第2話 東の山へ
「待ちやがれ!」
「逃げるな!」
「俺たちから逃げられると思っているのか!」
大声で叫びながら、野盗たちが追いかけてきた。
あれだけ大きな声を出していれば、当然蔡家軍の兵士たちに気づかれるだろう。
案の定、蔡家軍の進軍が止まった。
大声で叫ぶ野盗たちが丘の上に姿を現した時には、蔡家軍の兵士たちにしっかり目を付けられていた。
何も知らない野盗たちは、丘の上から下を見て慌てふためいていた。
「な…なんで、蔡家軍がこんなところに?」
「蔡家軍は、南三家を倒しに、西に行ったんじゃないのか?」
「や、ヤバいぞ…に、逃げろ!」
野盗たちは蔡家軍に気づいたようだ。来た道を脱兎のごとく逃げ始めた。
同時に、蔡家軍の旗が動き出す。
『候』の旗を掲げた騎馬隊が逃げる野盗を追いかけていく。
蔡家軍の兵士たちにとって、野盗を捕まえることは旨味がある。表向きは治安向上だが、捕まえれば良い小遣い稼ぎになった。捕まえた野盗を奴隷として売れば、荷馬車で運んでいる奴隷たちとは別で収入が入って来る。
この程度のお小遣い稼ぎは、軍の中でも容認されていた。
「うぎゃ、やばい。逃げろ!」
野盗たちの悲鳴が響き、脱兎のごとく来た道を戻るように走っている。
たぶん、野盗たちの足では逃げきれないだろう。騎馬と人間の足では速さが違う。
俺たちを攫って奴野として売ろうとしていた奴らだ。今度は自分たちが追いかけ回され、自らが『奴隷の首輪』を嵌められそうになっている。
まったく、自業自得だ。
奴らに、蔡家軍の注目が注がれれていれば良い。
問題は、俺が蔡家軍に見つからないかだ。
俺は今、丘の上から降った場所で腰を落とて体を小さくし見せているものの、身を隠す場所がどこにもない。
蔡家軍から高い位置にいる俺は丸見えの場所にいる。
(野盗に気を取られて、こちらに気づかなければいいが…)
『候』の旗を掲げた騎馬隊が、一糸乱れず丘の上り坂を駆けあがって来る。
あの旗が動くという事は、候景将軍も一緒に動いているということだ。
騎馬兵の数はかなり多く、百騎はいるだろう。
野盗5人に対して百騎は過剰戦力のように見えるが、この辺りに敵らしき者はいないと候景将軍は判断したのだろう。それに、この辺りは平野なので丘の上まで行けば、周りを見回して状況が把握できる。野盗を捕まえるだけでなく、周りの状況を把握しておくためにも、この丘の上に登っていくのも理に適っている。
『候』の旗を掲げた騎馬兵百騎が、逃げる野盗を追いかけて丘を登ってくる。
(頼む、俺に気づかず、そのまま野盗を追いかけてくれ!頼むから気づくな!)
少しでも蔡家軍の目に入らないように、体を小さく丸めて祈った。
だが、その考えは甘かったようだ。騎馬隊が丘の頂上に達すると百騎のうち30騎が分かれて、見つからないようにしていた俺の方に向かってきた。
(やっぱり、俺の姿は蔡家軍から見えていたか・・・)
しかも、その30騎には『候』の旗が含まれている。
『候』の旗が含まれているということは、こっちに候景将軍がいる。
俺はなるべく馬が走りにくい道を選んで、今度は南に進んだ。
「逃げるな!小僧。大人しく捕まれ!」
追いかけてくる候景将軍の一群の中から、俺を呼ぶ声が聞こえる。
待てと言われて待つ馬鹿はいない。俺は速度を落とさずに走り続けた。騎馬が通りにくい道を選んでも、候景将軍の一群は器用に道を選んで追ってくる。
さっきまでの野盗に追われていたのとはわけが違う。蔡家軍に捕まるのはまずい。楊家の一族と知られれば、間違いなく見せしめにされて殺される。
それに、いくら次兄の剛之兄や妹の琳玲、それに常忠に鍛えられたと言っても、護身の技が中心だ。魔力を持たない俺が正規軍30騎を相手に戦って敵うと思うほど、俺も無謀な人間ではない。
とにかく走って逃げるしかない。俺は死ぬ気で走った。
「おい、野盗。それとも楊家の逃亡兵か。どちらでもいい、逃げるな!」
蔡家の騎兵が馬の手綱を器用にとって追い駆けてくる。腰には剣と一緒に『奴隷の首輪』がぶら下がっている。
背中にかけてあった弓をとって構える。
「うっ。」
矢が右肩に刺さった。
候景将軍の一群は、まるで獣を狩るように走る俺を追い込んでいる。顔をニヤつかせながら楽しみながら、矢を放つ。
馬が通りにくい細い道が終わり、南に向かって下り坂になる。
蔡家の騎兵たちは、追いついて俺の周りを囲むように展開していった。
「逃げるのを止めて大人しく捕まれ。逃げるという事は、やましい事があるんだろう。俺たちは野盗たちのように甘くない。逃げるなら殺す。」
候景将軍の一群から、一人の兵士が騎馬を降りた。
手には『奴隷の首輪』を持って、俺に向かって近づいてくる。
俺は周りを蔡家の騎兵囲まれて逃げられない。腰から剣を抜いて身構える。
「剣を捨てて、大人しくしろ!」
兵士はゆっくりと、ゆっくりとまるで鶏を捕まえるように近づいてくる。
右手には剣を持って、そして反対側の手には首輪を持っている。俺を捕まえて、そのまま首に『奴隷の首輪』を嵌めるつもりのようだ。
「剣を捨てろ。捨てないと、殺すぞ。」
兵士は非常に手慣れていた。
脅しながら、相手の戦意を殺して捕まえる。首輪さえつけてしまえば終わりだ。
首輪を嵌められた相手は、主人に逆らえない。言う通りにしないと、首輪が締まって殺されるからだ。
そう、兵士にとっては首輪さえ嵌めれば良い。
そして、正規軍の兵士に囲まれた野盗や敗残兵には逃げようが無い。普通であれば、野盗は敗残兵は戦うのをあきらめて兵士の言葉を受け入れる。下手に逆らっても結果が同じなら、怪我をしたくない。
しかし、俺は野盗でも無抵抗な敗残兵ではない。
魔力は無いが、それなりの訓練を受けて武術は鍛えられている。無抵抗に首輪を嵌められるつもりは無かった。
兵士が俺の間合いに入ると、反射的に俺は兵士の手をすり抜けた。
(殺らねば、殺られる。)
兵士をすり抜けて距離を取ると、自然に剣を抜いた。
俺の剣を、騎馬の上から将軍らしい男・・・(いや、この中に将軍は一人しかいない)そう、候景将軍が俺の剣を凝視していた。
「小僧、なぜ、その剣を小僧が持っている。まさか、お前は楊家の一族の者か?」
(しまった・・・)
俺が楊家の一族だという素性がバレてしまった。
鞘から抜いた剣には、刃に楊家の紋章が刻まれている。
しかも、これだけ立派な剣を持つ者は、楊家の一族か有力な将軍の地位にある者だと言っているような物だ。
楊家の紋章の入った甲冑は全て処分した。だが、剣までは護身の為にも処分できなかった。
「楊家の一族の男は全員殺したはず・・・いや、あと一人。確か、貴族の癖に魔力が無いという無能者が1人いたな。楊家の三男だったか。それにしても、孫西施の予見はよく当たる。彼女の言った通り、こっちの獲物を選んで当たりだったな。まさか、殺しもれた楊家の最後の男にあえるとは。魔力無しと言えでも、しっかりと殺しておかないと・・・。儂は仕事は完璧にこなす性分なんでな。」
俺は奴の顔を知っていた。【楊都】が陥落する前に何度か顔を見ていた。
一度目は、死んだ親父殿の首を城門前に晒して、鞭で打った時。
そして、二度目は楊公爵家を継いだ長兄の義之兄が殺された時だ。彼の配下の、確か勾賤という武将が義之兄を殺した時に一緒に居た。当然、勾賤も俺の復讐リストに名を連ねている。
そして、再び奴の醜い顔を見るとは・・・吐きたい気分だ。
「ほう…お前が、楊家の三男か。」
候景将軍が馬を近づけてきて、醜い顔で笑っている。
「・・・・・・」
俺は沈黙を守った。ここで楊家の三男と認めたら死が確定する。わざわざ、死ぬ確率を高めるために名乗る馬鹿はいない。
「おい、こいつはここでは殺すな。生かして捕まえろ。どうせこいつは魔力無しの貴族だ。大して抵抗などできないだろう。楊家一族なら公開処刑の方が面白い。」
「「「「「はは、候景将軍。」」」」」
蔡家の兵士たちは頷いた。
確かに、公開処刑すれば、領民への見せしめとして効果的だ。
親父殿は蔡家軍の陣地で、兄たちは籠城戦で死んでいる。
後で、親父殿の首は晒されて鞭で打たれたが、領民の前で殺された楊家の者はいない。ここで楊家一族を公開処刑すれば、領民に恐怖を植え付けることができる。
それは今後の楊家領を統治する上で有効な一手だ。
候景将軍は余裕の笑顔で、ぶつぶつ言いながら俺の方を見降ろした。
「それにしても、この魔力無しの男が『災い』か。孫西施の予見も少しは外れるな。こんな魔力無しが蔡家の災いになるほどの価値を示せる訳が無い。彼女は『南の獲物が災いになる』と言っていたが、こんな魔力無しの小僧が、蔡辺境伯様の災いになるはずがない。」
(孫西施・・・確か蔡辺境伯の配下に、そのような名前の予言者がいたな。)
俺も一か月の籠城中に、蔡家軍の有名な武将の名前は憶えていた。
有名なのは蔡家7将軍。その中でも、『不敗将軍』の鄭任将軍は有名だ。
孫西施の名は、なにやら不気味な存在で関心があったので俺の記憶にあった。
それこそ、神託やお告げと同じで、人を惑わす胡散臭い奴がいるという意味での関心だ。
「早く、その者を捕まえろ!殺すなよ、生かして捕まえろ。」
候景将軍が大声で命じた。
「はっ、候景将軍。」
さっき俺に向かって来て、脇をすり抜けられた兵士が身構えていた。
よく見ると、兵士は背が高く、ガタイも大きい。魔力は無さそうだが強そうに見える。前世のひ弱な俺なら、まずこの兵士と戦って勝てなかっただろう。この世界のスペックの高い体でも、勝てるかどうかは微妙だ。
(死にたくない・・・)
しかし、楊家の一族と知られた以上、捕まれば公開処刑だ。何としても捕まるわけにはいかない。
蔡家の兵はニヤニヤしながら俺を見て、剣を構える。
「俺は付いている。貴族のくせに魔力が無いひ弱な坊ちゃんと戦って、功を上げられんだからな。ハハハハハ。」
警戒する俺を見て、余裕のようだ。
そして、俺を囲む蔡家の騎兵たちも、俺の前に立ちはだかる兵士の勝利を疑っていない。早く首輪を嵌めて、終わらせろと思っている表情だ。中には、貴族がいたぶられるのを楽しみにしている兵士もいた。それほど、この世界の貴族は嫌われているらしい。
薄気味悪い笑いを浮かべながら、兵士が近づいてくる。
この状況で相手に勝てる方法も、そして逃げられる方法も全く思いつかない。
(俺は、また死ぬのか。前世でも若くして死んだが、こっちの世界はもっと若いな。ああ・・・でも嫌だな。死にたくないな・・・。また転生できるかな・・・そんな事分からないよな。やっぱり嫌だ。死にたくない。そんな何度も転生するわけがないし・・・死にたくない。俺は死にたくない。)
「おい、小僧。お前はやっぱり楊家の一族か?楊家の三男なのか?」
候景将軍は、俺が楊家の三男と決めつけているが、兵士の方は楊家の身分の高い者としか認識していない。自分の武勲なので、確認したいようだ。
「・・・・・・。」
「おい、なんとか言え!ふん、まぁ良い。捕まえて痛い目に合わせて聞き出してやる。どうせ、早かれ遅かれ口を割るのは時間の問題だ。」
「・・・・・・。」
俺は黙るしかない。
兵士の男が、一歩また一歩近づいてくる。逃げられないように、慎重に距離を縮めている。
(マズい。このままでは捕まる・・・捕まったら死ぬ。・・・死にたくない。誰か、助けてくれ。親父殿・・・、兄上・・・、琳玲。)
どんどん追い詰められてパニックになっていた。
情けなくも妹の琳玲にも助けを求めたが、当然助けなど来るはずがない。
このまま大人しく首輪を嵌めて死を受け入れるべきか、それとも戦ってこの場で死ぬべきか。
兵士が近づいてくる。距離を縮め、遂に俺の間合いに入っていた。
(イチかバチか、やるしかない。)
俺は覚悟を決めた。魔力を持たないが、楊家の男として戦って死ぬ方を選んだ。
考えるのを止めて剣を強く握った。
(今まで常忠に教わった剣の術を思い出せ…)
覚悟を決めたら、体が自然に動いた。
常忠の鍛錬が体にしみついていた。覚悟を決めて、剣を持って前に動いた。蔡家の兵士と擦れ違う。兵士も俺の動きに合わせて剣を振るった。蔡家の兵士は俺の腹に向けて横に振るう。剣の刃ではなく腹でぶつけて俺を気絶させるつもりだ。
腹になった剣を振った分、剣の振る速度が遅れた。
俺は兵士の剣を避けて、擦れ違いざまに剣で相手の脇腹を斬り裂いた。
「お、お前・・・何をするんじゃ。」
擦れ違った後に、兵士が膝をついた。
自分の脇腹から溢れる血を見て、膝をついた兵士が思わず叫んでいた。
俺はその声を無視して、斬り殺した相手を振る返らずに全速力で走り続けた。
初めて人を斬ったことに動揺していた。だが、今はそれを気にする余裕はない。
予想外の光景に唖然としている蔡家の騎兵の下をすり抜けた。
包囲を抜けると、一目散に東の山へと向かって走った。斬った相手に対する意識など頭にない。本能が『この場を離れろ』と告げている。生きるためには、この場を離れなければならない。
残った騎兵たちは、信じられないといった表情で呆然とした。
候景将軍も同じだ。まさか、魔力を持たない貴族の小僧に自分の部下が倒されるとは思ってもいなかった。候景将軍にとって、楊家の三男を捕まえるのは、はただの狩りでしかなかった。その獲物が突然牙をむき、部下を襲ったのだ。
我に返った光景将軍は、大声で部下に命じていた。
「逃がすな、捕まえろ。あいつは楊家一族の生き残りだ。決して逃がすな。できるだけ生かして捕まえたいが。抵抗するなら殺しても良い。」
「「「「「はっ。」」」」」
仲間が予想外に殺されて唖然としていた騎馬兵たちは、候景将軍の声に我に戻ると、馬に鞭を入れて俺を追い始めた。
「逃がすな!弓だ。弓を撃て!」
俺は小高い丘の頂上から、下り坂を駆け下りるように走る。目指すは東の山だ。山なら騎馬も走り辛い。それに隠れる場所もあるはずだ。
とにかく、夢中で東に向かって走った。
「痛っ。」
左の肩に矢が刺さった。痛みで転げそうになるが、痛みを我慢して走り続ける。俺は足だが、蔡家の兵士は騎馬だ。すぐに追いつかれるだろう。
たぶん、逃げ切れない。この辺りが俺の限界なのだろう。
『俺はここで殺される。』『死にたくない』という恐怖は変わらないが、何かが少し吹っ切れていた。蔡家の兵士を倒して、楊家の男として死ねると安堵したからかもしれない。
短い人生だったが、この世界に転生できて本当に良かった。
魔力を持って生まれなかったが、楊公爵家に生まれて救われた。
親父殿も厳しかったが、俺の将来を良く考えてくれた。魔力を持たない貴族の子弟が勘当されても文句は言えないが、文官としての生きる道を用意してくれていた。もし蔡家軍が攻めて来なければ、きっと俺は王都で官僚を目指していただろう。
母上も、俺が魔力を持って生まれなかったことをいつも気に病んでいた。いつも「ごめんなさい。」と言って悲しい顔をしていた。兄弟の中で俺が母上を一番悲しませたのかもしれない。
長兄の義之兄はいつも相談に乗ってくれた。責任感が強く、俺に魔力が発現するように魔法使いの家庭教師を連れてきたり、魔法に関するいろいろな書物を集めたりしてくれた。結局、魔力は発現しなかったが、義之兄は本当に世話になった。
次兄の剛之兄は、魔力が無くても戦える方法をいつも教えてくれた。俺の剣の師匠は常忠だが、格闘技の師匠は剛之兄だ。剛之兄は王級魔力の持ち主で東の国境を守る南東軍の総司令官でもあったが、俺を目にすると魔力を使わない武術を教えてくれた。見た目と違って本当に優しい兄だった。
本当に転生した先が楊公爵家で良かった。
唯一の無念は楊家一族の仇が取れなかったことだ。もしもう一度、この世界で転生できたら、何としても蔡家は倒す。親父殿と義之兄、剛之兄の二人の兄の仇は討つ。悔しいが、俺はここで終わりだ。後は妹の琳玲に任せるしかない。
きっと義之兄も、そして剛之兄も同じような気持ちで俺や琳玲に後を託したのだろう。今になって、俺たちを逃がした義之兄や剛之兄の気持ちが少し分かった気持ちになった。
(義之兄、剛之兄、すみません。俺には親父殿や兄たちの仇を討てなかった。あの世で詫びるから許して欲しい。)
俺は心で、二人の兄に詫びた。せっかく、俺と琳玲を逃がす為に死んだのに、俺は何もできなかった。たった一人の兵士を倒しただけだ。
さっきは楊家の男として戦えた事に誇りを少し感じていたが、俺たちを救う為に死んだ兄たちの事を考えると、自分の小ささが惨めになった。
「うっ。」
今度は肩ではなく、背中に矢が刺さった。蔡家の兵士が近づき、騎乗から俺に向かって槍を振るう。
――カキン。
すでに走り続けて力尽きていたが、気力で剣を振って槍を弾いた。騎乗の兵士が槍を弾かれて声を荒げる。
「ちょこざいな。大人しく捕まれ!」
モグラ叩きのように何度も槍を振り下ろす。槍は直線的な読みやすい動きだった。なんとか剣で弾くと、後ろから別の騎兵ががら空きの俺の背中を狙って動いた。
(後ろからの攻撃か・・・マズい。)
咄嗟に、前方の兵士の単調な槍を受けずに避け、馬の足を剣で斬った。
「ヒヒーン」
馬が悲鳴を上げて暴れ出し、騎兵が落馬する。
後ろ足を切断された馬が悲鳴を上げ、そのまま崩れ落ちた。
「うわぁ・・・。」
一緒に騎乗していた兵士が落馬し、呻き声を上げる。
これで少しでも逃げる時間が稼げる。
兵士が落馬をしている間に、俺は再び全力で東の山へと向かって動いた。
背中から剣で俺を狙った騎兵の馬の勢いが止まらない。
――グチャ。
勢いを消せずに、そのまま落馬した兵士を踏み潰してしまった。
「ぐぉ・・・。」
背中を馬に踏み潰された兵士の口から血を噴き出てくる。
「大丈夫か。」
騎兵たちの注意が一斉に踏み潰された兵に向かった。
注意が一瞬逸れたおかげで、包囲網を再び破って俺は走った。
「楊家の三男が逃げたぞ。捕まえろ。殺しても構わない。とにかく逃がすな!」
候景将軍が大声で叫んだ。
ここまで来ると、生きたままで捕まえるのは諦めたらしい。
逃げづらくなりが、奴らに捕まって見せしめで殺されるのはご免だ。
俺は楊家の男として、二人の兄の為にも、楊家の仇を討たなければならない。
死ぬわけには行かないが、この状況を脱することも難しい。生きるにしても、死ぬにしてもあの世で、二人の兄に会っても恥ずかしくない死に方をするつもりだ。
ここで簡単に死ぬつもりはない。
(何としても生き残る、駄目なら一人でも多くの蔡家の兵士を道連れにしてやる。できれば候景将軍も殺したい・・・。)
体力はすでに使い果たしている。
今や、残っているのは気力だけだ。気力だけで走っている。
とにかく東の山へ。一歩でも山に近づくために走り続けるしかない。
山に到達すれば隠れる場所も多くある。運が良ければ、候景将軍を倒すこともできるかもしれない。
そんなことを考えながら、下り坂を全速力で駆け下りる。
後ろから蔡家軍の騎兵たちがしつこく追いかけてくる。今の彼らの表情は真剣だ。狩りを楽しむ表情ではなくなっている。
既に二人の仲間を失っている。
魔力が無いからと言って油断すると、こっちがやられると十分理解したようだ。
それに、これ以上醜態を晒せば、さすがの候景将軍が黙っていない。候景将軍が怒るとこっちがまずい。
蔡家の兵士たちの表情は流石に真剣だ。
この状況を狩りだと思っている者はさすがにいない。
兵士たちは俺の足を止めようと、矢が何本も撃ってくる。
「うっ。」
矢が背中に刺さった。すでに五本の矢が背中や肩に刺さっている。背中や肩が熱い。痛みを通り越し、今や背中が焼けるように感じる。
そして体力も尽きてきた。
野盗に追われてから走りっぱなしで、足が鉛のように重い。
(山はまだか・・・、もう限界か・・・。)
俺は走るのを止めた。
走りたくても足が疲れて走れない。もう限界なのだ。あとは楊家の男として死ぬだけだ。楊家の仇を討てずに死ぬのは、俺を逃がしてくれた義之兄と剛之兄に申し訳ないが、さすがに足が疲れて走れない状況では逃げられない。
蔡家の騎兵に向かって剣を構える。
その中の一騎が俺に向かって槍を投げた。 辛うじて転げるように槍を避けた。
避けても容赦ない。俺が逃げた先を予想して騎兵が槍を突いてくる。
「痛っ。」
左腕の肩を槍が掠めた。肩から血が流れ落ちる。
いよいよ終わりだ。かなり血を流した。 前世の医者としての知識だと、人間は三分の一の血を失うと死んでしまう。まだ三分の一には達していないが、相当に血を流した。体が鉛のように重い。
体力は限界だし、蔡家の騎兵たちには隙がない。
「死ね!楊家の三男。」
蔡家の騎兵が俺の頭に槍を振り下ろした。
もう、俺には槍を避ける気力も残っていない。
「・・・・・・。」
死んだと思った。
だが、その振り下ろした槍は俺の頭に落ちなかった。 頭を上げると、騎馬に乗った兵士の腹に槍が突き刺さっていた。背中から投げられた槍で、その兵士が騎馬から前に転げ落ちていった。
(・・・何だ。何が起こった?)
慌てて周りを見回すと、信じられないことに常忠の姿が、そこにあった。
彼は騎馬の手綱をとって立っていた。きっと、騎馬の上からあの槍を兵士に投げたのだろう。 常忠は殺した蔡家の兵士の騎馬の手綱を素早く掴み、俺のすぐ近くまでやってきた。
「常忠・・・、無事だったのか。」
常忠の顔を見た瞬間、涙がこぼれた。死んだ家族の元へ行く覚悟を決めた時に、常忠が現れたことで張りつめていた気が緩んだのだろう。
「はい、慶之様。なんとか蔡家軍に気づかれずに来れました。乗り主のいない馬を幸運にも見つけたので拝借できたのも大きかったです。おかげでで早く慶之様に合流できました。」
「そうか、常忠のおかげで俺も助かった。あと少し遅かったら、俺もやられていたな。命拾いした。」
(ほんの少し遅れただけでもヤバかった。)
「慶之様、直ぐにお逃げください。私がここで時を稼ぎます。」
「・・・俺の力じゃ無理だ。この数の騎兵から逃げられると思えない。しかし常忠の力ならこの場を逃げられるはずだ。俺にかまわず常忠だけでも逃げろ。」
「私が慶之様を置いて逃げるのですか・・・私がそんな事が出来る人間に見られていたとは心外です。私がそのような男と慶之様が思っていたとは。」
「いやぁ・・・そんなことが出来るわけありません。相手が候景将軍となると、ですか・・・それに、これだけの数の騎兵。逃げるのは難しそうですね。」
「ああ、俺はここで死ぬつもりだ。楊家の男として、一人でも多くの蔡家軍の兵士を道連れにして、父上や兄上の後を追うつもりだ。」
「・・・それは、敵の思う壺です。」
「敵の思う壺?・・・。」
「そうです。慶之様がここで殺されれば、蔡辺境伯にとっても候景将軍にとっても、最大の成果になります。蔡家軍の兵士を十人、二十人道連れにしても、痛くも痒くもありません。」
「・・・じゃ、どうすれば・・・。」
常忠の出現で蔡家軍の騎兵が動きを変化させている。俺たちを囲むように馬を動かしている。
「生き残ることです。そして、力を付けること。それが蔡辺境伯にとっての最大の嫌がらせです。まだ復讐をあきらめてはなりません。慶之様。」
「この場から生き残れだと・・・、それは無理だ。とてもこの数の敵から逃げられないぞ。」
「だからこそ、慶之様があきらめることが蔡辺境伯にとっての喜びなのです。あきらめてはなりません。何としても逃げて力を付けること。それが蔡辺境伯に対する我らの意地であり、楊一族の男としての進むべき道です。この馬に乗ってください。」
常忠は馬の手綱を俺に渡した。先ほど投げ槍で殺した騎兵が乗っていた馬だ。
「・・・分かった。」
俺は手綱を受け取り、素早く馬に乗った。
「後から追い駆けます。東の山で落ち合いましょう。」
「分かった。とにかく蔡辺境伯の思い通りにならないよう、やるべきことはやる。ただし、ダメだったら仕方がない。」
「ええ、それは仕方がありません。でも、慶之様なら何とかやり遂げられる気がします。」
「何だ、それは。俺は魔力がないから、あきらめるのは癪だが、期待はするな。」
「分かりました。どうか、ご無事で。」
常忠は俺が乗った馬の尻を叩いた。
「必ず後を追って来いよ、常忠。」
俺は馬にしがみつき、鞭を入れて山に向かって走り出した。走り出した俺を見て、候景将軍は慌てた。
「絶対に逃がすな!楊家の一族の者を逃がしたとあっては、言い訳ができんぞ!」
候景将軍が大声で叫んだ。常忠の出現で動きが慎重になっていた蔡家の騎馬兵たちが一斉に動き始めた。
「行かせん。相手は俺だ。」
常忠が両手に剣を持ち、蔡家の騎馬兵たちの前に立ちはだかった。
* * *
やっと、忌々しい楊家の三男をここで仕留めることができそうだ。
楊家の三男は前方の騎兵の攻撃を受けるのがやっとで、背後から迫る騎兵の攻撃は避けられない。生きたまま捕まえて公開処刑を行いたかったが仕方がない。ここで逃がすよりはマシだ。
楊家の人間はもう一人いる。
男では無いが、楊家の次女が南東軍と合流したと聞いたので、そっちを公開処刑にすれば良い。南東軍と合流されて面倒ではあるが、そっちは腰を据えて倒せば良い。とにかく今は確実に、楊家の三男の息の根を止めることが大事だ。
目の前で、楊家の三男が殺されるのを楽しみにして見ていると、槍が飛んできて部下が落馬した。
「・・・な、なんだ。なにが起こった?」
思わず、槍が飛んできた方に目を移した。
「候景将軍、新手です、新手の敵が現れました。」
倒れた部下の死角で気がつかなかったが、騎馬に乗った騎士が現れた。
蔡家の軍服を着た兵士ではない。
(・・・楊家の三男は一人ではなかったのか・・・。)
楊家の三男が丘の頂上から少し降りた場所で身を隠していたのは良く見えた。
野盗どもがその後に現れたので、てっきり一人だと思い込んでいた。
配下の騎士がいたとは油断した。姿を現した騎士は、自分が投げ槍で倒した部下の体から槍を抜いて身構える。
もう一人の部下が、楊家の三男の騎士に槍を向けて突進した。 楊家の三男を背中から不意を突こうとした男だ。
一番近くに居たので、直ぐに反応できたのであった。
楊家の騎士は、部下の槍を受けるように簡単に弾き飛ばした。
「大したことはないな。蔡家の騎兵は、こんなものか。」
楊家の騎士が余裕の姿勢で挑発している。
(あの槍の威力・・・、あれは魔法の力だ。将級魔力か?・・・王級魔力までは届かないか、どちらにせよ厄介だ。)
そのまま、槍を勢いよく回転させて武威を示している。
突然の上級階級の魔力持ちの出現で、部下たちが委縮している。それほどに、魔力がある者と無い者の武力の差は大きい。
いつもなら魔力持ちの配下を数人は従えているのだが、今は西で南3家を攻略中だ。戦力的に重要な魔力持ちは、ほとんど西の戦場に投入している。
それに、こっちは奴隷にした楊家の兵の輸送だったので、大した戦力を連れてこなかったのが裏目に出ていた。
「小僧、調子にのるな。魔力持ちと言っても、しょせんは一騎。やれ!」
魔力持ちは確かに強いが、多勢に無勢。周りを囲んでしまえば、隙も生まれる。
一斉に、部下の騎兵に攻撃をさせた。
楊家の家来は、剣を二本抜いて両手に構えた。
周りを囲んで、左右や前後から攻撃を行うが、楊家の騎士は魔力だけでなく、武力の技も優れているようだ。攻め込んだ、騎兵が良いように槍を投げ飛ばされていく。
楊家の騎士に注意を引きつけられていると、いつの間にか楊家の三男の方が馬に乗って逃げだしていた。
「先に楊家の三男が逃げるぞ、奴を殺せ。主人が殺されれば、家来も戦意を失うだろう。」
指示を指示を出すと、半数の騎兵が楊家の三男を追い駆けようとする。
すると、楊家の騎士が周りの囲みを破って、楊家の三男を追い駆けようとする騎兵の進行の邪魔をするように動いた。
「お前たちの相手は俺だ。行かせん。」
追い駆けようとする騎兵の前にたつと、鋭い突きを繰り出した。
このままでは、楊家の三男に逃げられてしまう。
「魔力持ちの騎士にかまうな!楊家の三男を追え!そして殺せ!」
大声で部下たちに向かって叫ぶ。部下たちも、楊家の三男を追い駆けようとするが、騎士が邪魔をする。
騎士が邪魔するのを遠回りをして回避すると、数騎が騎士の防衛ラインを抜けて受けの三男の方へ走って行った。
「生かして捕まえるのは止めだ。もう生かして捕まえようと考え無く良い。とにかく殺せ、この場で殺せ。生かして捕まえようとしたせいで、こちらに隙ができた。もう、生死は問わない。」
既に楊家は滅んだ。生き残りの魔力無しの小僧が俺に歯向かうとは許しがたい。
(これ以上、調子に乗せるつもりはない。ここで終わりだ。楊家の一族は一人残らず殺す。これが蔡辺境伯様の命令だ。必ず楊家の三男はここで殺す。)
楊家の家来も頑張っているが、次々に部下の騎兵が家来の防衛ラインをすり抜けて、楊家の三男を追っていく。一人でこの人数を止めるのは至難の業だ。
すでに10人程度の部下の騎兵が、楊家の騎士の犠牲になっているが、この程度の犠牲は魔力持ち相手の戦いでは付き物だ。
とにかく、楊家の三男をやるのが最優先だ。
それに、楊家の家臣はいくら将級魔力持ちでも疲れは出る。魔力も尽きるだろう。武器も傷んでいくはずだ。
「楊家の騎士は持久戦か・・・。それより、とにかく楊家の三男を追え。迂回して奴を追え。楊家の三男は魔力無しだ。簡単に殺せるはずだ。こっちが先だ。」
「「「「「はっ。」」」」」
すでに、部下の半分が進路を迂回して楊家の三男のあとを追い駆けている。
楊家の騎士にも疲れが見えてきたようで、追い駆ける余裕は無い。残りの半分を相手にしているようだ。
馬蹄の音が近づいてくる。
音の方へ目線を移すと、『候』の旗が見えた。
野盗を追っていた騎馬70騎が仕事を終え、こちらに合流しにやってきた。
「これで、勝負がついたようだ。」
* * *
楊慶之 場所:廃墟【曲阜】から東の山に向かう途中。
俺は馬に鞭を入れて全速力で走った。
馬の上で体中に刺さった矢を抜いていく。肩や背中でも手が届く範囲の矢を抜いて、止血用の薬を腰の鞄から出して血を止める。こういう作業は前世の仕事で慣れている。そして、馬上で治療ができるほど、俺は馬術が上手だ。
馬術は結構はまった。当然、はまったのは今の世界だ。
前世では乗馬など縁のない生活だったが、こっちの世界では学べることは何でも学んだ。魔力の無い俺が、この世界で生きるためには知識や技が必要だからだ。乗馬もその知識の一つ。乗馬が得意になったおかげで、今なんとか逃げていられる。
気になるのは常忠だ。
時間を稼いで上手く逃げてくれれば良いが、きっと常忠のことだ俺が逃げる時間を稼ごうと無理をしているに違いない。
常忠は将級魔力の戦士だ。得意の身体強化魔法を発動させれば、並みの兵士では敵わない。だが、今回は敵の数が多すぎるのが問題だ。常忠なら大丈夫うが、余裕で大丈夫とは言い難い状況だ。
東の山がはっきり見えはじめた。だいぶ近づいた所為だろう。
(あと、少し・・・。)望みが少しは見えてきたと思う。このまま逃げ切れると甘い期待を持つと、後方から馬蹄の音が聞こえる。
(常忠が抜かれたか・・・)
まぁ、仕方がない。あれだけの数の騎兵を相手に一人で抑えられる敵には限界がある。全てを一人で押さえるのは不可能だ。
後ろを振り向くと、常忠をすり抜けてきた騎兵が2騎、いや3騎はいる。
(マズいな・・・。逃げ切るのは無理か・・・。)
すでに体力も気力もあまり残っていない。
体に刺さった矢は手が届く所にある物は抜いて血止めはした。だが、まだ数本の矢が背中に刺さったままになっている。
それにしても体が重い。既に限界だ。
今、剣を振るって戦う気力も残っていない。生き残る術は思いつかないが、あきらめないと常忠に誓った。親父殿や兄上たちの無念を晴らす為にも、ここで簡単に死を受け入れるつもりはない。
(せめて、隠れて体を休める場所があれば・・・あるとすれば、あの山だけか。)
後ろを振り向くと、追ってきている騎兵が弓を引いて、今にも矢を撃ちそうだ。
(まずいな・・・、これ以上、矢が当たって血を流したら死ぬな。)
もう既に相当の血を流している。
騎馬に鞭を入れて走る速度を上げさせる。
蔡家の騎兵が弓を放つ瞬間に、手綱で騎馬の進路を右に動かす。
何とか矢は外れた。だが、まだ油断はできない。再び、後ろを振り向くと、今度は他の騎兵が弓を構えていた。
(休む暇も無いな。万事休すだが、俺はあきらめない。)
もう一人の騎兵の弓から矢が離れた瞬間、馬に鞭を入れて速度を上げる。
これ以上の速度は騎馬を潰しかねないが、今はそんな事を言っている時ではない。矢が届く範囲の外に出ないと、馬がつぶれる前にこっちが殺られてしまう。
(・・・悪いな。すまないが、無理をさせてもらう。)
馬に向かって、無茶をして走らせることを謝った。これで蔡家の騎兵が放つ弓の距離から外れたはずだともったが・・・甘かった。
振り向くと、一本の矢が勢いよく俺に向かって飛んでくる。とても避けられない程の勢いだ。とても避けられそうにもない。
顔を前を向けると手綱を強く握った。矢が当たる痛みで手綱を離して落馬したら、血を失う前に終わりてしまう。矢が当たる痛みで、騎馬から落ちないように手綱を強く握る。
「・・・・・・。」
しばらくしても、背中に激痛が走らなかった。俺に向けられた矢は地面のずいぶん後ろに落ちていた。
(・・・外れたか。)
俺は少し安堵した。あの矢の勢いは当たると思ったが、どうも、騎兵の矢は外れたようだ。痛みに備えて前を向いていたので、外れる瞬間は見ていなかったが、後ろも振り向ても矢は既に消えていた。
(まだ、運が俺に味方しているようだ・・・。)
俺は前方の山に目を向けた。山がだいぶ大きく見えている。
あと少しだ。山に入れば木に邪魔されて、騎馬が進める道は限られてくる。逃げ切れるとは思わないが、今より状況は期待できる。
再び、後ろを見ると俺を追って来る騎兵が増えていた。
さっきまでは5騎程度だったのが、10騎近くに増えている。更に、その後ろにはこちらを追って来る騎馬の数がその倍以上はいる。
(野盗を追っていた騎兵もこっちに来たか・・・。)
たぶん、俺を追い駆けていた野盗は蔡家軍の騎兵に捕まったのだろう。
野盗を追い駆けていった騎兵の方が主力だ。俺の後を追いかけて来た騎兵より数は多かった。その主力が野盗を捕縛して、俺を追っている候景将軍と合流したのであろう。
明らかに当初、俺を追ってきた騎馬の数より増えている。
主力と合流した騎兵は百騎近い数だ。常忠が騎兵の足止めを行うと言っても、この数を止めるのは無理だ。そして、俺が楊家の三男と顔が割れている以上、候景将軍も逃がさない。
(とにかく逃げる。俺は決してあきらめない。)
再び、振り向くと今度は5本の矢が飛んできた。
再び、矢が当たる痛みで落馬しないように手綱を強く握った。
この矢の数なら一本は確実に当たる。仮に俺に当たらなくても、馬にも当たるかもしれない。馬に矢が当たると、俺に当たる以上に状況がまずくなる。逃げる手段を失ってしまう。
「・・・・・・・。」
『終わりだ』と思って矢が当たる痛みに備えていたが、矢は来なかった。
今回は後ろを向いたまま放たれた矢を見ていたのだが、矢は俺の所まで届かなかったのだ。5本の矢は、途中で何かにぶつかったように地面に落ちていった。
「な、何が起こった。なぜ、今度も矢が当たらない。」
俺を追い駆けてくる騎兵が大声で叫んでいた。
「まただ、また矢が落ちたぞ。」
「結界か・・・、奴は魔力が無かったのか。」
「もう一回だ。もう一回放て!」
どうも、あの騎兵の口ぶりからは、先ほどの矢も途中で落ちたようだ。
追い駆けてくる騎兵はムキになって矢を放っている。
今度は飛んでくる矢は3本だ。だが、結果はさっきと同じ。矢は俺や馬に届く前に何かにぶつかって、地面に落ちていった。
「矢はダメだ。槍だ。槍で奴の首を獲れ!」
「馬を乗り潰しても構わん。もっと速度を出せ。」
「俺たちは右だ。お前たちは左。左に横付けしろ。」
どうも、騎兵の様子では、矢での攻撃はあきらめたようだ。
何が起きたんだと、文句を言っている騎兵の声が聞こえるが、そんなこと俺にも分からない。分からいが、俺を狙った矢はことごとく何かに当たって、地面に落ちていった。
(本当に、何が起きているんだ・・・。)
とにかく助かったが、正直、薄気味悪い。
目に見えない盾・・・いや、結界か。誰かが、結界を張って俺を守ってくれたのか?・・・だが、結界魔法は誰でも使える魔法ではない。聖属性の魔力を持っている者で一部の者が使えるに過ぎない。
当然、常忠は結界魔法は使えない。王級魔力を持つ剛之兄や琳玲ですら使えない。楊家のお抱え魔法使いに数人使る者もいたが、強い威力の結界ははれない。
(誰かが俺を助けたのか・・・。いや、それは無いか。)
楊家の生き残りの者を助けても得はしない。蔡家に睨まれるという災いしかない。そんな奇特な人物がこの世界にいるはずが無い。
では誰が結界を・・・もしかしたら結界では無いかも知れないが、何かの力が、俺を騎兵の矢から守ってくれたのは確かだ。
誰だか分からないが、とにかく騎兵の矢の攻撃から俺を守ってくれている。
今は、誰が俺を守ってくれたか考えるより、この場を乗り切ることが重要だ。
とにかく、後方からの矢の攻撃は回避できたようだ。
追って来る騎兵たちは、矢の攻撃はあきらめてくれたようだ。
今度は、矢ではなく馬を横付けしてくる。
遠距離攻撃はあきらめて近接戦の攻撃に変えたようだ。後方の騎兵が左右に3頭ずつ分かれると、俺の左右に分かれて包囲すべく俺と並行して馬を走らせる。
(今度は矢ではなく、近距離戦か。さすがに左右から同時攻撃をはつらい。)
左右に分かれた騎兵が、俺の馬の速度に合わせ馬を走っている。
右の位置にいる騎兵が俺に向かって槍を突く。とっさに俺は剣で相手の槍の攻撃を弾くが、すぐに左の騎兵も槍を突いてきた。腕は大したことはないがしつこい。それに左右からの攻撃はこちらが持たない。
右からの攻撃にかまっていると、今度は左手の敵の騎馬が寄せてくる。
(しまった・・・。)
一瞬、目線を左に移すと、俺に向かって左の騎兵が槍を突いてきた。
左からの攻撃に対処ができない。
「・・・・・。」
右からの攻撃に対処する為に、直ぐに視線を戻す。
しつこい攻撃のおかげで、左の攻撃に反応ができない。このままでは左から槍に俺が貫かれると覚悟した。
「うわっ・・・、お、おでの腕が・・・・。」
左で並走している騎兵から聞こえてきたのは叫び声だった。
俺は右からの攻撃を避けるので精一杯で、左からの突きの攻撃は避けられないと思っていた。
(いったい、何が起きた。自爆か・・・。)
並走する右からの攻撃を凌ぐのが精一杯で何が起きたのか分からない。考えられるのは、馬がこけて自爆したくらいだ。
とにかく、左から攻撃の気配が消えた。
今回の攻撃は助かったようだがが、左にはまだ並走する騎兵がまだ2騎いる。
早く右の騎兵を倒さなければ、直ぐにまた左から攻撃される。今度は勝手に騎兵が自爆してくれるとは限らない。
すると、信じられない光景が目に入った。
右から槍で攻撃していた騎兵の腕が、槍を持ったまま胴体から離れていったのだ。
離れた胴体から血が溢れ出て、槍を持った腕は地面に落ちていった。
「ぎゃぁぁぁぁあああああ。腕が・・・、俺の腕が・・・・。」
腕から血が噴き出している。
腕を失った騎兵が顔をゆがめて叫び声を上げた。
今度は俺も見ていたが、突然、腕が胴体から切り離された。
何かに斬られたのではない。目に見えない何かが、腕を斬ったように見えた。
(夢か・・・それとも幻か・・・でなければ幻影のたぐいか・・・。)
何が起こったのか理解しようとしたが、思い当たることは無かった。
まるで前世の都市伝説で聞いた、鎌鼬(かまいたち)という風が真空を産んで斬り傷を与える現象のようだ。とにかく、目に見えない風が敵の騎兵の腕を斬り裂いたように見えた。
(もしかすると、これは風魔法の攻撃か。)
周りに風魔法の使い手が居ないので見たことは無いが、風魔法の攻撃という事も考えられる。あくまで想像であって、確証は無い。
だが、今はそんなことはどうでも良かった。とにかく、右からの攻撃が無くなった。
叫んでいた騎兵は、叫ぶ声を上げながら痛みで態勢を崩し落馬していた。
代わりに、右側から次の騎馬が俺の馬に寄せてくる。
「何をした。楊家の残党。魔法か・・・。確か、楊家の三男は魔法が使えないという噂だったが。お前は楊家の三男じゃないのか。」
色黒のガタイの良い騎兵が俺に向かって叫んだ。
俺は別に楊家の三男と名乗ったつもりはない。候景将軍が勝手に俺を楊家の三男と決めつけていただけだ。
「俺の正体を、お前らに教える義理は無い。」
間違いでは無いが、名乗る必要もない。勝手に思い込んでいれば良い。
敵を惑わす為に否定も、肯定もしない。
「そうか、ならば死ね!」
色黒のガタイが大きい騎兵が、右から槍を突いてくる。
先ほどの騎兵より突きが速い。そして威力もありそうだ。どうも、さっきの騎兵よりランクが上の騎兵がやってきたようだ。
今度こそ、まずいかと思っていると、再び風が吹いた。
ガタイの大きい騎兵の槍は、残念ながら俺まで届かなかった。届く前に、腕ごと槍が地面に落ちていった。さっきと同じだ。
「うっ・・・。やはり魔法か。さっきの矢も結界で防いだのか。こいつ、魔法が使えるぞ。気をつけろ。」
色黒のガタイの良い騎兵の腕から血が溢れている。
だが、この騎兵は慌てることなく、周りの騎兵に指示を出した。
どうも、この騎兵は、この一群の隊長みたいな存在のようだ。
隊長の指示に従って、騎兵は俺から距離を取り始めた。あきらかに風の魔法攻撃を警戒している素振りだ。
隊長は落馬することなく、馬上で失った腕の痕から流れる血の止血を行った。
「これならどうだ。」
今度は距離を取った騎兵が、勢いよく槍を俺に投げつけた。
矢は結界に弾かれたが、威力のある投げ槍なら矢を弾いた何かを貫けると思っての攻撃のようだ。だが残念ながら、投げ槍は俺に当たることは無かった。先ほどの矢と同じように、途中で何かに当たって地面に落ちていった。
「クソ!やはりダメか。・・・もしかすると、これは結界か。」
槍を投げた男は悔しそうにつぶやいた。
もし結界なら、張った者の魔力階級の強さもよるが、強い魔力階級の持ち主が張った結界なら簡単には破れない。
ただし、結界を張るには膨大な魔力を消費する。
魔力量が普通の魔法使いなら、結界を張り続けられるのは30分、魔力量が多いい魔法使いでも1時間が限界と言われている。
隊長は結界と言って騒いでいるが、俺には良く分からない。
少なくとも俺が結界を張っているのではない。
(誰だ・・・、俺を守ってくれているのか。何のために。いったい何なんだ。)
未だに、俺には何が起きているのか理解できていない。
今までの状況を見れば、何かに守られているのは確かなようだ。
おかげで命拾いをしているが薄気味悪いのは確かだ。でも贅沢は言っていられない。とにかく、このままなら死なずに逃げられそうだ。
蔡家の騎兵は並走して、距離を保っている。
矢や槍を防いだ何かを結界と決めつけて、魔力切れで結界が消えるのを待っているようだ。
状況は理解できていないが、とにかく山に向かって馬を走らせる。
馬は相当疲れてきている。このままなら、確実にこの馬はバテるだろう。
(馬が潰れる前に、山に入る。山に潜めば、隠れる場所があるはずだ。)
これだけ走ってくれたのだから、この馬には感謝している。
この馬もそろそろ限界だ。すまないと思いながら、馬に鞭を入れる。
蔡家の騎兵は一定の時間が経つと、作業のように矢を撃ってきた。
矢は俺の所には届か前に、何かに阻まれて地面に落ちていった。たぶん結界が魔力切れになったかを確認する為だろう。矢が地面に落ちるのを確認すると、再び黙って俺の周りで並走する。
結界を張られた状況では、蔡家の騎兵も手の出しようがない。
いよいよ、山の麓までやってきた。
山道が一本通っていて、その道をお手は馬で進んでいく。
途中で、何かを通り抜けるヒヤリとした感覚があったので周りを見回したが特段何も無かった。
蔡家の騎兵が俺に並走して、山の麓にちかづくと、『ガン――』と大きな音がして、馬が後ろに弾き飛ばされていた。
何かにぶつかった音だ。
突然、音に反応して、音がした方向を見たが、壁のような物は何もない。
ただ、左右に並走していた騎馬が倒れて、騎兵たちが投げ飛ばされていた。振り向
「うわぁ・・・痛て・・・。」
地面に投げ飛ばされた騎兵たちが悲鳴を上げていた。
落馬した騎士は、なんとか受け身を取って周りをキョロキョロと見回していた。
どうも敵の騎兵に何かが起きたようだが、俺が奴らを心配するのはお門違いだ。
反って追っ手と距離が稼げるので、止まることなく馬を走らせた。
山に入って、しばらくしても追っ手の姿は現れない。
(それにしても、さっきの蔡家の騎兵は何だったんだ。)
勝手に複数騎の騎兵が、乗っていた馬から振り落とされて落馬をしていた。きっと何かのアクシデントがあったのだろう。馬の耳に蜂でも入ったか、馬の蹄(ひづめ)が割れたかといったいう事故が良くある。だが、5,6騎の馬が一斉に倒れるのは不自然だ。
考えても、理由は分からない。とにかく、今の状況が俺にとっては悪くない状況だと言うだけで良い。
その後も後方で『ガン・・・。ガン・・・。ガン・・・。』と音が聞こえたような気がしたが、考えるのを止めていた。
* * *
候景将軍 【東の山の麓】
その頃、候景将軍は常忠を振り払って慶之を追い駆けていた。
けっこう苦しめられた楊家の騎士を倒すことをあきらめて、慶之の三男を殺す事を優先して何とかやってきた。
しばらく騎馬を走らせると、前方に部下たちが屯っている姿が見えた。
やっと追いついたようだ。
「おい、お前たち。楊家の三男はどうした。」
候景将軍が屯っている部下に声をかけると、仲間を代表して隊長が答えた。
「候景将軍、楊家の三男かどうかは分かりませんが、先ほどから追っている楊家の残党はこの山に入って行きました。」
「お前たち、油を売っているつもりか。なぜ、楊家の三男を追わない。」
光景将軍には、山の麓で屯している30騎近い騎兵が休んでいるように見えた。
「それが候景将軍、追わないのではなく、追えないのです。」
「お前は何を言っているんだ。儂を怒らせたいのか。とっとと楊家の三男を追え。」
候景将軍が厳しい口調で、隊長に命じる。
「違うのです。候景将軍。」
「何が違うんだ。」
厳しい目線で隊長を睨みつける。口調も怒りがこもっている感じだ。
「この山に入ろうと前に進むのですが、何かに行く手を遮られているのです。」
隊長は、候景将軍を山の麓に誘導して、山の中に入るように勧める。
——ドン。
大きな音を立てると、候景将軍の馬が倒れて、将軍も馬から振り落とされた。
「な、何が起きた。なぜ馬が前に進まない。」
候景将軍が不思議がっている所に、隊長が説明を行う。
「こちらに手をかざしてください。」
隊長は、候景将軍の手を引っ張って行って、馬が倒れた場所まで連れて行く。そして引っ張った手を、見えない何かに触れさせるように将軍の手を引っ張った。
「な、なんだ。これは・・・結界か。」
手で『コンコン』と目に見えない何かを叩く。
「そのようです。山一帯を調べさせましたが、この山全体を結界が覆っているいます。これだけ大きな結界など見たことがありません。」
隊長は山を見ながら、候景将軍に説明を行った。
「楊家の三男が、これだけ大きな結界を張れるわけが無い。だが、確かにここに結界がある。一体どういうことだ。さっきの逃げた男は楊家の三男では無かったのか。だが、さっきの逃げた男が持っていた剣は、楊家の一族・・・または高位の陪臣が持つ剣で間違いなかった。分からない、さっきの男が楊家の人間なら、これだけの結界を張る力を持っているのに、なぜ今まで使わなかった。本当に、さっきの逃げた男がこの結界を張ったのか・・・」
候景将軍が呻き声をあげると、横で控えていた隊長が答えた。
「逃げた男が楊家の残党かは分かりません。ただ、楊家の家紋が入った高価な剣を持っていたのは事実。そして、この山に入る前にも、結界のような物を張ったりしています。あの者が魔力持ちであるのは確かかと。」
「そうか・・・魔力持ちか。楊家の三男では無いようだな。だが、楊家の残党であるのは確かだ。なぜ、今までその力を出さなかったのかは分からないが、とにかくここで始末する。」
「分かりました。候景将軍。」
隊長は両腕を上げて、右手の拳を左手の掌で覆う。
命令を受けた際の受礼の仕草だ。
候景将軍は隊長だけでなく、屯する騎兵の全員に聞こえるように叫んだ。
「まずは、この山を囲め。もう少しで空が暗くなる。楊家の残党を見つけたら煙ではなく火矢で知らせろ。奴の結界の魔力はもう少しで無くなる。絶対に山から逃がすな。ここで必ず始末する。いいな」
「「「「はっ!」」」」
部下たちは、頭を下げると山の周り囲むように左右に散って行った。
とにかく暗くなる前に、包囲を完了させなければならない。
(それにしても、何者なんだ。山全体を覆う結界など聞いた事が無い。それほどの魔力を持った者が楊家にいるとは・・・、ここで息の根を絶つか、少なくても何者かを探らねば。蔡辺境伯の王道を阻む者は何人であろうと殺す。)
これだけの結界を張る魔力量を持った者がいるとは予想外であったが、1人なら倒せる。結界魔法は光属性の魔法で攻撃力は強くない。結界は魔力を大量に消費するので待っていれば時期に値を上げるはずだ。
(長くても1時間待っていれば、この結界も消える。)
候景将軍は口角を上げて薄笑いを浮かべるのであった。
* * *
楊慶之 【東の山の中】
山に入ると、俺はすぐに馬を捨てた。
蔡家の騎兵は追って来ていないようだが、油断はできない。
木々が邪魔をして馬では通りにくく、蹄の跡で進行方向がバレてしまう。乗り捨てた馬には東に続く道をそのまま進んでもらうつもりだ。
いずれは馬上にいないことが蔡家軍にバレるだろうが、それでも構わない。
時間が稼げれば良いのだ。そして、この山で少し休んだら、再び南下する進路をとるつもりだ。南には海しかないので、蔡家軍も南に逃げたとは考えないだろう。
(常忠・・・無事か、上手く、この山で合流できれば良いが・・・。)
気づくと、辺り一面が夕陽で真っ赤な茜色に染まっていた。あと少しで陽が暮れようとしている。
(おかしい・・・。)
既に山の中腹まで登ったが、後ろを振り向いても蔡家の追っ手の気配がない。馬蹄の音も聞こえない。蔡家の騎兵がこの山に侵入した気配がない。山の麓で、蔡家軍の騎馬が山に入るのに戸惑っていたが、それも解消したはずだ。
(なぜ、奴らは追ってこない。追い駆けるのをあきらめたのか・・・。いや、そんなハズは無い。俺が楊家の3男、楊慶之という素性はバレている。楊家の一族の者を逃がすほど、候景将軍もお人好しじゃないだろう・・・。)
奴らが、このまま見逃すはずはないとすると・・・。
山の周りで罠を張っているのか、それとも、常忠が何かをしたのか・・・。
まさか常忠が候景将軍を倒したとか・・・それは無いな。
候景将軍は卑怯で卑劣な男とはいえ、一応は将級魔力の将軍だ。将軍が本気で戦ったら、常忠でも勝てるかどうか分からない。しかも、将軍には部下もいるのだ。なぜ、蔡家の騎兵たちが追って来ないか分からないが、候景将軍は無事だろう。
(まぁ、ここで分からないことを考えても仕方がないか・・・。)
蔡家軍が追ってこない理由を考えるのは止めた。
今、俺がやらなければならないことを考えることにした。
まずは水と食料を得ることだ。
昼から逃げっぱなしでろくに水も飲んでいない。途中で竹筒に入った水は飲み尽くした。常忠が旅の途中で捕まえた魔牛妖の干し肉も逃げる途中で置いてきた。
(とにかく、喉が渇いた。それに腹も減った。隠れられる場所も探さないと。)
少し休みたいが、地面に座ったら立てなくなりそうだ。
まずは、水を得る為に川を探しながら歩いたが、それらしき物は見つからない。
食糧になりそうな小動物や鳥、茸や草も探すが、食べ物も見つからない。
なんだか、この山は変だった。生き物の気配が全くしない。音さえしない。風の音すらしない。不気味に思いながらも山の探索を続けた。
水や食べ物を探すのと並行して、身を隠せる洞窟や、上で休める大きな木も探したが、こちらもなかなか見つからない。
周りが夕陽の赤い色で染められてきた。
もう少し経つと暗くなる。
暗くなる前にせめて、水と隠れる場所を探していると、隠れ場所ではなく見晴らしの良い崖に出た。
そこから見下ろすと、麓で屯っている蔡家の兵士と馬が見えた。
(奴らは山に入って来ないと思ったら、俺を待ち伏せするつもりか。)
屯っていた兵士たちは馬に乗ると、山の周りを囲むように左右に散会して行った。
この山には入って来る気配はない。
代わりに火矢を撃っていたが、山に届く前に地面に落ちていく。
さっきの結界の時と同じようだ。何かを確認するように数本の火矢を撃つと、撃つのを止めていた。暗くなってきたので、変に山に入って俺を追うよりも、周りを囲んで俺が逃げないようにした方が良いと考えたのかもしれない。
候景将軍にしては賢明な判断だ。
相手を必ず捕まえたいのなら暗闇で動くのは愚策だ。
もし、暗闇で奴らがこの山に入って俺を捕まえようとしたら、そっちの方が逃げやすい。
逆に、山の周りを囲んで逃げ道を塞いで待ち伏せされる方が、こっちは逃げにくい。
(陽の光が上がったら敵は必ず動く。その前に何としても、敵の包囲を抜く。)
相手がその気なら、こっちは何としても逃げ切ってやる。
朝方の陽明け前を狙うか・・・、朝方の時間帯が一番油断が発生しやすい。
それとも山に隠れて蔡家軍がこの山を過ぎ去るのを待つか・・・。
ただ、それは甘いかもしれない。蔡家の兵が見つけられないのが前提だ。他人任せの手は打ちたくない。
(やはり、陽が明ける前に逃げるしかないか・・・。)
常忠はまだ山に現れていない。
彼とこの山で合流できないのは残念だが、常忠なら上手くやる。
蔡家の騎兵の包囲も突破できるだろう。きっと大丈夫だ。この山で合流できなくても、どこかで合流できる。ここで悪い方に考えても仕方がない。俺は常忠の無事を自分に言い聞かせる。
方針が決まれば、まずは水と食料と休養だ。
朝方までに、体力と気力を回復させておかなければ、逃げ切れない。
考えがまとまると、俺は水と食料、それに少し休める場所を探し始めた。もうすぐ陽が暮れる。夕陽の色が茜色から、黒に変わってきた。
――ググゥ~。
腹が鳴る音がした。喉の渇きもつらい。昼から何も口に入れていないことを思い出すと、元気が出ない。歩くのもきつく感じる。
(常忠がいればな・・・。)
食糧も火打石などの生活必需品も、全て常忠が担ぐ荷物袋に入れていた。
常忠がいなければ、何もできないことを思い知らされた。
(とにかく、今は水と、食べ物と水を探す事だ。)
気持ちを切り替え、山の探索を続ける。
既に夕陽の赤い光は消えて、空は薄暗くなっていた。
周りが見えづらいが、薄い月明かりで真っ暗でないことが救いだ。
剣を握りしめて歩く。
生きた動物どころか、虫の鳴き声すらしない。この山は静かすぎる。一切の生き物の気配が感じられない。静寂が一帯を支配している。
月明かりだけでは心もとない。火打石が欲しい。だが、無い物は仕方がない。
こういう時、火魔法でも使えれば良いなと思う。
楊公爵家の一族の魔法象席は火属性だ。親父殿や義之兄、剛之兄、琳玲も皆が火属性の魔法を使う。楊家では火をつけるのは魔法を使うのが普通だった。
川の近くなら、火打石が落ちているかもしれないと川を探す。
暗くて川を見つけるのは至難の業だ。
暗闇の中、目で探すことはあきらめ、耳で川の音を探すことにした。
この山は異様に静かだ。少しの音も聞き逃さないはずだ。
そう思って、しばらく歩いていると、小さな音が聞こえた気がした。
この山に入ってから、やっと聞こえた音だ。
(水だ・・・。水の流れる音だ。)
耳を澄まし、水の流れる音に意識を傾ける。
音が聞こえる方に向かって進むと、川辺に出た。近づいて川に手をつけ、そっと両手で水をすくって口に含んだ。
(うまい。)
渇いた喉に水が染み渡り、やっと生きた心地がした。何回も水を口に運び、喉の渇きが癒えると、川辺の石に座り込んで休んだ。
(さて、これからどうするか。)
やっと生きた心地がしたが、腹が減って何か食べ物が欲しい所だ。しかし、暗さの中で食料を見つけるのは難しい。
今は火がだな・・・明かりが必要だ。川辺なら火打石になるような硬い石があるかもしれない。
しばらく火打石になりそうな硬い石を探したが、この暗闇の中で物を探すのは本当に難しい。薄い月明かりでは、それらしい石を目で見つける事は出来ない。
かといって、一つひとつの石が火打石と同等の硬さか叩いて確認するのは骨が折れる。
にこれ以上の探索は無理だ。
ここは、隠れる場所を探して、体を休めた方が良さそうだ。明日の明け方までの時間は限られている。
(とにかく、一晩休む安全そうな場所を探そう。)
洞窟か。木の上が好ましいか・・・。
この暗闇では、人が一晩過ごせるような大きな木を探すのは無理かもしれない。隠れやすい洞窟を探す方がまだ見つけられそうだ。
山の斜面に向かって、洞窟を探し始めた。
山の斜面であれば、どこかに穴や洞窟があるかもしれない。薄い月明かりで山の斜面を入念に探した。
(・・・こうやって洞窟を探すと、本当に洞窟って無いな。)
川で休憩した後、半刻(約2時間)をかけて山の斜面を歩き回ったが、洞窟や穴などは見当たらなかった。
月が真上に近づき、疲れてきた。
洞窟は見つからなかったが、この山に生き物の気配が無いことが分かった。
このまま良さそうな場所が見つからなければ、雨さえ降らなければ、洞窟でなくても良いのではと思い始めた。
暫く歩くと、山の斜面から明かりが見えた。月明かりではなく、斜面の中から七色に光る明かりが輝いていた。
(な、なんだ・・・。あの光は。)
よく見ると、その光は山の斜面にある洞窟から漏れ出て輝いていた。
俺は目を疑った。
その七色の光は、2日前に見た七色の流れ星の明かりに似ていたからだ。
(なんだ、あの光は・・・。しかも、なぜ洞窟から光が漏れている。それにしても綺麗な光だが・・・。)
慶之は見たこともない光を警戒しながら近づくことにした。
興味本位もあるが、今は明かりが欲しい。もし光りゴケや光る石なら、火が無くても照明代わりになる。
光に近づくにつれて、ますます不思議な明かりに感じられた。やはり、この光は七色に光る流れ星のようだ・・・。
(幻想的で温かい光・・・、こんな綺麗な光は見たことがない。まるで魔力色の光のようだ。でも、魔力色でもこんなに綺麗な光は無いな・・・。)
魔力は無いけれど、人の魔力色を見るのは好きだった。魔力色は見える人と見えない人がいるようだが、慶之は小さな魔力の明かりでも見ることができた。しかし、こんな七色に光る魔力色は見たことがなかった。
魔力色ではないかもしれないが、見とれてしまうほどの綺麗な光だった。近づくと、目が開けられないほどのまぶしい光が洞窟の中から溢れ出ている。
(なんだ、この洞窟は・・・。)
目を細めながら洞窟に近づいてみるが、人の気配は感じられない。
光コケでも洞窟の周りに付着していれば、それを剥がして明かりにできる。
思い切って洞窟の中に入ってみることにした。目を細めて見ても、まぶしく何も見えないほどの光が溢れていた。七色の光は地面から出ているようだ。慎重に足を動かし、虹色の明かりが溢れる地面に近づいてみる。
「うわっ・・・・。」
突然、足場が無くなった。
七色の光が目の前から消えて、真っ暗な景色に変わる。地面が消えたように感じ、体が宙に浮いているような感覚に襲われる。そして、何もかもが真っ暗になった。
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