国に殺されたのではなく、『死海の森』の魔物に殺されたのであった。

 そして、その死んだ者に中に、父のように荊軻を見守ってくれた穆将軍や、兄のように接してくれた穆珪臣もいた。


 この戦いで、申子爵家は多くの部下を失ったが、貴族としては名を上げた。

 楊公爵は、申子爵の勇気と武勲を称えた。

 恩賞が出せない為、楊公爵は恩賞の代りに長女を申子爵家に嫁がせる事で武勲に報いた。

 なぜ、申子爵がこれだけ賞賛を浴びたのは、味方を助ける為に殿(しんがり)に残り、彼の部下が王級魔物の鬼餓狼を倒したからだ。

 あのまま、鬼餓狼が軍営基地まで攻めて来たら、大陳国はせっかく奪った桂長江の東側の拠点まで失ったかもしれない。


 それに、大陳国としては意図的に申子爵を持ち上げたのは意図があった。

 それは、この敗北を有耶無耶にする事であった。

 これだけの敗戦だが、今まで何度攻撃しても奪う事が出来なかった桂長江の東岸を奪取したのだ。

 そして、王級魔物の鬼餓狼も撃退した。

 これを宣伝すれば、大陳国の国内の敗戦気分は薄れる。

 それによって、この戦いの総司令官である楊公爵と、『死海の森』からの攻撃を進言した蔡伯龍の責任も問われなくなる。

 3大貴族の2人が責任を取るとなると、大陳国の統治が上手くいかなくなる事と、3大貴族のパワーバランスが崩れるのを当時の王は嫌ったのだ。


 その結果、燕荊軻の名は、大陳国中に鳴り響いた。

 撤退の為、王級魔物の鬼餓狼を単身で倒した英雄として、武勇を轟かした。

 話は誇張されて、主君を守る為にたった一人で鬼餓狼と相対し、王級魔物を倒したと宣伝された。中には、始祖が現れ、彼に王級魔力の硬い外皮を破るほどの魔力を与えたと吹聴する者まで現れた。

 とにかく、忠臣として英雄として、彼の武勇伝は意図的に国中に広められたのであった。


 そんな彼を、申子爵は申家軍の筆頭将軍に任命した。

 同時に、彼が倒した王級魔物の魔石と素材で作った武器や鎧も下賜された。

 申家軍の筆頭職群の地位は、生前の穆将軍が就いていた役職であった。

 荊軻は再三辞退したが、申子爵は辞退を許さず、「荊軻がその地位に就かないと、あの世の穆将軍が悲しむ」と言われて、仕方がなく就任した。

 20代の若くて、しかも平民出身の騎士が申子爵家の筆頭将軍になるなど、普通は有り得ない。この役職は、陪臣家の名門でベテランの騎士が就く地位だ。将に、穆将軍のような人格者で家柄も秀でた人物に相応しい。

 平民出身の者が、この地位に就く事になったら、譜代の陪臣たちが黙っていない。


 だが、申家軍の騎士の中で、誰一人文句をいう者はいなかった。

 多くの陪臣家の騎士が死んで適当な人物がいなかったのも一つの理由であった。

 だが、それ以上に、鬼餓狼を倒した燕荊軻の名が轟いていた。申家領だけでなく、大陳国中に鳴り響いていたのだ。

 もし、燕荊軻が筆頭将軍になる事に文句を言おうモノなら、申子爵から白眼視されるだけでなく、申家領の皆から相手にされなくなる。そんな命知らずはいなかった。


 それに、申家軍の筆頭将軍になった荊軻は、喜んではいられなかった。

『死海の森』の戦いで、多く兵が死んだのは申家軍の立て直しは並大抵の事では無かった。鎧も、そして騎士もほとんど失った申家は一から軍を立て直す必要があったのだ。

 その意味でも、荊軻の名声は必要だったのだ。

 筆頭将軍になった荊軻が一番不幸だったかも知れない。

 とにかく、こうして申家軍に、燕荊軻という『英雄将軍』が生まれたのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る