第18話 人類としての基礎知識

「でも橋枝ちゃんはどうすんの」

「放っておけばいいんじゃない。あんなうすのろ、現実に戻ってもろくなことしねえよ」

「ううんまあそれはそれとしてとりあえずこの空間の出口を探してみようか。海と砂浜以外になにもない空間にずっといつづけるわけにもいかないんだし」

「でもどっちの方向に行けばいいわけ?」

「たぶんどっちの方向でもおなじようなもんだよ」

 ふたりはてくてくと浜辺を歩いていった。しかしどこまで歩いても海と砂浜がつづくばかりであった。どれだけ時間がたったかもわからない。太陽は釘でうたれたようにおなじ位置に停まったまま、ぴくりとも動かなかった。

「この世界、あのバカがつくりだしたって言ったよな?」

 渚さんが歩きながら言った。

「うんおそらく」

「自然法則の原理とか、まるっきり無視してんじゃね。このままどこまで行ってもおなじ風景なんじゃないかって気がしてきたんだけど」

「ええとつまり橋枝ちゃんのつくりだしたこの世界が無限であるかもしれないってこと?」

「うん」

 その可能性はある。橋枝君の頭にそういう人類としての基礎知識がきちんとインストールされているかどうかきわめて疑わしい。一級建築士や司法書士などとおなじように神さまにもちゃんと資格がいるのねえと松永はつくづく思う。そうでなければ、迷える子羊たちは一見するとアナーキーでファンキーなように見える世界の混沌を紐解くヒントすらあたえられず、ただただ混乱するばかりってことになる。

 しかし橋枝君がつくりだしたこの世界とはまたパラレルに存在する仮想空間もどこかに同時に存在しているはずなわけで。このまま歩いていけばそこにたどりつけるはずなのである。すくなくとも理論上はそうなる。だけど、と松永は懸念を抱く。もしこの空間が環状になっているとしたらどうなるんだろか、と。

 実際の宇宙はそうなっている可能性があるらしい。遥か昔に無の空間の一点から弩級の爆発が起こったという説がほんとうなら、衝撃が八方に飛散していったことを考えると、宇宙はほぼ円形に広がっている。つまり宇宙は丸いわけだ。そして宇宙と同様に、この空間自体は有限であっても、環状になっていたとしたらそもそも出口が存在しないことになる。空間の端に行けたとしても、ただ空間を一週しただけのことになってしまう。

 おそらく橋枝君の頭に宇宙は丸いという知識はないはずだ。しかしここは地球である。さすがに橋枝君だって地球が平べったいとは思ってはいないだろう。まさかねえ。松永はそう思うが、地球は丸い、という知識はあっても、単なる認識に過ぎず、想念のなかに染みこむまでそうした知識が血肉化されていない可能性ならおおいにありうる。

 松永はその可能性に賭けてみることにする。問題は松永の本体が生きているうちにそこにたどりつけるかどうかである。どこまで歩いても澄みきった海と乾いた砂だけの風景がつづいていた。

 

 

 後ろから車の走行音が近づいてくる。松永も渚さんもその音のことを、言葉にせずともふたりとも幻聴だろうと思っていた。

 車は松永と渚さんの脇にぴたっと止まり、ふたりは顔を見あわせて、同時に首を横に振った。窓が静かにさがり、松永には見おぼえのある顔がひょっこり覗いた。

「塩田さん?」

「よくおぼえておいでで。お客さまとはその場かぎりのお付きあい、一期一会の縁ながら、顔のみならず、名前までおぼえていてくださったとは、この塩田め、実に光栄のかぎりでございます」

「またどうしてここに?」

「お客さまがたを乗せたあと、しばらくしてからおなじ番号から連絡がございまして、またデスパートのビルに戻ったのでございます。するとビルの中に入れというご指示。うら若き乙女であれば拒むのでしょうが、この塩田め、襲われたところでいまさら守るべき貞節もございません。私はビルに入り、エレベーターに乗って指定された階に行きました。エレベーターのドアが開いたとたん、男たちに取りかこまれ、薬品くさい布を鼻にあてがわれ気を失ってしまいました」

 役員連中はクロロホルムまで常備していたのね、といささか松永はたじろいだ。

「気がつくと、この塩田めはこんな世界におりました。たぶんこれが冥土の世界ってやつなのでしょう。かねがね噂には聞いておりましたが、こんなへんてこな世界だったとは。さっきまで人っ子ひとりいない町中にいたかと思っていたら、いつのまにやらこんな浜辺に来ているのですから」

 松永はただただ純粋に塩田さんにこの状況を詳しく説明するだけの元気がなかった。

「この塩田めはやつらめに殺されてしまったのでしょう。タクシー強盗というのはよく聞く話で、そのような話をテレビやラジオで耳にすれば、たとえ北の大地の同業者であろうと、南の島の同業者であろうと、身内の不幸があったようにその日は一日、喪に服す気持ちで過ごすことにしております」

 もちろんデスパートの役員連中はタクシー強盗をするほど小銭に困ってはいない。おそらく橋枝君なり松永の行動ルートを曖昧なものにするために、もう一度塩田さんを呼びだしてこの世界に放りこんだのだ。しかしタクシー会社には橋枝君のスマホのアプリからの履歴が残っているはずで、むしろそっちのほうから足がつきそうなもの。後先をあまり考えない、その場しのぎの行き当たりばったりなのは相変わらずなわけである。弁護士に相談できないような案件ではとくにその傾向がつよく出てくる。いつものように僕ちんに相談してくれよなあと松永は思ったが、よく考えれば自分が被害者なのである。

「この塩田めは天国に行ったのでありましょうか、地獄に堕ちたのでありましょうか。あるいは存在するとしたらその中間地点みたいなものなのでありましょうか」

「塩田さんは地獄には堕ちませんよ」

 お客さんを目的地に運ぶために人生を捧げてきた人間を地獄に落とすような神さまなんていたら、松永はぶん殴ってやりたいぐらいである。

「それはわかりませんぞ。この塩田めは仕事のために排気ガスを大量に排出してしまいました。この職に就いた十八の年端では知らなかったこととはいえ、ある時点でそれを知ってからも、人類にとっては取り返しのつかないことをしつづけてしまったのです。排気ガスはオゾン層を破壊して地球を住みにくくします。その罪のために地獄に落とされても文句は言えません」

 地獄に落ちないのはこういう人たちなのだろうなと松永はつくづく思うのである。

「渚ちゃん僕と橋枝君をデスパートまで運んでくれたタクシーの運転手さんだよ」

「よろしく」

 渚さんのいくぶんラフな挨拶にもかかわらず、塩田さんは深々と頭をさげた。

「そのタクシーはどうしたんですか」

「はい。お恥ずかしいことですが、異空間をさまよいはじめてから、この塩田めはただただタクシーが恋しかったのです。タクシーのことばかり考えておりました。すると不思議なことにこのタクシーがどこからか現れたんでございます」

 松永と渚さんは顔を見あわせる。松永が済まなさそうな声で言う。

「すみませんが乗せてもらっちゃったりすることってできます?」

 そのひとことで、塩田さんの表情が輝いた。

「願ったり叶ったりでございます」

 

 

 しかしかなりスピードを出して突っ走ってもらっても、風景に変化はなかった。渚さんが苛立たしそうに叫ぶ。

「あのバカ、こういう終わりのない場所がほんとにあるって思ってんじゃない」

 思ってもらってても結構、と松永は心のなかで思う。現実の宇宙でさえも有限なのである。これは橋枝君の妄念がどうこうという問題ではなく、あくまでロジカルな構造の問題であり、環状でないかぎりは、この空間のどこかにかならず世界の切れ目があるはずなのだ。

 ようやく変化が表れた。何十メートルかさきの砂浜が唐突に切れている。海の果ては滝となっていた。その向こうの景色はなにもない真っ暗な空間である。まるで地球がまっ平らであると信じていた大昔の人々が想像していた世界そのままである。これは橋枝君の知識の限界なのだろうか、それともコンピューターの演算能力の限界なのだろうか。よくわからないところがある。

 松永が身を乗りだして塩田さんに言った。

「頼みづらいんですがこのまま進んでもらえませんか?」

 塩田さんはバックミラー越しに松永に向かって鋭い眼光を投げる。それから断崖の向こうをまっすぐ睨みながら言った。

「この世界にはこの塩田めをのぞけば、おふたりしか存在していないのですか」

 橋枝君のことを話しだすとながくなりそうなので松永は適当に答えることにした。

「そうなるかな」

「おふたがたが心中するのであれば、もうこの世の中にお客さまは存在しなくなると」

「まあそういうことになりますね」

「そうですか……」

塩田さんはそう言って黙りこんだあと、しばらくしてからふたたび口を開いた。

「タクシーはお客さまを乗せてはじめてタクシーとして機能します。お客さまをお乗せしなければ、これはただの車に過ぎません。そしてこの塩田めはそこらにいる単なる車好きではないのです。きつい言い方になるのですが、いっしょにされては困るのです。彼らはただの道楽で車に乗っているだけなのですから。この塩田めは文字どおり人生を賭してハンドルを握ってまいりました。以前にも申しあげましたとおり、タクシーこそがわが人生なのであります」

 松永は真剣に頷いた。渚さんも真顔で頷いた。

「わかりました。この塩田め、これまでの四十年間、無事故無違反でお客さまを目的地まで運んでまいりましたが、このような特殊な状況をも鑑みまして、お客さまのご命名とあらば話はまたべつ。喜んで奈落の底までお供いたします。タクシーなければ脱け殻のこの身体この人生、惜しみなく御天道様にお捧げいたしましょう」

「そうこなくっちゃ。おやっさん、男だね」

 渚さんにそう言われて、塩田さんは照れくさそうに笑った。

「参りますよ」

 松永と渚さんは前の座席を掴んだ。塩田さんはアクセルを全開にした。車は崖からまっ逆さまに落ちる。予想していたことだが、崖の底にもなにもない。真っ暗やみだ。橋枝君のスケールの小さな妄想世界はそこまでカバーしない。

 この仮想空間ではなにもない空間は存在しないことになっている。なにもない空間というのは科学的にも数学的にも哲学的にもなにもない空間なのである。そこに足を踏み入れることは理論上不可能だ。しかし現実とおなじように絶対的な物理法則が働くようプログラミングされているので、重量物による速度の加算をも考慮にいれれば、車は確実になにもない空間に突入するはず。文字どおりのプログラミングの落とし穴。なにもない空間に入ることで、ふたたび盛大なバグが引きおこされることを期待したのだ。

 そして車はなにもない空間に突入した。 

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