第35話 浮上

これは、まだ「私」が「俺」だった頃の話。


その時、俺はまだ新人だった。


病院の病室に対する一般的なイメージって、映画で見るような、白くて清潔な空間。患者のベッドの横には花やフルーツバスケットが置かれていて、外からそよ風が窓から吹き込んでくる……そんな感じだろう。


でも俺にとって、病院の病室の印象はそんなものではなかった。


俺の記憶にある病室は、いつも騒がしい。


昼夜を問わず、病室の廊下の明かりはいつも点灯していて、自分はいつも急ぎ足で歩いている、足が痛くなるほどに。


機器の絶え間ない警告音。消毒液の匂いが混じった空気。時々聞こえるうめき声。患者さんの動脈から血を抜く時の、微熱を帯びた湿った肌の感触。交換した包帯のこもった匂い。そして、睡眠不足による頭痛。


これらが、俺が病室に持っている印象を形成していた。


そんな時、ある患者さんがいて、その人の傷口の手当てと包帯の交換を、いつも俺が担当していた。


それは、意識不明で、呼吸器と点滴に頼って生きているおじいさんだった。


家族はもう見舞いに来ることもなくなっていた。


毎晩まいばん、先輩の指示通りに医療カートを押して、その病室へ行っておじいさんの傷の手当てをしていた。


誰も見守っていないし、当直も俺一人。まずは患者さんを寝返りさせ、器具や薬剤を用意し、背中やお尻の傷を清潔にする。


患者さんが意識がなかったり、自分で動けない状態で、体の一部が長時間圧迫され、血流が滞り、組織が壊死するのだ。


その患者さんの傷はかなりひどく、抗生物質こうせいぶっしつを使っても効果は限られていた。先輩によると、身体の状態が悪く、デブリードマンもできない状態だったから、感染が繰り返されていた。


その患者さんの皮膚に触れると、いつも微熱を感じた。


俺はいつも夜中の2、3時にその部屋に行く番だった。孤独で、患者さん一人だけがいるそのベッドに向かい、傷の手当てをする。


そしてある日、俺は先輩に呼ばれて手術の手伝いをすることに。手術室を出た時は、もう翌日の早朝だった。


疲れ切った俺は、まだあの患者の傷口の手当てが残っていることを思い出し、ルーティンワークを呪いながら、カートを押して、ぼんやりと病室へ向かった。


でも、病室はがらんとしていた。


強烈な喪失感に襲われた。俺が知らないうちに、その患者は亡くなっていたのだ。


その日から、俺は病院が嫌いになったように思う。



§


「…嫌なことを思い出してしまった。」


私が体の微熱と痛みの中から目覚めた。


目を開けた時、見えたのは見慣れない天井だった。


「病院...ここは廃棄された病室か。」


私が体を少し動かして座り上がった。


ここは質素で殺風景な部屋だった。


灰色のコンクリートの壁には小さな窓が開けられており、ほんの少しの光が差し込んでいる。


部屋には飾りっけがなく、私が横たわっているこのベッドの他には、机と椅子、そしてベッドサイドのキャビネットのみがあった。キャビネットの上には、使われたことのある薬品がいくつか置かれており、消毒液の匂いが鼻をつんざく。


「...っ!」


自分の体を見下ろすと、破れたために交換されたらしい私の服が無くなっており、傷口は丁寧に包帯で覆われていた。自分の頭に手をやると、顔を覆っていたキャップとマスクも取り除かれていたことに気がついた。


「...顔が、晒されている。」


ドアノブが回る音が聞こえた。警戒心を解かずにドアを見据えながら、私は布団の下ですきるを慣れ親しんだ拳銃をひそかに手に取った。


「やっと起きてたか。」


「…リコシェ。」


「あんた三日も寝ていた。ひでぇありさまだな。あちこち傷があって、体中の骨にはひびが入っている。肋骨あばらぼねも何本か折れていて、軽い脳震盪のうしんとうもある。幸い命に別状はなく後遺症の心配もおそらくないが、ちゃんと休んだ方がいい。」


リコシェは食事が盛られたトレイを持っており、それをベッドサイドのテーブルに置いた。


「体の具合はどう?まあ、あたしは患者の面倒を見るのが苦手なんだから、簡単な手当しかできなかったけど、何もしないよりはましだろ?」


リコシェの表情を盗み見る。彼女の眉は僅かに顰められており、落ち着いてはいるが心配の色を隠しきれていない。


「…痛み以外は大したことない。」


「そうか、それならよかった。」


リコシェは明らかに安堵の息をついた。


「とにかく、何か食べてみよう。」


「あ、ああ。」


リコシェの態度に少し戸惑いながら、私は目の前にあるスープを慎重にすくい、冷ましてから口に運んだ。素朴そぼくだけれども温かい味が舌の上で広がった。


「…美味しい。」


「だろう。あたし、料理は得意なんだ。」


リコシェは静かに私の隣で、私がスープを飲むのを見ていた。


「あのさ、ちょっと聞きたいことがある。」


「何か...」


リコシェは驚くほどの速さでリボルバーを私の頭に突きつけた。彼女の動きに気づいたが、スプーンでスープをすすっていたため、すぐには反応できなかった。


「あんた、サヨナキドリそのものだろう?」


「...っ。」


「動くな。あんたが布団の下に武器を隠しているのは知っている。でも、今は両手でスープボウルを持っている。どう足掻いても、あたしが引き金を引く速さの方があんたが銃を取り出すより早い。」


「なるほど。このスープは君の計算どおりか?」


「ああ。シンプルで効果的だろう?」


リコシェがリボルバーを私の頭に押し付けた。金属の銃口が脳天に当たり、わずかな痛みを感じさせた。


「答え。」


「...もし私がサヨナキドリだとしたら、君はどうするつもり?」


「聞くまでもない。あんたを倒す。」


「そうだとしたら、なぜまだ撃たないの?こんなに丁寧に面倒を見てくれる理由は何?意識が戻らないうちに、顔が見えたその時に動くこともできたはず。」


「っ。」


彼女を斜めに見つめながら問いかけると、リコシェの冷たい目が迷いに変わった。


「...銃口を向けられても動じないとは。いい度胸だな。」


長い間躊躇した後、リコシェは大きくため息をついてリボルバーを下ろした。そして、曖昧な笑みを浮かべた。


「そうだな。今のあたしには、たとえあんたがサヨナキドリだと知っていても手を出すことができない。あんたがスターリーアイズの手から逃れる手助けをしてくれたおかげだからな。」


リコシェはイライラしている様子で頭をかきむしり、彼女の動きにつれて紫色の髪が乱れた。


「...クソ。ちょっと外に出て、冷静になってくる。ゆっくり休んで。回復したら、その後の話をしよう。」


「ああ。わかった。」


リコシェがまるで逃げるように部屋を出ていくのを見て、私は深くため息をついた。


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