第19話 なにもない空間
車が消えた。なにもない空間。重力さえない。真っ暗やみだが、不思議と三人の姿はたがいにはっきり見えた。塩田さんは、宇宙遊泳中に宇宙服を脱いだ飛行士のようにくるくると舞って、弾きとばされて見えなくなってしまった。渚さんと松永もくるくると回転する。渚さんが回転しながら、タイミングを見はからっておなじように回転する松永の手を掴んだ。
おなじ方向に回転してはいるものの、それぞれ異なる速度で回転しているので手が離れそうになる。だが渚さんはもう片方の手で松永の服の端っこを掴んでから松永の背中を何度か蹴る。そうすることで、ずれていたふたりの回転が徐々に同期する。
回転が速度を増してくる。息もできないくらいだった。松永がさきに気を失った。渚さんは意識が遠のきながらも手をつよく握る。やっと見つけたのである。そう簡単に手を離すことはできない。だがやがて渚さんも意識を失った。
気がつくと松永と渚さんは手をつないだまま砂利道に寝ころがっていた。風景もなにもない。真っ白だ。砂利道だけがどこまでもつづいていた。
世界が刷毛で塗るように少しずつ描写される。できあがったのはのどかな田園風景。山にかこまれ、木でできた昔ながらの電柱が立ちならび、大小さまざまな畑があり、ぽつぽつと民家があった。そこは松永の生まれ育った町だった。役員連中と出会う前の平和な世界。あの頃はたしかに平和だった。楽園みたいに。人間というのは比較してしか楽園を素直に享受できないのだなと松永はあらためて思う。考えてみれば自分は楽園を飛びだして大学に行ったわけである。
「ここはどこ?」
渚さんが訊ねる。松永は深呼吸をしてから言った。
「僕の生まれた場所だよ」
「どうやってここに来れたわけ」
「来れたんじゃないのよ。いまここでつくったの。橋枝君の支配のおよばない場所まで行って僕は世界を再構築したんだ」
渚さんは寝ころんだまま、あたりを見まわした。
「素敵なとこじゃない」
「いいとこだよ。なつかしい……この場所では憎しみや敵意も観念上のものでしかなかったな」
渚さんは松永の言ったことを頭のなかで丹念に噛みくだいた。
「それってちっちゃい頃の話でしょ」
「十八までしか住んでなかったからまあそうなんだけど」
「大人たちのあいだで飛びかっている憎しみや敵意なんて、子供の目にははっきり見えなかったってだけじゃない」
松永は渚さんの目をじっと見る。水晶のように澄んだ瞳。たぶん渚さんの言うとおりなのだろう。人間というのは誰しも平凡な生き物だから、ある一定の区画の居住者の数が多かろうが少なかろうが似たようなことを考えるものなのだ。
「ねえ……ここでふたりで暮らそうよ」
渚さんが囁くように言った。
寂しいんだろうなと松永は思う。考えてみれば自分と橋枝君と塩田さんがこの世界から脱出できたら渚さんはまたひとり取り残されるわけで。生身の人間とおなじ感情を持っているのだから、寂しいのはとうぜんといえばとうぜんだ。
しかしこの空間をずっと維持できるだろうか。松永がようやくこの手のなかに取り戻した楽園を、役員連中は放っておいてくれるだろうか。データで構築された存在に過ぎないとはいえ、自分の妹と松永だけが暮らす世界をあの兄貴はどうとらえるだろう。もっともあの兄貴にかぎらず、役員たちはおバカでクールでリアリスティックな性格の連中なので、そこまで考えないのかもしれないが。
もちろんやがて松永には死が訪れる。ヴァーチャルではないほんものの死。松永の本体の生命が尽きたときがそのときだ。といっても主観的な時間が現実のそれと比べてかなり引き延ばされているから、この世界ではまだとうぶんのあいだ生きつづけることができる。
かたやデータで構築された渚さんは永遠に死なない。その頃にはおそらく、パラレルな仮想空間にもうひとり新たな渚さんがつくりだされているだろうが、そこに送り返してもいいかもしれない。バグの根本的な原因がこの渚さんではないことは役員連中ももうわかっただろうし、事業が軌道にのれば、どのみちコンパニオンひとりではまわせなくなるのだから、あえてこの個体の渚さんを抹消することはしないだろう。
太陽の光が手をつないだまま砂利道に寝ころがっているふたりを暖かく照らしていた。子供の頃よくこんな風に道に寝ころがっていたっけ、と松永は思い出す。なんせめったに車が通らないので、そんなことさえ可能だったのだ。万がいち通りかかっても運転手が短くクラクションを鳴らして教えてくれたものである。太陽の光はあの頃とおなじくらい暖かい。というよりも松永は太陽の光の暖かささえ忘れていたのだった。
ここにいたっていいかもと松永は考える。両親はとっくに死んでしまっているし、兄弟もおらず、友だちもいない。誰かに必要とされるなんて僕ちんの人生ではたぶん二度と起こらないだろうし。その誰かがデータで構築された女の子であろうと松永にはあまり関係ない。たまには人の役に立ってみてもバチはあたらないだろう。それに……この世界にはこの世界なりの痛みがきっとあるはず。自分に用意された、うってつけの痛みが。痛みは神。神は痛み。松永は松永なりのやりかたで昔から神の存在を信じていたことになるわけである。
「んまあそういうことをきめる前に橋枝ちゃんと塩田さんをもとの世界に戻さないと」
「できるの?」
「うんまあこの空間は僕のものだから。僕の望むようにできるはず」
松永はその方法を考えてみる。渚さんがつくりだした以上のバグを橋枝君と塩田さんが起こしているように見せかけて、役員連中に橋枝君と塩田さんの意識を切ってもらうというのはどうだろう。優秀なエンジニアたちをパニックに陥れるくらいの、このうえなく盛大なバグを引きおこすのだ。役員連中はエンジニアたちに促されて、デスパートの社運を賭けた一大プロジェクトと天秤にかけ、渋々ながらも橋枝君と塩田さんが眠っている装置の電源を落とさざるえないのではないだろうか。
「なんだかあんただったらできそうね。かしこそうな顔してるもん」
「そんなことはじめて言われた」
「ねえ、あんた、ほんとうの名前はなんていうの?」
松永は考えこむ。使いなれた名前なんてもう必要ないような気がするのである。
「名前ねえ。いまとなってはそんなもの最初からなかったような気がするんだけどね」
自分のつくりだした世界で、名前すら捨ててゼロからはじめてみるのもわるくはない。
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