第1話 赤い服の真田さん

 4月になると桜は僅かな満開を迎え、呆気なく桃色の葉は風にさらわれて散ってしまう。大学の入学式を終えた私は、誰とも会話を交わすことなく家に帰った。大学レベルとなれば、クラスという概念もなく自動車学校のような個人戦だ。


「おかえり」

「あ、管理人」


 見たことのあるたてがみのないライオンのような獣が描かれた黒いジャージを着た管理人が、縄跳びをしていた。綺麗な前跳びだが、少し顔が青ざめているような気がする。


「いたっ!」


 縄がすねを直撃したようで、痛打した箇所を押さえて蹲っている。


「何やってるんですか」

「私も、まだ、若く、いたいのよ」

「そんな息切れして訴えなくても・・・・・・え、管理人いくつですか?」

「私? 今年で40だけど」


 嘘だ。紺のミディアムヘアと顔のマッチングで考えれば、私と同い年と言っても良いくらいだ。しかし、前跳びをしてこの息の上がりようといい、まだ痛みに悶えているところを考慮すると、そうなのかも。


「あ、そうそう。さっき新しい人が来て、あかりちゃんにも挨拶したいらしいの」

「ああ、いいですよ。いつでも来てくださいって伝えておいてください」

「はーい」


 そう言われるとさっき、帰って来る時にパンダが描かれた引っ越し業者のトラックとすれ違ったけど、それだったのかな。


『コン、コン』

「はい」


 木製の扉を手の甲でノックする音が3回、入室マナーがしっかりした人だ。


「我、信濃国しなののくにから参った姓は真田さなだ、名はみゆきと申す」


 とりあえずどこから処理しようか。扉を開けると、黒く前髪が整ったロングヘアの凛とした女性が背筋をピンと伸ばして立っている。ここまでは普通だが、聞き間違い出なければ自分のことを『我』と言って、なんか『国』とか言ってたような。それに、なぜ上下赤いジャージなんだ。


「すいません、もう一回言ってもらっていいですか?」

「いいぞ。我は、信濃国から参った真田幸と申す。今日から其方そなたの隣室で居座らせていただくことになった故、せめて挨拶だけでもさせていただくお尋ね申した」

「は、はあ。とにかく、お茶でも如何ですか?」

「すまぬ、せっかくだからいただこう」


 挨拶だけと言っているのに、なぜ家に入れてしまったのだろう。考えたら負けだ。


「えっと、真田さんでしたっけ?」

「うむ、そうだが」

「信濃国って確か、長野県ですよね?」

「ながの、けん? 何だその名は?」


 ダメだ、どこかの六文銭の旗を掲げて赤い甲冑を着た戦国武将と話している気に持っていかれている。こんなに顔も綺麗で、女の子なのに。


「お邪魔するよ」

「おお、大和殿」


 苗字に『殿』とか付けられるともうあの人しか浮かばなくなる。私が昔やっていた戦国RPGのあのキャラが、頭の中を埋め尽くしていった。


「前の住所なんだけど、できればマンション名まで書いて欲しいの」


 管理人が手に持っていた転入届を覗いてみると、指された欄の頭に達筆な字で『長野県』と書いてあった。


「あれ、真田さん『長野県』知ってるじゃん」

「さっきからその『ながのけん』って何なんだ」

「え、これだけど」

「そうか、これをそう読むのか」

「じゃあ今まで、何て読んでたの?」

「しなののくに」


 飛んだ誤解をしていたらしい。私にとって『長野県』は『ながのけん』というのが常識だったが、その地からやってきた真田さんにとって『長野県』を『しなののくに』と声にするのが常識なのか、ってそんなわけあるか。


「知ってただろ」


 冷めた目で見ると、汗を流して外方を必死に向こうとする真田さんだった。

 ちなみに、私も想像した真田幸村はどのジャンルでも完璧に熟し、主君に忠誠を誓うイケメンというイメージだが、実は不器用で普通のおじさんだったという説もあったとか。

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