第17話 あんただけはまともに
空を裸足の少女が歩いている。五歳くらいのやたら髪のながい女の子。白いワンピースを着て、蒼い空を背景に、雲のうえをまるで地面でも歩くように跳びはねている。
整った顔立ち。どこかで遇ったような気がする。松永は目を凝らした。少女が歩くたびに水が跳ねる。そうか。浅瀬なんだね。澄みきった海が透明なガラスのように晴れわたった空を反射して、天地を境界線なく見せているだけだ。
松永は浜辺で横向きに倒れていた。少女が松永のほうにまっすぐ歩いてくる。松永は身体を起こそうとするが、全身が棒のように硬直して、まったく起きあがれない。
「ねえ、あたしのおにいちゃんしらない?」
「お兄ちゃん?」
「そう、あたしのおにいちゃん。だいすきなおにいちゃん。でもとてもおこりんぼうで、たまにあたしをゲンコツでたたくの」
「どんなときに?」
「キゲンがわるいとき」
「なぜ機嫌がわるくなるの」
「ママにしかられるとキゲンがわるくなる」
「ふうん。なんでママに叱られるの」
「だっていたずらばっかするんだもん。そりゃママもおこるよ」
「ママは君のことは叱らない?」
「しかられたことない。あたし、いいこだもん」
「お兄ちゃんと違って?」
「うん。だってママのくちぐせなんだもん、あんただけはまともにそだってちょうだいねって。いつもいうんだよ」
松永はにっこり微笑んだ。
「お兄ちゃんの特徴を教えてくれないかな」
「とくちょう?」
「なにか得意なことはないかな」
「そうね……おにいちゃんはおよぐのがじょうずなの。すっごくじょうずなんだよ。あたしももうちょっとおおきくなったら、おにいちゃんとおなじスイミングスクールにいかせてもらうんだ」
やっぱこの子は渚ちゃんなのね。兄貴というか役員連中はみな水泳の推薦枠で大学に入ってきたんだった。彼らは全員ハデに水しぶきを青春の彼方にとばした輝かしきウォーターボーイズのなれの果て。同情の余地もない自己チューの集まりとはいえ、松永はそのことを考えると、妙に胸が苦しくなってくる。役員連中もあどけない表情で水と無邪気に戯れていた時期もあったのだ。
少女はワンピースに砂がつくのもかまわずにうつ伏せの姿勢になり、松永の顔を見据えたまま、両手を顎に添えて足をばたつかせる。そしていきなり大声をあげた。
「ざけんなっつうの」
至近距離で大声を出され、松永はのけぞった。少女は楽しそうににたにた笑いながら言う。
「ねえ。これってどっかのアニメで観たようなシーンじゃない? 具体的な例はパッと出てこないんだけど、なんか既視感あるっつうか手垢にまみれた感じなんだよね」
そう言われても松永はアニメに詳しくないので、なんとも言いようがない。
「あのさこれ渚ちゃんの妄想の反映じゃないの?」
「違う。あたしこういう種類の偏執狂的なアニメって、昔から好きになれないの。根っからのオタクが、根っからのオタクにだけ発信しているような、自己完結したアニメが」
「てことはこれ橋枝ちゃんの妄想なんだろか。橋枝ちゃんはどうなったかわかる?」
少女の渚さんは肩をすくめた。
「あのボンクラのことだから、たぶんまだ頭を復元できないまま、この世界のどっかをさまよってんじゃね」
それはこの仮想空間の内側にある世界なのだろうか、それとも渚さんの頭部が溶けてしまったときに意識が閉じこめられていたという数字のならんでいる世界なのだろうか。
「渚ちゃん頭が溶けちゃったときどんな感じだったかおぼえてる?」
「やなこと思い出させんなよ。あんときにあたし人間じゃないってわかったんだから」
「気持ちはわかるんだけど」
「でもなんかこの世界と一体化するような感覚があったな。こんがり焼けたトーストにのせたバターの塊が溶けていくみたいな感じ? 自分がそのまんまなくなってしまいそうになるような。そうなる前に頭を復元できたからよかったけど」
ということはやはり橋枝君の意識もバターの塊が溶けるようにビットワールドと一体化してしまったのだろうか。もしかしたら手遅れなのかもしれないと松永は思う。
だがこんな風にして意識を具現化できるのであれば、それはまさにいわゆるひとつの神みたいなものだ。橋枝君はこの仮想現実と一体化して、ヴァーチャルな神に昇華した可能性がある。 参ったなと松永は思った。役員連中もそうだが、彼らとはまったく対照的であるような橋枝君は橋枝君で、神になられたら困る人物だ。
もちろん橋枝君が仮想空間の神になったところで、現実の世界に戻ってしまえばまた平均的な一般市民にめでたく降格である。過度に心配する必要もない。とはいえそれはあくまで役員連中の思惑しだいだ。
「あんたさ、これからどうするつもりなの」
渚さんが訊いてくる。しかし少女の渚さんにこんな風に問われると調子がくるって仕方がない。
「渚ちゃん自分の力で大人の姿に戻れないかな」
「わかんね。また念じてみればいいわけ?」
松永は頷いた。渚さんは顔をくしゃくしゃにして、あっかんべえした。すると狐が化けるように少女の渚さんが大人の渚さんの姿に戻った。
「自分の力でもとの姿に戻れるってことは橋枝ちゃんの支配が絶対的ってわけでもないんだよねえ」
「これからどうすんの」
渚さんはワンピースについた砂を払い落としながら立ちあがった。
「どうするもなにも身体が起きあがらないのよ」
「痛いのか?」
「現実の世界だったら死んでるような痛さだからね。逆に痛みなんか感じないのよ。でも身体は動かない。渚ちゃんもおなじはずなんだけどね」
「いや。あたしはまったくなんともないんだけど」
データで構築された渚さんには限度を超えた痛みは感じないように設定されているのかもしれない。それともこの空間の暫定的な神となった橋枝君の手心が渚さんにだけ加えられたのだろうか。いやそりゃないよ橋枝ちゃん、と松永は思う。
「念じてみたか?」
「うん。念じたけどムリだった」
「じゃああたしが念じてやるよ」
「渚ちゃんが念じてもたぶん……」
とたんに松永は自由に身体が動かせるようになった。上半身を起こして、両手を広げたり閉じたりしてみる。こうなってみると、自分と渚さんがもつれあうようにして高層ビルの屋上から落ちていったのが、まるで夢のなかの出来事だったような気もしてくる。
しかし身体が動かせるようになったところで、どこに行くあてもないのだ。松永はそのまま浜辺に座りこんだ。渚さんも隣りに腰をおろす。
「さっきの話だけど、あんたこれからどうするつもりなわけ?」
「どうするんだろね。ぜんぜん見当もつかないよ」
「だったらさ、ここで暮らせばいいんじゃない?」
松永は渚さんの横顔を見る。綺麗な横顔だった。世の中にはほんのわずかだが、正面からみる顔も横からみる顔も抜群に整っているタイプの女性たちがいる。渚さんはそのタイプなのだろう。松永はいまのいままでそのことに気づかなかった。
「現実にあるものはなんだってここにはあんだからさ」
痛みがないよ、と松永は心のなかで呟く。結局は痛みこそが松永にとっての現実なのである。痛みこそが松永の人生を支配してきたのだ。そうか。痛みこそが僕ちんにとっての神だったのね。神は私たちの痛みをはかる概念。なんて誰かが唄っていたっけ。夢を見ているときにどんな目にあっても痛みを感じないのとおなじように、この仮想空間には手ごたえのある痛みがない。だからこれはほんとうの人生ではない。
もちろん松永だって痛いのは嫌だ。頭のなかで事前に予想される痛みでさえ嫌だ。ただ、松永はその痛みに愛着がある。ややこしい男である。その痛みとずっと付きあってきたのだから、痛みこそがわが人生、なのである。
しかしその痛みを捨てることこそがいわゆるひとつの人生のつぎの展開でもある。松永はそれを思う。子供の頃から舐めつづけているキャンディがなくなるときが、人生の終わるときだなんて、松永だってまっぴらごめんなわけである。そのつぎの展開はまた違う種類の痛みを背負うことになるのだろうが、それはまたべつの話だ。
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