はなさないでほしいだけ

出雲井 碧生

第1話

 三月の夕暮れ、古びたアパートの狭いベランダ、慣れてしまったはずの煙草の匂いが、その日は嫌に鼻についた。


 始めてもう二年にもなる同棲生活、匂いがつくからベランダに出たときは窓を開け放したままにするのはやめて、と私は彼女に何度言ったのか、もはや分からない。


 私はそろそろ諦めの境地に達してしまうところだ。ため息をつきながらお揃いで買ったサンダルをひっかけて私もベランダに出る。


 建て付けの悪い窓をなんとか閉めて、彼女の隣で柵に少しもたれかかる。

 

 夕焼けに染まった路地をぼんやり眺めていたら、ぽつりと本音が零れ落ちた。


「……ねえ、紗凪さな。あの子とはもう話さないでほしいの。私、これ以上耐えられそうにないよ」


 あの子、というのは紗凪のバイト先の後輩のことだ。とても愛嬌があって誰にでも可愛がられるような子。


 それだけならよかったのに。


 あの子は紗凪には私という恋人がいることを知っておきながら、テーマパークに誘ったりボディタッチをしたりとアプローチを仕掛けている。


 紗凪は気にしすぎだと言うけれど、私にはそうは思えない。恋をしている人間は表情を見れば分かる。それに、視線が合うと敵意を向けられたように感じる。


「そんなこと言われてもさあ、バ先同じなんだから、仕方なくない?」


 紗凪は煙を燻らせながら、曖昧に話を終わらせようとする。


「私、あの子のこと嫌い! 大切な紗凪を取られそうで怖いの!」

 

 つい、苛立って言ってしまった。言うつもりは無かったのに。後悔が、波のように押し寄せる。


 他人のことを嫌いと言ってしまった。嫌われてしまう、と思った。


「へえー? 葉奈はなってそういうこと思ってくれてたんだ。結構意外かも」


 なのに、聞こえてきたのはなぜか面白がっているような、楽しんでいるような声だった。


「ごめんね。来月からはシフトを変えてあの子とはもう話さないようにするよ。それで無理ならバイト先を変えようかな」

 

「え? 本当に?」


 私はびっくりして思わず聞いてしまった。


「うん。実を言うと、私もあの子には少し辟易してたんだ。答えたくないプライベートな質問をしつこくされたりして困ってたんだよね」


「そう、なんだ……」


 嫌われると思ったのに、醜い我儘まできいてもらえるなんて、急な展開すぎてついていけない。


「葉奈の本当の気持ちが知れて嬉しいな」


 その言葉を聞いて、ハッとした。私は紗凪のことが大好きで、独占欲もあるし、嫉妬もする。なのに、嫌われるかもしれないと思って言えなかった。相手を不安にさせてたのは私も同じだったのかも。


「ねえ、紗凪」


「どうしたの?」


「大好きだよ、愛してる。だから、これからもずっと、私と一緒にいてくれる?」


「なに言ってんの。もちろんだよ」


 日も落ちるから部屋に入ろうということになって、紗凪が窓を開けようとしたけれど、なかなか開かなかった。やっとのことで、窓を開けて部屋に入ると室内は外よりほんのり暖かかった。


「てか、ここめっちゃ窓の開け閉めしにくくない? そろそろ契約切れるし、引っ越そうか」


 私が部屋の暖房を入れていると、窓を閉め直した紗凪が提案を出してきた。


「そうだね。そうしよっか」


 そう言ってふたりで顔を見合わせて笑いあっていると、これからどんなことがあっても何も怖くないような気がした。

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