第20話 5人組
「曹伯爵様、趙嘩照様がいらっしゃいました。」
侍従長が、儂に客人の来訪を伝えにきた。
「中へ通してくれ。」
趙嘩照は寄り親である蔡辺境伯が紹介してくれた商人だ。
私が伯爵に昇爵し、今までの領地から広大な領地へ領地替えをした際に紹介してもらった。
非常に優秀な商人で、中々手に入らない鎧を200騎も用意してくれた。200騎の鎧を集めるなんて普通の商人には出来ない。それだけ、彼女は蔡辺境伯の信頼が厚く、人脈が広いという事だ。
伯爵に昇爵し、領地が3倍にも広がったのに、今までの鎧騎士の数では伯爵としての体裁が保てないと困っていた。体裁だけでなく、相応の数の鎧騎士を確保しなければ、領地の統治がままならないのだ。
だが、鎧騎士の数は簡単に増やせるものではなかった。
まず、国の許可が必要である。
貴族が保有できる鎧騎士の数は決まっている。
最大戦力である鎧騎士の保有を貴族が自由にしたら、貴族のやりたい放題になってしまう。だから、国が貴族の保有できる鎧騎士数を決めている。
儂の場合、鎧騎士の数を増やす申出は直ぐに許可がおりた。
領地が広がり伯爵に昇爵したのだ。鎧騎士の数を増やすのは当たり前であった。
その上、この国の王は7歳の子供だ。そしてこの国の宰相は自分の弟だ。誰も、儂が鎧騎士を増やす事に異を唱える者などいない。
国の許可は簡単に降りた。
降りたが、そこからが大変なのだ。
鎧は、金を出せば簡単に買えるモノではなかった。
特級魔力以上の魔物を倒せる冒険者が少ない。
だから、魔石が少ししか市場に少でない。特級以上の魔石がなければ、鎧を作る事ができない。
金が有れば鎧が手に入るかと言えばそんな簡単ではないのだ。
それが今の乱世のこの世界であった。
何処の国も特級以上の魔石の奪い合いである。
それを嘩照殿は人脈を駆使して200騎という数の鎧を手に入れてきたのだ。
鎧だけでなく、操縦者である優秀な騎士も集めてきてくれた。
騎士も特級以上の魔力を持った者でないと鎧は動かせない。特級以上の魔力を持つ魔法兵はいるが、今まで鎧の操縦などやらせていなかった。
彼女は寄り親の蔡辺境伯の伝手を使って、優秀な騎士まで揃えてくれた。
けっこうな額の金は掛かったが、鎧騎士を得られるのであれば背に腹は代えられない。この機会を失えば、2度とまとまった数の鎧を得るのは難しい。
大きな借金をしたが、それだけの価値はある。
力を持っているからこそ、貴族として力が発揮できる。そして、この力を得られたのは彼女のおかげだ。
そんな彼女を、粗末に扱う事はできなかった。
扉が開くと、美しい女性が入ってきた。
スリットが入った体のラインが分かる黒い服で身を包んでいる。
「これは、曹伯爵。お久しぶりですわ。」
女性は両手を掲げて、右手の拳を左手で覆い、礼の挨拶を行う。
「これは、趙嘩照殿。この前は本当に助かった。あの時、良い策を授けて頂いたおかげで燕荊軻を捕まえる事ができた。感謝するぞ。」
「それは、良かったですわ。伯爵様の役に立てて私も嬉しいです。ですが、私は大したことなどしておりません。ただ、荊軻の弱点をお伝えしただけ。」
「その弱点に気づかせてくれたのが良かった。燕荊軻の武力は卓越している。うちの李剣星も同じ王級魔力のくせに尻込みして戦おうとせん。今回は嘩照殿が言う通り、剣星を作戦から外し、燕荊軻の『情』を攻めた作戦で上手く奴を捕獲が出来た。反乱兵3千人も一緒だ。」
彼女が領民を人質にすれば、燕荊軻は何もできないと彼女が助言してくれた。
始めは、こんな方法で燕荊軻を捕まえられるかと怪しんだが、やってみたら上手くいった。燕荊軻だけでなく、配下の反乱兵3千人も捕虜に出来た。
それに、将軍の李剣星がこの作戦に反対してきた。これも、彼女の言う通りに、息子の圭鎮の専属隊に配置換えをすると大人しくなった。
結果だけ見れば、嘩照殿の助言が全て的中した。そのおかげで、反乱軍の中で一番大きい申家軍の首領である燕荊軻を捕まえるのが出来たのであった。
「いえ、私の助言など、大したことはありませんわ。全て曹伯爵のお力です。それより、燕荊軻は公開処刑を餌に、羅家と魏家をおびき出す策は如何いたしますか。旧南3家のうち、申家はほぼ壊滅させましたが、まだ2家が残っていますわ。」
「ああ、それも、嘩照殿の言う通りに、燕荊軻を餌にするつもりだ。まぁ、奴らが釣れなければ、公開処刑を領民への見せしめにすればいい。荊軻の公開処刑を見れば、この地の民も大人しくなる。それに、嘩照殿が集めてくれた鎧騎士の力を見せる良い舞台になるであろうよ。ハハハハハ。」
荊軻は殺すつもりだ。
だが、どうせ殺すなら、少しでも統治に有効になるように殺した方が良い。
残りの残党である羅家や魏家を誘えればいい。
だが、餌にかからなくても、旧勢力の象徴である荊軻を公開処刑で殺せば、生意気な領民も儂に歯向かう気持ちも失せるであろう。
「さすがは、曹伯爵様。また、奴隷兵をたくさん捕まえて頂ければ助かりますわ。ダレイ兵は高く売れますから。そうすれば、曹家の財政も潤います。それに、今まで蠅のように煩わしかった旧南3家の残党が壊滅すれば、伯爵様の統治も安定します。」
「そうですな、荊軻の処刑に釣られて、魏家と羅家が上手く動けば良いが。」
儂の考えでは、荊軻の餌で羅家と魏家が釣れる確率は少ないと見ている。あの2家が荊軻を助ける義理は無い。だが、あの2家が荊軻を見放せば、奴らの部下や領民の信頼は確実に落ちる。どちらに転んでも儂にとって悪い話ではないのだ。
「2家を誘い出す方法で私に考えがありますわ。」
「ほう、趙嘩照殿の考えとは興味深いな。聞かせてもらおう。」
「荊軻の反乱軍の生き残り共を使うのです。申家軍の主力が荊軻と一緒に捕まえましたが、後方部隊の生き残りが奴らのアジトに残っていますわ。奴らを捕まえて、羅家や魏家に援軍を依頼させては如何でしょうか。」
後方部隊の生き残りに、羅家や魏家へ援軍依頼を出させるのは悪くない策だ。
援軍依頼ごときで2家が動くとは思えないが、申家の救援を断った事実の方に意味がある。救援を断った場合、民や兵の2家への失望は大きくなるはずだ。
「なるほど、それは面白い。岑将軍に検討させよう。」
「それと、荊軻の処刑会場はどちらにするつもりですか。」
「そうだな。まだ、細かく煮詰めていなかったが、【曹陽】都市内の広場あたりが良いのではと考えていたが。」
この領都【曹陽】の中央に大きな広場がある。
あの広場なら、広さ的にも問題無いはずだ。それに、曹陽の民も見物できる。
「そうですか。ですが、見せしめという意味では城郭の外の方が良いのではないですか。【曹陽】の民は北から伯爵が連れて来た民ばかりです。元々、この地に在住する民たちに荊軻が殺される処を見せた方がよろしいですわ。」
「う~ん、確かにそうだな。さすがは、嘩照殿だ。そうしよう。」
この公開処刑は見せしめの為に行うのである。城郭の外の方が、旧申家領の領民が見に来やすい。それに防衛の為、城の内を考えていたが、城の外で公開処刑を行って、隙を見せた方が羅家や魏家を誘き寄せる呼び水になるかもしれない。
「それで、奴隷どもはいつ頃、大商国の胡家に引き渡しましょうか。」
「そうだな。荊軻の処刑も終われば、人質も不要だ。荊軻の処刑が行われる一週間後ぐらいにしよう。」
奴隷を早く現金化したいが、荊軻の処刑が終わってからの方が良いだろう。
何千、何万のまとまった数の奴隷を運ぶので、道中に襲われると困る。荊軻の処刑の後なら、運送の警護に兵を割くこともできる。
「分かりましたわ、曹伯爵。その旨は私から奴隷商人の呂照貴に伝えておきますわ。彼女が大商国の胡家に話をつけておりますから。」
これだけの数の奴隷だと、大陳国だけではさばききれない。
奴隷売買が盛んなのは、南東の隣国の大商国であった。
その中でも、一番大きい奴隷商人が胡家である。嘩照殿の顔見知りの奴隷商人経由で、胡家に大量の数の奴隷売却の話はつけてあった。
「奴隷の売却の件は頼む。それと、蔡辺境伯にしっかり礼を言っておいてくれ。鎧騎士200騎を集めるのに陰ながら蔡辺境伯の尽力があったと聞いているからな。ついでに曹伯爵領の治安も問題ないと言っておいてもらえば助かる。」
「承知しましたわ、伯爵。そのように蔡辺境伯様にはお伝えお致します。きっと、辺境伯様もお喜びになられるはずですわ。」
「これも、嘩照殿の助力のおかげだ。礼を言う。」
「そんな、私の力など大したことはございません。全ては、伯爵様のお力かと。それでは失礼いたします。」
趙嘩照が礼を行って帰って行った。
暫くすると、反対の扉から男が入ってきた。
「伯爵様、女狐は帰りましたか。」
入ってきたのは、岑将軍である。
彼が曹家軍の筆頭将軍に就いて、曹家軍の本軍の指揮を行っていた。ついこの間までは、李剣星将軍が就いていた地位だ。
「ああ、今帰った。今回は、大した話では無かった。魏家と羅家をおびき出す為の策をいくつか言って帰って行った。燕荊軻の配下の生き残りに援軍要請を出させるとか、公開処刑は城郭の外で行うとかだ。まぁ、上手く行くかは別だが、どちらも悪い策ではない。そのように手配しておいてくれ。」
「分かりました、伯爵様。まぁ、あの女狐の策で燕荊軻を捕まえられたのは事実です。それに鎧騎士200騎を集めてきてくれました。今回の策も、確かに悪い策ではありませんが・・・。」
「分かっておる、岑将軍。お主が言いたいのは、蔡辺境伯の事であろう。弟からの文で蔡辺境伯が王位を簒奪する準備を着々と進めていると聞いている。だが、我が家に広大な領地を与え、伯爵家への昇爵に尽力したのは蔡辺境伯だ。弟が言うように蔡辺境伯が王位を簒奪しようとしているのか決めつけるのは早い。」
我が家は蔡辺境伯家の寄子だ。
だが、寄子と寄り親は主従の関係ではない。寄り親を変える事はあっても、仕える王を変える事など無いのだ。それほど、王への忠誠心は重い。もし、本当に蔡辺境伯が王位を簒奪するつもりであれば、一族を上げて止めねばならない。
「確かに、伯爵様の言う通り、決めつけるのは良くありません。ただ、用心をするのに越した事もありません。それと、あの女狐は危険な匂いを感じます。裏で、ご嫡男の圭鎮様に何か吹き込んでいる様子ですし、何かを企んでいるに違いありません。決して油断無きように。」
「分かっている、岑将軍。それで、荊軻の生き残りを捕まえる件だが。息子の圭鎮にやらせようと思うがどうだ。何か吹き込まれているなら、確かめるのにも良いかもしれんぞ。」
「そうですね、良いと思います。圭鎮様の専属隊には、李剣星を配属させましたから。あの者を遊ばせておくのは勿体ないのです。」
「そうだな。李剣星も、北にいた頃は、儂の為によく働いてくれたのだが。南に来てから、儂の言う事にいちいち逆らうようになった。王級魔力の騎士なので追い出すわけにはいかんが、将軍の地位をはく奪して正解だ。まぁ、圭鎮の専属隊なら静かにしておるだろう。圭鎮に命令を出しておいてくれ。」
李剣星は、曹家軍で唯一の王級魔力の騎士であったので、目をかけ筆頭将軍として可愛がっていた。それが、南に移封してから理由は分からいのだが反抗的になった。本来なら、曹家軍から追い出すのだが、貴族軍の中に王級魔力の騎士がいないと他の貴族から軽くみられる。
曹家軍に箔をつける為にも、仕方がなく李剣星は追い出せないでいた。
今は、息子の圭鎮の専属隊に配置換えとなり、大人しくしている。
「はい。それでは、圭鎮様に伯爵の言葉を伝えておきます。」
岑将軍は跪いて受令の礼を行うと、立ち上がり部屋を出ていくのであった。
* * *
曹家領の居城の牢屋
湿った牢屋の壁、男が鎖で貼り付けられていた。
男は顔を下に向いて動かない。両手に手錠が嵌められ、首には【奴隷の首輪】が嵌められ、壁に張り付いている状態だ。
「おい、兄貴。生きているか。」
牢屋の外から、男の声が聞こえる。
「おい、門番。中に入るから、牢屋を開けてくれ。それに手錠の鍵も貸してくれ。」
「李剣星将軍、それは出来ません。もし、燕荊軻が暴れて牢屋から出たら大変です。いくら李剣星将軍の命令でも、それは承知いたしかねます。」
牢番は困った表情で、李剣星が鍵を受け取る為に差し出した手をつき返した。
「じゃ、俺が牢屋に入ったら、直ぐに牢屋の扉の鍵を閉めろ。それに、荊軻将軍の首には《奴隷の首輪》が嵌められているんだ。逃げたら、奴の首が締まる。だから奴は逃げられ無い。そうだろ、門番。」
李剣星は持ってきた酒と肉を、門番に差し出した。
「それと、これを喰え、これは口止め料だ。俺は牢屋の中で、兄貴と酒を飲んで、肉を食うだけだ。逃がしたりはしないから安心しろ。それと俺が荊軻将軍の牢屋にきたことは黙っていてくれよ。口止め料は渡したからな。」
「・・・仕方がありませんね。将軍の命令には逆らえませんから。」
門番は酒と肉を受け取ると、渋々手錠の鍵を李剣星に渡した。
相手は曹家軍の中では誰もが知っている李剣星将軍である。門番ごときが逆らえる相手ではなかった。
その代わり、門番は李剣星が牢屋の中に入ると、外から扉に鍵を閉めた。
李剣星は荊軻の近くまで近づくと、壁に吊るしている手錠を外した。
「おい、兄貴。生きているか。今日は酒を持ってきた。肉もあるぞ。」
今まで牢屋の壁に張り付いていた荊軻は手錠を外され、李剣星に支えながら地面に座らされた。
荊軻は疲れ切っているようで、座って暫くしてから少しずつ目を開けた。
「お、おう、李剣星か。久しぶりだな、元気か。」
「ああ、元気だ。兄者」
「曹家の将軍がこんな所でなにをやっているんだ。」
荊軻は、顔や体じゅうが傷だらけだった。相当にひどい拷問があったようだ。
「兄者に会いに決まっているじゃないか。久しぶりだな。酒も持ってきたぞ。兄貴と一緒に飲みたくて牢屋の門番に開けてもらったんだ。門番も良い奴なんで、素直に開けてくれた。さぁ、一緒に酒を飲もうと思ってな。」
牢屋の外では、門番は嫌な顔をして酒を飲んでいた。
剣星の口ぶりだと、門番である自分も共犯者のような言い方だ。まぁ、酒も肉ももらったんで仕方が無いと、半分は開き直っているように見える。
「おい、それより李剣星。お前は、曹家軍の将軍だろう。曹家軍の将軍が、反乱軍の頭と牢屋で酒なんか飲んでいいのか。」
「良いんだ、兄貴。兄貴は俺の命の恩人だ。兄貴に助けられなかったら、俺はこの世にいなかった。今は、偶々(たまたま)、兄貴と俺の立場が対立しているが。別に俺と兄貴が争っている訳じゃないからな。それに、俺はその曹家軍の筆頭将軍の地位を首になって、今は馬鹿息子のお守をさせられているよ。ハハハハハ、まぁ、気を遣わなくて良いんで、俺は楽になった。とにかく、飲もう!兄貴。」
李剣星は持ってきた陶器の碗を荊軻に渡した。
そして、碗の中に酒を注ぐ。
「剣星、お前は全く、昔と変わらんな。」
「そうか、それは俺にとって誉め言葉だ。嫌な上司が変わり過ぎたからな。まぁ、そんな事はどうでも良い。それじゃ、再会に乾杯だ、兄者。乾杯!」
李剣星は自分の陶器の碗を荊軻が持つ碗にぶつけると、一気に碗の酒を飲みほした。
荊軻は、碗の酒を口に含んで、ちびちびと口に入れる。
どうも口の中の傷に酒がしみる様で、痛そうな表情をしていた。
「どうした、兄貴。口の中が傷でしみるのか。」
「まあ、そんな所だ。」
「兄貴、ゆっくり飲んでくれ。それより、こんな処で、兄貴と再会できるとは思わなかったぜ。もう10年前になるか・・・兄貴に命を助けてもらったのは。」
李剣星は遠い昔を見るような目で、荊軻と自分の陶器の器に酒を注ぐ。
そして、李剣星は一気に器の酒を飲みほした。
それから、2人で10年前の『【死海の森】の戦い』について語った。
あの戦いは、大陳国が南東の隣国の小国である大商国に攻め込んだ戦いだ。
燕荊軻は申家軍の騎士として、李剣星将軍は曹家軍の騎士としてそれぞれ大陳国の陣営で参戦していた。
そして戦いの結果は、大陳国の惨敗であった。
大商国の2倍近い戦力で大陳国が攻め込んだのだが、大陳国は壊滅的な惨敗を喫したのだ。その戦いで李剣星は荊軻と珪西の兄に命を救われていた。
その時から、約10年に渡り、李剣星は荊軻との親交を続けていた。
親交といっても、年齢が10歳ほど若い李剣星が荊軻を兄貴と言って、一方的に慕っているのである。
「そうだな、もう10年になるか。あの時は、まさかこんな状況になるとは思ってもいなかったな。そして、こんな処での再会するとも思っていなかった。」
荊軻は、牢屋に捕まった情けない自分を振り返って、自嘲気味につぶやいた。
「『戦いの勝敗は兵家の常』だったか。確か、兄貴が俺に教えてくれた言葉だ。戦いに勝敗は付き物。次に勝てば良いんだろう。まぁ、とにかく兄貴、元気を出して飲んでくれ。」
「そうか・・・『戦いの勝敗は兵家の常』か、俺が剣星にそんな事を言ったか。だが、今の俺に次は無さそうだがな。」
李剣星が荊軻の耳元で囁いた。
「そんな事はないぜ。もし、脱獄したいんなら、俺が手引きをするぜ、兄貴。」
李剣星は門番には悪いが、門番を倒して、《奴隷の首輪》の鍵を奪い取り、荊軻を脱獄させるつもりでこの場に来ていた。
「・・・いや、脱獄はしない。逃げ出しても、皆に迷惑をかけるだけだ。」
荊軻は暫く考えて、首を振った。そして小声でつぶやいた。
「兄者、俺の事は気にすんなよ。俺は曹家を出るつもりだ。曹伯爵は昔はあんな人じゃ無かった。南に移封してから、おかしくなっちまった。爵位が子爵の頃は、民を大事にして、決して民を奴隷にするような領主じゃなかった。それが、あの女狐に良からぬ事を吹き込まれておかしくなったんだ。今の曹家に未練はない。冒険者にでもなった方が何倍もましだ。」
李剣星は拳を握りしめて悔しそうにつぶやいた。
そう、女狐・・・趙嘩照が伯爵に色々囁いて、この曹伯爵をおかしくしてしまった。今の曹伯爵は北に領地を持っていた頃とは別人のようだ。
「だから、もう、曹家に未練はねえ。兄貴を牢屋から助け出して、俺は冒険者にでもなるつもりだ。だから、俺と一緒にここから抜け出そう。」
李剣星は牢番に聞こえないように小声で、荊軻の耳元で囁いた。
さらに、軍の所属が曹家軍の本軍から、嫡男の専属隊に変わって、益々曹家軍への愛着は薄れていた。
そんな彼に、蔡辺境伯からの引き抜きの声がかかっていた。
将軍の席を用意すると打診を受けていたのだが、貴族の宮仕えなんて勘弁してくれという気持ちで断っていた。
「剣星、悪いな心配させて。だが、俺が迷惑をかけるのはお前だけじゃない。俺は目の前で民を人質に取られて、何もできなかった。その所為で、3千人の部下が曹家軍に捕まった。きっと、部下たちは奴隷兵にされて、戦場に送られるだろう。そんな状況で、俺一人が逃げるわけにはいかないんだ。剣星の気持ちは嬉しいが、俺はこのまま死んだ申子爵の処に行くつもりだ。」
荊軻は、陶器の器の酒を一気に飲み干した。
「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ。剣星、この酒は強いな。」
一気に飲みを干して、荊軻はむせていた。
「そうか・・・そうだな。兄貴らしいが。俺は兄貴に死んで欲しくないんだ。」
李剣星も寂しい顔をして、陶器の中の酒を一気に飲み干す。
「剣星、一つだけお願いがある。」
「なんだ、兄貴。改まって、何でも言ってくれ。」
「妻の珪西に・・・、その、なんだ、伝えて欲しい言葉が・・・。託して良いか。」
荊軻はバツが悪そうに言うと、剣星に頭を下げた。
「ああ、任してくれ。俺の命に代えても、必ず兄貴の言葉は伝えるぜ。」
と剣星は力強く頷くのであった。
* * *
【曹家領】 楊慶之
俺たちは、昨日、曹家領に入っていた。
当面の目的は、曹家に抵抗している旧南3家の残党を仲間に引き入れることだ。そしてその後、曹家領を制圧する。
ただ、目障りなのは蔡辺境伯の配下だ。
奴らは蔡家の寄子である曹家を攪乱させようと動いている。蔡辺境伯が玉座を簒奪する為に、寄子すらも邪魔のようだ。
蔡辺境伯と曹家がぶつかり合うのは思う存分やって欲しいのだが、蔡辺境伯は自分の手を汚さずに曹家軍を潰すつもりであった。
上手く、旧南3家を曹家軍にぶつけて、自分の力を浪費しないで政敵をかたずけていくつもるのようだ。
半蔵が掴んだ情報によると、蔡辺境伯の配下は曹伯爵の懐に入っている。奴らは曹伯爵だけでなく、旧南3家の残党勢力にも近づいているらしい。
旧南3家が潰されたら貴重な人材を得る機会を失ってしまうので、俺たちは蔡辺境伯の目的を阻止する為に、曹家領に侵入したのであった。
ただ、その予定が曹家領に入った初日から狂わされた。
成り行きで、神級魔物の猿鬼3匹と戦っている少女を救ったら、その子の治療もあって、昨日は
まぁ、救った少女は、桜花の介護のおかげで体調は問題ない水準に回復していた。
休息で失った血も回復して、俺の治癒魔法で治療も完璧だから当然の結果である。
そろそろ、出発しようかと準備をしていると、桜花がやってきて扉を叩いた。
「慶之、ちょっといいかな。」
「ああ、いいぞ。」
俺が答えると、桜花が救った少女と一緒に部屋に入ってきた。
女の子は俺の前に来ると、いきなり頭を下げた。
「楊慶之様、危ない所を救って頂きありがとうございます。私は董陽花(とうようか)と言います。妹の小花まで治療して頂きました。楊慶之様は私と小花の命の恩人です。今の私には、これしかできません。せめて、お礼として受け取ってください。」
少女は、持っていた袋を俺に差し出してきた。
袋の中を覗くと小さな魔石がたくさん入っていた。
「ああ、俺は楊慶之だ。それと、魔石は受け取れない。別にお礼が欲しくて助けたんじゃないからな。この魔石は董陽花、お前が持っていればいい。」
俺はそう言って、受け取った魔石の入った袋を返した。
「そうはいきません。死ぬ所を助けてもらったんです。妹の小花もです。これは、受け取ってください。」
董陽花と名乗った女の子は、返した袋を俺に押し返す。
彼女は髪の色は黒くて目の大きな子だ。話し口調は落ち着ており、見かけより年齢は上なのかもしれない。
「困った子供を見かけたら助ける。これが俺の師匠の信念なんだ。助けた子供から礼なんて貰ったら、師匠に怒られるからな。それに、魔石なら神級魔物の魔石を3つもらっている。その魔石は売れば、金になるはずだ。お前が持っていろ。」
魔石は見た感じ、下級魔物の魔石ばかりだったが、下級魔物の魔石でも売れば小銭が稼げる。あれだけの量なら、冒険者組合(ギルド)に持って行けば、結構な金になるはずだ。
それに、彼女を襲っていた神級魔物の猿鬼を倒して、その魔石も手に入れている。
「私は子供ではありません。もう14歳です。でも・・・そこまで、楊慶之様が拒まれるなら、これ以上は言いません。でも、本当にありがとうございました。」
確かに、この世界で14歳は子供扱いをしない。15歳から成人なので青年の扱いだ。前世では14歳は中学2年生くらいで、つい子供扱いをしてしまう。
それに、目の前の少女——董陽花は実年齢も幼く見える外見をしていた。
「ああ、素直でけっこう。それで、体調はどうだ。」
だいぶん血を失った割には、今の陽花の顔色は悪くは無かった。
一日休んで、ずいぶん体調は回復したようだ。この顔色ならもう大丈夫だろう。
妹の方も最初に会った時は凄い熱だった。症状は疲労だったので、栄養剤と解熱剤を飲ませて、ぐっすり寝かせたらすぐに良くなった。
「はい、もう大丈夫です。」
「それで、董陽花。お前たちはどこに行くつもりだったんだ。」
「はい、東の大商国です。」
桜花から陽花についてだいたいの事は聞いていた。
彼女たちの素性、猿鬼に襲われた経緯、子供たち3人で旅をしていた理由なども。
どうも、曹家の兵に襲われて、父親を殺されたらしい。
その時に本人は不思議な力に目覚めたと言っていた。その力のおかげで兵士2人を倒したり、森の中で暫くの間、生き抜く事もできたそうだ。
「大商国に伝手はあるのか。」
「・・・ありません。」
陽花はうつむいて、辛そうに答えた。
「そうか、どうだろう、陽花。俺たちの仲間にならないか。」
「仲間ですか・・・、わたしが楊慶之様の仲間になって、何をすれば良いですか。」
陽花は少し警戒しているようだ。
今まで、子供3人で旅をしてきたと言っていた。
奴隷商人や野盗などにも襲われたに違いない。甘い言葉で近づいてくる奴隷商人はたくさんいる。仲間になれと言われて、ホイホイと付いて行ったら大変な事になる事を彼女は知っているのだろう。
彼女は魔石を差し出して、助けてもらった礼をすると言っていたし、賢い子だ。
俺は、軽率に発現した自分の言葉を反省した。
「いや、すまん。『仲間にならないか』と言われて、知らない人の仲間になる奴はいないな。まず、俺の目的から話そう。俺は曹家や秦家などの貴族を倒そうと思っている。その為に仲間を集めている。それで、陽花も一緒に悪い貴族と戦う仲間にならないかと誘ったんだ。」
「楊慶之様は貴族と戦うのですか?」
「そうだ。蔡辺境伯にたくさんの貴族が滅ぼされたのは知っているか?まぁ、俺も家族も滅ぼされた貴族の一人なんだが・・・、そんなの知らないよな。とにかく、俺は親の敵討ちをしたいんだ。そいつが貴族の親玉で、そいつを倒して、貴族がいない世界にしたいんだ。」
陽花に、俺の目的が何で、何の仲間になるのかを説明しようとしたが、自分で話して訳が分からなくなった。
ただ、自分の戦う目的を伝えるだけなのだが、上手く言葉にできなかった。
「・・・・・?両親の敵討ちですか?」
「そ、そうだ。そう、それだ。両親と2人の兄、それに申家に嫁いだ姉の仇。敵討ちに手を貸して欲しいんだ。」
俺の今の一番の目的は復讐だ。
貴族や魔物などの無い世界、弱い者が生きやすい世界にしたいとの願いは姜馬の考えで、姜馬の受け売りに過ぎない。
だから、俺が説明しようとしても上手く語れない。
俺が語れるのは、復讐についてだ。だが、自分の復讐に人を巻き込むのにも気が引けている。全く以って、俺は矛盾だらけの人間のようだ。
「それで、相手が貴族の親玉で、貴族も倒したいんですか。」
「そうだ。」
あの分かりにくい説明を、陽花が少しは理解していたようでほっとする。
「死んだ母が言っていました。『あなたは強くなりなさい。そして、もし、そんな弱い人を守る人を見つけたら、その人に仕えなさい』と。楊慶之様は弱い人を守る人なのですか。」
「そうだな、貴族を倒すのも、貴族に虐げられた人を助けることに繋がるが・・・ただ、俺はなんでもできる人間じゃないんだ。だから、救いたいと思う人を守る。しかも手が届く範囲でだ。自分が守りたいと思う人の中に弱い人が含まれていれば、その人も守る。」
答えになっているかは分からないが、嘘はつきたくない。
この世界は弱肉強食。生きる為に頑張る奴は守りたいが、初めから人を当てにする奴を守ろうとは思わない。弱くても、あきらめないで努力する奴。そんな奴は守ってやりたい。それが俺の正直な気持ちだ。
「あの、それと、楊慶之様の仲間になれば、私はもっと強くなれますか。」
「ああ、強くなれる。俺の仲間には姜桜花という怖い武闘家がいるからな。三途の川を見る事になるかも知れないが、間違いなく強くはなれる。」
俺は自信を持って答えると、隣の桜花から強い殺気を感じた。
思わず横を向くと、桜花がニコッと微笑んで、怖い視線で俺の顔を見ていた。
「分かりました。私は楊慶之様の仲間に、いえ、家来になります。楊慶之様を主としてお仕え致します。あと、曹家は私の仇です。是非、曹家も叩き潰してください。」
彼女は強いまなざしで俺の目を見つめている。
「そうか、仲間になってくれえるか。ありがとう、陽花。それに、曹家は元々潰すつもりだし、倒すように頑張るよ。」
曹家を滅ぼすのは、今回の作戦の目的の一つだ。
「ありがとうございます。ただ、私なんかが楊慶之様のお役に立つのですか。」
「楊慶之様じゃなくて、慶之で良いよ。それと、陽花は役に立つ。陽花は自分が神級魔力を持っていることを知っているか。」
「いえ、桜花様が同じような事を言っていましたが。私は貴族の生まれでも、生まれながらの魔力持ちでもありません。本当に私が魔力を、しかも神級の魔力を持っているのですか。」
魔力は普通は貴族が持っているモノで、領民に魔力を持つ者は少ない。
だが領民の中にも、稀に魔力を持っている者もいるには居る。ただ、その場合も生まれつきに魔力を持っている者が多かった。
俺もそうだが、魔力が使えなかった者が、途中で魔力に発現する者は珍しい。
「ああ、陽花は神級魔力を持っている。俺はその証拠を見た。陽花が神級魔力の猿鬼と戦っている時、陽花が持っていた剣を赤色の魔力色が覆っていた。それに、陽花が使っていた《神速》魔法。あの魔法は神級魔力の持ち主にしか使えない。間違いなく陽花は神級魔力を持っている。そして、俺たちの仲間として頼りになる。桜花の修行を受ければもっと頼もしくなるぞ。ちょっと、スパルタだけどな。」
「スパルタ?スパルタってなんですか。」
陽花は首を傾げる。
「子雲。さっきから風評被害は止めてくれるかな。なんで僕がスパルタなのかな。僕の修行は優しく、効率良く力を付けられるよね。それは、子雲が一番よく知っているはずだだけど・・・、もう忘れたならもう一度修行をやり直そうか。」
桜花が怖い目つきで俺を睨みつける。
俺が修行をつけられた時に、桜花にスパルタの意味を教えてしまっていたので、彼女はスパルタの言葉の意味を知っている。
それはともかく、修行のやり直しだけは勘弁して欲しい。
「い、いや。桜花は何を勘違いしているのかな。スパルタの意味は優しくて効率の良い訓練という意味だぞ。そう、そう。そういう事で、陽花、これから桜花との修行は頑張ってくれ。さぁ、みんな、行くぞ。」
俺は慌てて、《館》を出立する合図を仲間に送るのであった。
目指すは、南3家の残党と会って、仲間に引き入れるのだ。
* * *
申家軍の残党の砦 燕珪西
「珪西様、怪しい男が砦の前にやってきて、珪西様に面会を求めております。なんでも、蔡辺境伯の使者と言って、荊軻将軍の救出に手を貸すと申しています。」
副官の梁玉景が、燕珪西の処に報告にやってきた。
申家軍の頭領である燕荊軻が曹伯爵に捕まっているので、荊軻の妻の燕珪西が頭領代理を務めていた。
「蔡辺境伯の使者ですか・・・私たちの主君の申子爵を殺した仇が、この砦に使者を送るとは、どういう魂胆でしょうか・・・。」
頭領の荊軻将軍と、主力兵士の3千人が曹家軍の姑息な罠によって捕まってしまっている。この砦には大した戦力が残っていなかった。
その砦に、蔡辺境伯が討伐軍を送るなら分かるが、わざわざ使者を送る目的が分からない。
(目的が分からない相手に会うべきではないか・・・。しかも、相手は申家軍の敵の親玉である蔡辺境伯の使者と名乗っている・・・)
珪西は暫く考え込んで、玉景に尋ねた。
「玉景、相手は何人ですか。」
「一人です。そこそこの魔力の持ち主と思われますが。」
「一人ですか・・・。」
主君を殺された仇の砦を、一人で訪れとは使者の男も度胸が据わっている。
恨みを晴らすと言って、使者が殺されても文句は言えない。
(嫌な感じがする。)
本来なら、さいへっ脅迫の使者に会うべきではない。
蔡辺境伯を信じられるはずが無いのだ。何かの罠に決まっているのだ。
だが、『荊軻将軍を救出するのに手を貸す』と言う言葉は無視はできない。なんとしても、荊軻将軍を助けたいと今も頭を悩ましていた処だ。荊軻将軍の処刑の日まで残り少ない。正直、荊軻将軍を救う手立てが無いと焦っている。
今の珪西は、藁にもすがりたい気持であった。
「追い返しますか。」
珪西が悩んでいると、玉景がどうするか尋ねてきた。
梁玉景は、申子爵家の陪臣の娘である。
彼女の父は燕荊軻の配下の将軍であった。
領都【申陽】が陥落する時に、申子爵と共に命を落としている。
「いや、待って、少し考えるわ。・・・蔡辺境伯の使者。・・・その者が荊軻将軍の救出に手を貸す・・・。玉景はどう思いますか。」
蔡辺境伯は主君の仇であり憎い。
気持ちとしては会いたくない。
だが、蔡辺境伯の狙いが何か分からないが、力を持っているのも確かだ。
今の珪西たちにとっては、荊軻将軍を救うのが一番に優先される。
『荊軻将軍を救うのに手を貸す』という相手を、むげに突き放すことは今の珪西たちには出来なかった。
梁玉景も暫く考えて口を開いた。
「私は会うべきだと思います。怪しいのは間違いありません。ただ、相手は一人ですし、会って話を聞くだけなら危険は少ないと思います。話を聞いて、変な話ならその場で断る。悪くない用件なら、その場での回答さえ控えて頂いて皆で検討する。会って情報を得るだけでも良いかと思います。」
梁玉景の話は一理ある。
父親を殺された彼女の方が蔡辺境伯を憎んでいるはずだ。その彼女が冷静に判断したのだ。
珪西はその蔡辺境伯の使者と名乗る男に会う事にした。
暫くすると、その男は部屋に入ってきた。
隣で、梁玉景が厳しい視線で男を監視している。
男は珪西の前に座ると、意外にも、礼儀正しく礼をした。
「これは、燕珪西殿。私は蔡辺境伯の使者で范令と申します。以後、お見知り置きを。」
「私は、燕珪西です。よろしく。それで、范令殿の用向きは何なのですか。」
珪西は蔡辺境伯の使者と思うと、つい怒りを覚えてしまう。
使者への対応もそっけないモノとなり、初めから用件を切り出した。
「私は、荊軻将軍を助ける手助けをするつもりで、この砦に伺いました。」
「蔡辺境伯が申家軍の荊軻将軍を助けるのですか。少し信じられませんね。荊軻将軍を助けて、蔡家に何の得があるのですか。いったい目的は何なのですか。」
蔡家の使者が荊軻将軍を助けたいと言って、その言葉をそのまま信じるほど、珪西も愚かではない。蔡家にメリットが無ければ、動くなはずがないのだ。
范令は表情をニヤッと緩めた。
「話が早くて助かります。蔡辺境伯が望むのは2つです。一つは、荊軻将軍に蔡辺境伯の配下に入って頂く事です。もう一つは、牢獄に捕まっている申家軍3千人の兵士を脱獄させるので、珪西殿が指揮をとって、荊軻将軍を救う戦いに参戦してもらう事。もし荊軻将軍が配下になれば、蔡家軍の将軍の地位を準備させます。」
「荊軻将軍が蔡辺境伯の配下ですか・・・。」
珪西が思案に耽っていると、横の梁玉景が口を開いた。
「ふざけるな!申子爵家を滅ぼしておいて、今さら蔡辺境伯の配下になれだと!」
玉景の目は怒りで、范令を睨みつけていた。
「玉景、止めなさい。冷静になりなさい。」
「すみません。失礼致しました。」
隣で珪西がなだめて、やっと玉景は冷静になった。
だが、申家軍の残党勢力の者の多くは、家族を蔡家軍に殺されている。今更、蔡辺境伯の配下になれと言われても、納得できない。
「構いませんよ、珪西殿。蔡辺境伯様が求めているのは、申家軍の残党ではありません。別に彼らに蔡辺境伯の家臣になれとは言いません。蔡辺境伯が欲しい人材は燕荊軻将軍その人だけですから。」
「申家軍の兵士たちはどうするつもりですか。まさか奴隷兵にするつもりではないでしょうね。」
珪西は厳しい表情で范令に尋ねた。
「申家軍の兵は奴隷兵にはしません。解放します。安心してください。それより、このまま手をこまねいて良いですか。荊軻将軍は公開処刑で殺されてしまいますよ。それなら、蔡辺境伯の配下になって、この申家領の民や兵を守った方が現実的ではないですか。蔡辺境伯は荊軻将軍の能力を高く買っていますので、わざわざ私がここまできたのです。」
范令は上目遣いに、珪西の表情を盗み見る。
「・・・・・・。」
珪西は何も答えられずに、黙って話を聞いている。
「それとも、荊軻将軍を助ける手段をお持ちですか。そんな手段があるなら、私の話を断って頂いても構いませんが、珪西殿。」
「・・・・・・。」
珪西は無言を貫く。
「どちらにせよ、荊軻将軍が処刑されたら、この地は終わりです。そうすれば、この地の民や兵は、曹伯爵にもっと苦しめられるでしょう。あなた達の仲間は皆殺され、この地の民は奴隷にされて売られる。何もしないで、手をこまねいているのですか、珪西殿。」
「・・・それでは、教えてください。なぜ、寄り親の蔡辺境伯が、寄子の曹伯爵と対立する我らに手を貸すのですか。」
「簡単な話ですよ。曹伯爵の新領土の統治は酷すぎるからです。領民に難癖をつけて奴隷にする等、言語道断。そんな貴族を野放しにできません。慈悲深い蔡辺境伯様は曹家領の状況を憂いています。ですから、あなた方に手を貸して曹伯爵を失脚させる。その後、領民がもっと暮らしやすいように蔡辺境伯様が自ら統治します。荊軻殿が蔡辺境伯様の下で武勲を立てれば、この地を領地として下賜するかもしれません。どちらにせよ、蔡辺境伯は領民の味方です。」
范令はすらすらと蔡辺境伯が珪西たちを支援する理由を説明した。
蘭家や楊家それに南3家を、騙し討ちにした蔡辺境伯が民を憂えるなど嘘くさい。曹伯爵を失脚させる話も胡散臭いが、ここで彼の話を否定しても仕方がない。
蔡辺境伯の使者のという時点で、この男は信用できないのだ。
珪西は、とにかく荊軻将軍を救出する為に、どうしたら蔡辺境伯を利用できるか、もしくは何か有効な情報を聞き出せるしか考えていなかった。
「それで、蔡辺境伯はどうやって、荊軻将軍を救出するのですか。」
「そうですね。まだ、珪西殿が私たちに協力する言質を頂いていませんので、詳しくは話せませんが、曹家軍の鎧騎士を無効化します。」
「鎧騎士を無効化!?鎧騎士を無効化できるのですか。」
珪西は驚いた声を上げた。
「ええ、できます。詳しくは、今はお伝え出来ませんが。協力を申し出てくれたら教えます。蔡辺境伯様の力なら、曹家軍の鎧騎士の無効化は可能。それで、珪西殿。どうしますか、蔡辺境伯様の提案を受けますか。それとも拒絶しますか。」
「・・・話は分かりました。少し考えさせてください。」
珪西は即答は避けた。梁玉景から言われた通り、この場で言質は与えない。
眉間にしわを寄せて悩む表情で、范令に考える時間を要求した。
「分かりました。考える時間を3日差し上げます。3日後にまた来ます。荊軻将軍の処刑の日まで、あまり時間がありませんので。それと、魏家軍と羅家軍にも声をかけてあります。あちらも前向きにこちらの提案を検討していますよ。」
「魏家と、羅家の2家ですか。」
珪西は魏家と羅家にも、荊軻将軍を救う要請をしていた。
だが、魏家からは断りの返事を貰っている。羅家からの返事はまだ来ていないが、魏家と同じだろう。誰も荊軻将軍の救出に手を差し出してくれる人などいない。
それだけに、仇敵である蔡辺境伯の配下であっても、荊軻将軍を救い出すという范令の申出を珪西は無下に断れなかったのだ。
「はい。2家も、きっといい返事をくれると思いますよ。そして、燕珪西殿、あなたからの答えも期待しています。3家の軍が動けば、きっと荊軻将軍を救出できます。一緒に将軍を救出しましょう。また3日後に返事を聞きに来ます。」
「分かりました。それまでに、答えを用意しておきます。」
「それでは、失礼。良い返事を楽しみにしておりますよ、珪西殿。」
范令は、勝ち誇った微笑みを浮かべながら言うと、立ち上がり、部屋から出て帰って行った。
范令が部屋を出ていった後も、珪西は考え込んでいた。
「玉景。あなたは、今の話をどう思いますか。」
一緒に話を聞いていた玉景も考え込んだ表情をしている。
「私は、あの者の話は胡散臭いと思いますし、信用できません。ですが、今の話を受けた方が良いかと思います。」
珪西にとって、玉景の言葉は意外だった。
信用できない相手と分かっていて話を受けろと言っている。それに玉景にとって蔡辺境伯は父親の仇である。そんな仇と手を組むような発言をするとは思ってもいなかったからだ。
「なぜですか、あれほどの毛嫌いしていた蔡辺境伯の下に付くのですよ。」
先ほども、玉景は蔡辺境伯の使者に激しい抵抗感を持っていた。
「私、個人の心情としては、死んでも蔡辺境伯の配下などご免です。ですが、このまま何もせずに荊軻将軍の処刑を待つのは、あまりにも愚か。悔しいですが、この局面で曹家に対抗できる力を持っているは蔡辺境伯くらいです。良薬かどうか分かりませんが、効く薬は苦いモノです。ですから、賛成しました。」
「そうですか・・・。」
珪西はまだ決めかねている表情だ。
「珪西様、返事をするのは明後日。それまでよく考えるべきかと思います。それと、仮に蔡辺境伯の配下に付くとしても、警戒を緩めずに慎重に対応すべきかと思います。」
「そうですね。分かりました。私もよく考えて見ます。」
珪西は、額にしわを寄せたまま、范令が座っていた椅子を見つめるのであった。
* * *
曹家領 趙嘩照
人の気配が絶えた村。
曹家領にはこういった村がたくさんある。
既に月が高い位置にある。今宵は雲で半分の月が見え隠れしている。雲で月が隠れると、辺りには真っ暗になった。
この村も御多分にもれず、どの家も燃えて朽ち果てていた。
ただ、その中に一軒だけ、燃えずに残っている寂れた家があった。
一人の男がその家のなかに、入って行く。
男が部屋の扉をあけると、既に目当ての人物は男が現れるのを待っていたようだ。
「遅いぞ、范令。」
開口一番、黒いスリットの入った服を着た女が文句を言った。
「私も忙しいのだよ。そう怒るな、趙嘩照。それに、久しぶりだな、呂照貴。」
悪びれず、遅れて来た男、范令が言い訳をする。
「おひさだ、范令。だが、遅刻は罰金だ。時は金だからな。」
黒い喪服のような外套を羽織った女、呂照貴がちゃらけた口調で言った。
「お、おう。悪かった、呂照貴。だが、忙しいのは本当だ。申家や虞家、それに羅家と走り回っていたからな。」
范令は、嘩照の配下が出した茶の入った器を掴んで一気に飲み干した。
この場には蔡家で『闇の5人組』が集まっていた。5人組とは、蔡辺境伯の命で裏で敵対相手を攪乱させる為に作った組織だ。
ここに集まったのは3人。
一人は、美しい笑顔で人を魅了して操る女狐。貴族相手の商人である趙嘩照。
一人は、人の骨までしゃぶりつくす裏の商人。この国の裏社会を仕切る呂照貴。
そして最後が、これまで幾多の貴族を地獄の底に突き落とした謀略の天才、范令。
この3人が曹家領を混乱させる為に、いろいろ手を打ってきた。
いよいよ大詰めを迎えるので最後の調整の為、5人組の3人が集まった。他の2人は秦家領の方を受け持っているので、この3人だけで曹家領の方は片付ける。
「それで、どう、范令。首尾のほうはどう?」
趙嘩照が、さっそく仕事の話に入った。
「まぁ、まぁだ。魏家は大丈夫だ。それと申家も、まぁ大丈夫だな。荊軻将軍の妻女が相手だが、あそこは既に追い込まれている。こちらの提案を断れる状況じゃない。あと、羅家が動くかは半々だ。頭領の羅元景、奴は優秀な男だ。ある程度、こちらの考えを読んだ上で、天秤にかけている感じだ。蔡辺境伯が羅兄弟を欲しがったのも良く分かった。」
羅家は長男と次男が生き残っていた。そして、この兄弟が羅家を率いている。
兄の羅元景は知略に優れ、弟の羅家中は、この国に9人しかいない神級魔力の持ち主で武力に優れている。
2人とも蔡辺境伯が欲しがっている人材である。
「でも、こちらの考えをどこまで読んでいるかによるわね。」
趙嘩照は、初めは羅家がこちらの提案に乗るのは難しいと考えていた。
勝てない戦いに手を出すのは愚かだ。中途半端な智略の人物なら断って来る。
「いや、羅元景は、こちらが羅家を曹家とぶつける駒にしている事は読んでいる。それを読んだ上で、荊軻将軍を助けて民に羅家の意地をみせるか、それとも他国に亡命するかを考えている。」
「亡命って、貴族を受け入れる国があるのかしら・・・。そう言えば、羅家の弟が神級魔力の持ち主だったわね。」
嘩照が言うのは、国内の内戦で負けた貴族が国外に亡命しても、受け入れる国は滅多にないという事だ。
なぜなら、国外に亡命する敗者に優秀な人材はいないという先入観。そして、貴族として受け入れると、領地を与えねばならない。その分、受け入れた者の領土が減る。そう言う事で、亡命者を受け入れる国や貴族はほとんど無かった。
だが、羅家兄弟は違う。
弟の羅漢中が神級魔力の持ち主であったからだ。神級魔力の持ち主ならどこの貴族も喜んで家臣に抱えようとする。
「羅元景は、大商国の張公爵と交渉を行っている。羅家の配下が公爵家の寄子貴族になる話で進めているようだ。」
「へぇー、大商国の張公爵なら大物じゃない。確かに、羅家の頭領は中々やるようね。それなら、もしかすると、范令の話にも乗ってくるかもしれないわね。」
嘩照が言っているのは、元景の智略の話だ。
普通の知略家なら、范令の提案は駒として曹家にぶつけられて終わりと考える。
だから范令の話を断る。
だが、5人組の動きを読むような智略なら、もっと先を読む。
ある程度、読み切れば、荊軻将軍を救い出し、羅家が復興できるチャンスと捉えるはずだ。そして、この提案に乗ってくる。
まぁ、羅元景がどこまでこちらの動きを読むかによるので、確かに范令の報告の通り、確率は半々である。
「それで、嘩照の方はどうなんだ。曹伯爵はこちらの思惑通り動きそうか。」
范令は、嘩照を覗き込むような視線で尋ねた。
「それは、問題ないわ。曹伯爵を上手く誘導したわよ。予定通り、曹伯爵は燕荊軻の処刑を囮に使うわ。そして、申家の残党を捕まえて、奴らに魏家と羅家を誘き寄せせるように言いこんでおいたわよ。それと、城郭の外で荊軻の処刑も行うように仕向けたわ。」
「そうか、ならこの作戦は上手く行ったようなモノだな。」
「まだ油断は出来ないわ。曹伯爵の息子に申家の残党を押さえさせるつもりよ。」
「ほう、そう辺境伯の息子、たしか曹圭鎮といったか。そう言えば、あの馬鹿息子は上手く手名付けたのか。」
「私を誰だと思っているのよ。抜かりは無いわ。ペットはしっかり躾をするものよ。そして、ちゃんと坊やも躾て、毒を染み込ませてあるわ、叛逆という毒をね。」
嘩照がニヤリと笑う。
「ああ、怖い、怖い。俺も蛇女じゃなくて、趙嘩照だけは敵に回したくないな。綺麗な顔をした毒蛇に噛まれたくないからな。」
范令がオーバーな怖がる仕草をした。
「あら、失礼ね。誰が蛇女よ、こんな美しい女性に向かって酷いことを言うわね。それに怖くなんてないわよ。ちゃんと優しく手懐けたわよ、あの坊やは。今なら私の言う事なら何でも聞くわよ、きっと。」
嘩照は思い出したように舌なめずりをした。
その仕草は蛇に似ているので蛇女という2つ名を持っていた。本人は、この2つ名を気に入っていないので、影で囁かれている。
「それで、馬鹿息子は、親父に対してクーデターを起こす話は大丈夫なのか。」
「ええ、心配ないわ。あの坊は、私の言う事なら何でも信じるよう魅了しているわ。きっと、今頃、父親の曹伯爵を倒さないと、蔡辺境伯に曹家は滅ぼされると危機感を持っているわよ。」
「そうか、さすがは趙嘩照だな。それで、そのクーデターの方は上手くいきそうなのですか。あの馬鹿息子に曹伯爵を倒す力があるとは思えませんが。」
「そうね、一応手を打ったわ。李剣星を伯爵の息子の下につけたわ。でも、別にクーデターは上手く行かなくても良いのよ。クーデターがあったという事実が大事なのよね。ただ、あまりにもあっけなく終わると、クーデターがあった事実自体がもみ消されちゃうから、適度に暴れてくれれば。」
「そうか、あの李剣星を馬鹿息子の下につけたのか。戦力としては申し分ないというが。そうか、李剣星か・・・。」
「なに、范令。李剣星がどうかしたの?」
「いや、あの男も、蔡辺境伯が目を付けていたから、アプローチをかけていたんだが。相手にもされなかった。何とかならないかと思ったんだが。」
「李剣星ね・・・確かに難しいわね。曹伯爵も手を焼いていたわ。王級魔力の持ち主で、そこそこ強いし、軍の指揮も上手いらしいけど。伯爵の命令に逆らって、捕らえた民を逃がしちゃうのよね。伯爵も手を焼いていたわよ。ただ、王級魔力の騎士を失うと、曹家軍の沽券に関わるんで殺すわけにもいかないらしいのよ。結局、坊やの専属隊への配置換えになったのよね。」
「そうか、確かに李剣星を引きずり込むのは一筋縄じゃいきそうにないな。」
「そうね。まぁ、坊やが李剣星を上手く手懐けられるとは思わないけど。坊やが殺されそうになったら、彼を守ってくれれば御の字よ。一応は主君だから、言う事は聞かなくても、主君を助ける気構えぐらいはあるでしょ。」
「でも、あの馬鹿息子には、クーデターで伯爵を倒す役割があるんじゃないのか。やられたらまずいだろ。」
「さっきも言ったけど、坊やのクーデターは失敗しても良いのよ。簡単に殺られないで、坊やには派手に暴れて目立ってさえもらえれば。実際に、曹家軍を倒すのは、私が曹家軍に手配した鎧騎士200騎よ。曹伯爵は自分の鎧騎士に裏切られて、全てを失うのよ。」
「それにしても、嘩照もえげつないよな。あの鎧騎士は蔡辺境伯から借りた鎧と騎士だろ。それを売った事にして曹伯爵から金を獲っているんだからよ。呂照貴に借金までさせて。」
「あら、失礼ね。ちゃんと蔡辺境伯様には話を通しているわ。それに、代金を獲らなければ、伯爵も疑うでしょ。何がいけないのかしら。」
「いや、まぁ、そうだけどよ。」
「どちらにせよ、私が手配した鎧には蔡辺境伯様の手の者が搭乗しているから、曹家軍を始末してくれるわ。曹家軍の元の鎧騎士は私が手配した数の半分だから余裕よ。それに、味方に背中から奇襲を受けるんだから、負けるはずは無いわね。」
「確かに、倍の数の鎧に奇襲を掛けられれば、勝てないわな。」
范令が気の毒そうな声をだした。」
「そう言うことよ。だから、坊やのクーデターが上手くいかなくて良いの。ただ、嫡男の謀反に、領民の反乱と旧勢力の南3家の反攻も加わって、曹家は統治能力なしと見られれば良いのよ。そうすれば、蔡辺境伯は自身の力を一切浪費しないで曹家をお家断絶まで追い込めるわ。」
「やっぱり、趙嘩照は怖いな。曹伯爵も、お前が手配した鎧騎士が裏切るとは夢にも思ってもいないぜ。あっという間に全滅。そこに息子のクーデター、領民の反乱、旧勢力の反攻と3つの条件が加われば、曹家の取り潰しは確実だ。」
「まぁ、そうすれば、曹伯爵はきっと弟の曹宰相に泣きつくはずよ。いくら曹宰相でも、ここまで酷いと、曹伯爵のことは助けられないでしょうけど。」
「まぁ、そうなるだろうな。それにしても、今回の作戦は、美味しい所を全て嘩照に持っていかれたな。お前が用意した鎧騎士200騎が曹家を倒すだろうし。伯爵の息子の反乱もお前が仕込んだ。それに、曹伯爵に荊軻の公開処刑を言い含めたのもお前だ。俺はただ、旧南3家を相手に駆けずり回っていただけだからな。」
范令は、人差し指を趙嘩照に突き立てた。
「そう、すねなさんな、范令。あなたには感謝しているわ。貸し一つで良いわよ、でも、確か私が范令に貸した貸しの方が多かったから、チャラだけどね。」
「まったく、嘩照には敵わねえな。」
范令は、呆れた出された茶を飲み干した。
「・・・待って、」
口を開いたのは、呂照貴だ。
「嘩照、申家軍の奴隷兵の売買を曹伯爵に荊軻の処刑の後にさせたのは、処刑の前に奴隷兵どもを逃がすつもり?」
「そうよ、呂照貴。あなたも話を聞いたでしょ。今捕まっている申家軍の兵は事前に逃がすのよ。そして荊軻を助ける為とか言って、荊軻の妻の珪西に兵どもを率いさせて曹家軍と戦わせるのよ。」
趙嘩照は、当然のように言った。
彼女は曹伯爵に奴隷商人の紹介を頼まれて、呂照貴を紹介したのだが、申家の兵士3千人を売らせるつもりは無かった。だが、それを照貴に言うのをすっかり忘れていたのだ。
申家軍の精鋭3千人は事前に奴隷収容所から逃がして、燕珪西の配下に置かせるつもりだ。その戦力で曹家軍と戦わせる。
今の処、旧南3家で反乱を起こすのが確実視されるのは魏家軍だけだ。
魏家軍の戦力は2千人。
今の燕珪西には戦力が無いので、申家軍の精鋭3千人を彼女の下につける。
旧勢力5千人が反抗すれば、曹家を追い詰める材料になる。
それに、申家軍の兵を逃がしてやれば、荊軻に恩を売って彼の心を縛れる。そうすれば、荊軻も蔡辺境伯の配下にならざるお得ない。
「ちょっと待て。それじゃ、私の商売の方はどうなるんだ。3千人の奴隷兵が手に入るんじゃないのか。」
闇商人の呂照貴はジト目で嘩照を睨みつける。
嘩照は曹伯爵の依頼で奴隷商人の呂照貴を伯爵に紹介していた。それで奴隷兵の売買の話を進めさせていたのだ。照貴はてっきり奴隷兵3千人を売買できると喜んでいたのが、今の話だと奴隷兵3千人の売買はカモフラージュのようであった。
「あら、そう言えば、照貴にこの話を言っていなかったっけ。ごめ~ん、照貴。そう言う事だから。」
「なにが、そう言う事なんだ!」
照貴は涙目で怒っている。
彼女は奴隷売買だけでなく、麻薬や暗殺、賭博など大陳国の裏稼業を一手に仕切っている。そんな彼女を本気で怒らせたら、マジで怖い。蔡辺境伯ですら彼女には気を遣っているくらいだ。
「照貴、今度の貸しにしておいて、貸しに。必ず返すから許して・・・、あっ、そう言えば、曹伯爵が奴隷用に捕まえていた領民が1万人ほどいるわ。あっちの方はちゃんと奴隷として売るから、それで機嫌を直してよ~。」
「奴隷1万人か・・・まぁ、それだけの数なら悪くない。それも、処刑の後か。」
「そうね。奴隷兵を処刑の後にするのに、領民の方を前にするのはおかしいでしょ。」
「分かった。それで手を打とう。」
呂照貴は渋々頷いた。
その時、何か天井で微かな気配を感じた。
風の音かと、思い違うほどの微かな気配だ。
「「「・・・何者」」」
范令と趙嘩照、それに呂照貴の3人が一斉に天井に目を向けた。
范令が剣を、嘩照が小剣を、照貴が手裏剣のような刃物を。
3人がそれぞれの武器を天井に向けて投げつけた。
――ドン、グサッ、サッ。
それぞれの武器が天井に突き刺さる。
「逃がしたか。」
「曲者ね、今の話を聞かれたら、まずいわね。」
「どこの間者だ?」
范令、嘩照、照貴のそれぞれが動いた。
范令は、天井に向かって跳躍する。
嘩照と、照貴の2人は外に出た。
外は夜で真っ暗だ。雲が月を隠している。
「おい、お前たち、この家の屋根から、誰か出て行ったのを見なかったか。」
呂照貴が、配下の者をこの家の周りに侍らせていた。
「いえ、姉御。誰もこの家から出た者はいやせん。音も一切ありませんでした。」
配下の黒服の男たちが、照貴に向かって迅速にこたえる。
「そんな筈はない。お前たち、よく探せ。確かに気配がしたんだ。」
呂照貴が叱りつけるように部下たちに指示を出す。
周りを見回したが、暗くてよく見えない。
生き物の気配も魔力も感じない。だが、確かに人の気配がした。3人同時に気配を感じたのに間違いのはずはない。
「おい、嘩照、照貴。屋根裏にはいなかった。だが、天井の裏の床に誰かがいた痕跡があった。誰かがいたのは間違いない。」
范令が屋根の中を隈なく探したようだが、逃げられたようだ。
「何者だ。気配も見せず、私の護衛共にも一切、気配を探知させないとは・・・。」
厳しい目つきで空を睨みながら、照貴は唇を噛んだ。
「何者なのかしら。これだけの隠密スキルを持った間者は曹家には居ないわ。他国の間者、それとも教団か・・・?」
嘩照は首をひねった。照貴の手の者は、裏の世界で相当の使い手ばかりだ。
下手な貴族軍の精鋭よりも、よっぽど腕が立つ。
その護衛に気づかれずに、私たちの追撃をかわすとは相当の技を持った間者しか考えられない。
曹伯爵にそんな優秀な間者がいる訳ない。小国の大商国や大成国にすら、そんな間者はいないであろう。
いるとすれば、知っているのは、蔡辺境伯が使う『黒鴉』、大陳国と北の国境が面している大国の大魏国の間者の『草』、それとも教団の間者の『天狗』くらいだ。
だが、蔡辺境伯が我らに間者を送るはずはない。それに、大魏国や教団が私たちに関心を持つはずもない。全く見当がつかなかった。
どちらにせよ、相当の力を持った勢力の者が、間者を放ったに違いない。
暫くの間、照貴の護衛たちが辺り一帯を散策したが、手掛かりになりそうなモノは何も見つからなかった。
あれだけの手練れだ。足がつきそうなモノを残すはずが無かった。
「嫌な気分ね・・・。」
ここまで完璧に策を進めて来た嘩照としてはケチを付けられた気分だ。
「嘩照、もう気にするな。どうせ、後戻りにはできないんだ。何かあったら、その場で対処するしかない。まぁ、お前の策と、俺のフォローがあれば今回も上手く行くはずだ。気にしても、仕方がない。」
范令の言葉で、これ以上、間者を探すのは止めにした。
何か、後味の悪さを感じるが、とにかく賽は投げられたのだ。後はやるしかない。
確かに范令の言う通りだ。それに、手がかりすら掴めない状態で、これ以上探しても見つかるとは思えない。既に、遠くに逃げたはずだ。
趙嘩照は嫌な予感を感じながらも、間者を探すのはあきらめるのであった。
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