「物語」物語

柑橘

物語る

 わたしたちが文章を打っているとき、文末に点滅する縦棒を見ることができる。こういう(|)見た目のものだ。一般には「カーソル」と呼ばれるが、矢印マークのポインタと区別するために「キャレット」と呼ばれる場合もあるらしい。縦書き入力の際には横棒になるが、議論を簡便にするためにここでは横書きの場合のみを考える。

 さて、カーソルには質量がある。こんな細い棒に質量なんてあるのかと思ったかもしれないが、仮に質量がないと仮定した場合、カーソルはそよ風に吹かれただけで凄まじい勢いで画面外に消し飛んで行ってしまう。もちろんそんな困った事態は現実には起きておらず、それゆえカーソルには質量がある。以下その質量をmとする。実はこのカーソルには中心に2本の透明なひもが結わえ付けられていて、1本は左に、もう1本は右に伸びている。透明なので通常は見えないのだが、十分な修練を積むと見えるようになる。

 このとき、右のひもを一定の力Fで引っ張る者がいる。物語である。当然カーソルが右へ右へと進んで物語が展開しないと物語的には困るわけで、物語は生存戦略としてカーソルを右に牽引し続けている。

 誰も左のひもを引っ張っていない状態を考えよう。何の制約も無しに駆動する物語は無数の可能性を内包しているため、文章は伸びに伸びて、いつまで経っても終わらない。実際、運動方程式を立ててみると

ma=F

∴a=F/m

となり、総文字数xは時間に対して二次関数的にどこまでも増大し、放っておくと無限大に発散する。

 実際は左のひもを引っ張っている者がいる。作者である。作者の加える校正や書き直しやときには大幅なカットによって総文字数xは減り、カーソルは左へと動く。作者が加える力の大きさをKとすると、カーソルの運動方程式は下のようになる。

ma=F-K

ここで、KはFと異なり一定の値を取らないことに注意してほしい。Kは、作者のやる気だったり、気分だったり、文章を書き始めてからの経過時間tだったり、総文字数xだったり、さまざまな要素の影響を受ける。一番普遍的なモデルがK=kx(k:定数)とするもので、要するに文章が長くなればなるほど文章の進みが遅くなるというモデルだ。書き始めは実にスムーズだったのに、書き進めるうちに筆の進みが遅くなって、挙句読み返したら様々な瑕疵が目についてきてしまい、という経験は万人に共通のものだろう。このとき運動方程式は

ma=F-kx ⇔ d^2x/dt^2 =F/m-(k/m)・x

となり、この微分方程式を解くと

x=F/k + Acos(√(k/m) ・t + B) (A,B:任意の定数)

となる。これは総文字数がF/k +AとF/k -Aの間を一定時間ごとに行ったり来たりすることを示しており、執筆時の実情をよく近似しているとされる。

 このモデルで示したように、作者の加える力Kによって物語には上限が生まれる。K=0のときは時間があればあるだけ広がり続けた物語だが、適当な制約を設けることで無限の可能性は有限へと落とし込まれるのだ。問題は制約が適当でない場合、即ち作者の要請が多すぎる場合である。このときKはFを上回り、K>Fの状態がいつまでも続くと最終的には総文字数x=0となってしまう。物語を制御するにあたって、例えば「過度に感情的ではなく、かといって過度に無機質なわけでもない」とか「過度にシリアスではなく、かといってコメディタッチすぎるのも困る」とか「格好良いルビを振りたいが、かといって中二病っぽくはしたくない」とか、あれこれと要請すべきではない。しかし制約を緩くしたまま放置しておくと、今度は物語が好き勝手に拡大し続けてしまう。これは物語を適切な終着点へと帰着させるための綱引きであり、ぐいぐいとカーソルを引っ張ってゆく物語に対し、作者はときに力を緩めて、ときに本気で反対側に縄を引っ張っ、あれっ、本気で引っ張っても全然力負けするな?

 作者は、わたしは、身体を後傾させ、全体重をかけるようにして縄を引っ張る。それでもカーソルは静止せず、わたしは引きずられるようにあなたから見て右方向へ、わたしから見て前方向へと運ばれていく。このままでは物語が無限に発散する。綱引きは確か中心に近いところを引っ張る方が有利なはず、と思い出したわたしは、縄の持ち手をじりじりと動かして中心部へと近づける。カーソルの動きはずいぶんと緩やかになり、そろそろ静止しそうだ。やったか、と思った瞬間、物語がぐるっと首を回してこちらに顔を向ける。物語は、彼女は、そのまま持ち手をわたしの方へ近づけてきて、あっ、ずるい! 止まりかけたカーソルは再び勢いを増して、わたしも負けじと持ち手を前へと滑らせていく。わたしたちの綱引きによって、あなたから見るとカーソルは横幅が長い十字のようになっており、わたしはふと、十字のトみたいな部分に手を引っかけられたなら流石に力負けしないのではと思い付く。相手も相手で同じことを思い付いたらしく、わたしたちはカーソルを中心として互いの距離を縮めていく。そうして、わたしたちは同時にカーソルまであと腕1本分というところまで近づいて、えいやっと腕を伸ばし、

 指が触れた。

 気が付くと、わたしはふかふかのベッドの上で横になっていた。誰かがわたしの手を握っていて、わたしはこわごわと身を起こす。わたしはゆっくりと目を開くけど、周囲は真黒な闇に包まれていて何も見ることができない。

「あるいはまだ目を閉じているのかも。だって何も無いってそういうことでしょ?」

 隣から歌うように聞こえてきたのは軽くやわらかい声で、聞き覚えのない声だったのに、これは彼女の声だと直感する。

「暗闇では目を開いているか閉じているか区別が出来ないってこと?」

「ううん、そんな堅苦しい話じゃなくってさ。ここには全ての可能性があるんだよ。だから目を開いても閉じててもどっちでもいいし、あるいは開いててかつ閉じてるのかもしれないし、あるいは開いてもないし閉じてもいないのかも」

「そんな無茶な」

「『無茶』まで含めて可能性だからねぇ」

 キィ、となにかが軋む音がして、どうやら彼女はベッドから下りたようだ。わたしもこわごわと足を下ろして、爪先をつけて、それからゆっくりとかかとを下ろす。やはり少しだけ床が鳴る。

「あるいは階段の一段目かも」

「余計なこと言わないで」

「あるいは畳だったり……?」

「うるさい」

 わたしはドアを開けて、と書くことでそこにドアが現れ、その先の廊下へと進む。廊下には窓があって、月明かりが白々とわたしたちを照らす。わたしたちは音を立てないようにゆっくりと廊下を進み「たくないよね」

「語りの邪魔をしないで」

 きっと睨みつけると、彼女はあきれたように眉を上げた。

「だってさ? こんなにロマンチックな雰囲気なのに君は室内の描写にばっかり気をまわして」

 全ての窓が音もなく開き、廊下の端は視認できないほど遠くへと行ってしまい、涼やかな夜風が一気に吹き込んでくる。あまりの風圧にわたしは一瞬目を細め、その隙に彼女は窓枠のそばへと駆け寄った。そのまま空いた窓から飛び出そうとするものだから、わたしは慌てて彼女の首根っこを掴んで引き戻し、勢いあまってお互いに尻もちをついてしまう。

「ちょっとぉ、痛いじゃん」

「だって落ちたら死んじゃうじゃない」

「君がそう語ればね」

 彼女は腰をさすりながら立ち上がり、パチンと指を鳴らした。

 暗転。

「君は語りの絶対性を分かっていない。というかそもそも、この『物語る』という物語において誰が主人公なのか、君はまずそこが理解できていないんじゃない?」

 全方位から声が聞こえてきて、わたしはぎょっとして周囲を見渡す。しかし当然何も見えないし、そもそもわたしは今自分が何に腰かけているのかすら分からない。

「何の制約も無しに駆動する物語は無数の可能性を内包しているため、文章は伸びに伸びて、いつまで経っても終わらない。本気で言ってる?」

 わたしの困惑をよそに、彼女は一方的に話し続けている。声から位置を探ろうにも、右隣にいるような、はたまた真後ろにいるような、はたまたずっと遠くにいるような、耳を澄ますほどに違う印象を受けてますます混乱してしまう。

「確かにランダムな文字列には無数の可能性があるし、外部からの介入なしに文字列の伸長は止まらない。でも物語はどう?」

「どうも何も、なんなの。これ」

「ランダムな状態が混在して併存している、あるいは一切存在していない。そんなものは物語じゃないよ。誰かが手綱を握らないと、君がわたしの手を握っていてくれないと、物語はすぐに砕けて空中分解してしまう」

 混乱しながらもわたしの脳は冷静に彼女の話を受け止めて分析していたみたいで、彼女が語り終えてから一拍置いてからようやく、これが何の話だったのか理解できた。もう一拍おいてから浮かんできたものは怒りだった。

「でも、でもでも、それだったら説明が付かない……!」

「何の」

 とぼけたような声に、わたしはほとんど怒鳴るようにして返す。

「わたしの書いたものは、いつだって、わたしの思い通りにならない! 物語は、あなたは、いつもわたしを裏切ってないがしろにする!」

「そんなことないよ」

「ないことない!」

「君の思い通りにならないんじゃなくて、それは、それこそが、君の真に書きたかった物語なんだよ」

 わたしは何度かまばたきをして、それから、もう一回まばたきをして。言い返そうと思って、何も言えない。

「君はma=F-Kなんて式を立てたけど、本当の式はma=Kだよ。だって、物語を物語るという行為において、目的語の『物語』は主語になりえない。君がわたしの手を取って、文字を打ち込んでカーソルを右に動かして初めて物語が開始するんだよ。君が書きたいことを書いている時はKは正になって物語はどんどん膨らむ。でも君は、やれ現実的じゃないだの、やれオチがないだの、色んな難癖をつけて。Kは負になって、結局物語は萎んじゃう。自分で書いてなかった? あれこれと要請すべきではない、って」

「それは、そうだけど」

 うつむいたわたしの肩に手をまわして、彼女は「君は自分自身にあれこれ要請すべきじゃない」と優しい声で囁いた。

「本当に、良いと思う?」

 わたしの声は震えている。

「もちろん」

 それでもわたしは立ち上がる。何も無かった空間はもう「何も無かった空間」ではなく、風が吹いて、木の葉が微かに揺れて音を立てる。

「手、握っててくれる?」

 彼女は悪戯っぽい声で「そっちこそ。今度こそわたしの手を離さないでね」と笑って、わたしの手を強く握り返した。

 そして。

「明転」

 世界は一瞬にして色を取り戻し、わたしたちは真昼の花畑に立っている。北に輝く恒星は真珠色の光を投げかけて、鳥たちの鳴き声は共鳴して複雑な旋律を作り出す。わたしたちは顔を見合わせて、それから、どちらからともなく走り出した。

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「物語」物語 柑橘 @sudachi_1106

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