第16話 気合い十分な轟音

「なんで渚ちゃんを襲うのよ」

 松永が叫んだ。渚さんは女子高生ふたりの残したライトセーバーを拾って、地獄の猟犬たちと戦う。あくまで運動神経に手が加えられていないとすると、渚さんの戦闘能力というのは実にアッパレものである。桃太郎侍のようにバッタバッタと猟犬どもをなぎ倒した。それでも一匹が渚さんの脇腹に食らいつき、肉が食いちぎられた。

 渚さんはすぐに脇腹の肉を復元させたが、その直後、立ちくらみでも起こしたように足もとをふらつかせる。隙をついて他の猟犬が渚さんの肩を食いちぎった。すぐさま肩の肉を復元させたが、渚さんはまた足もとがふらついてしまう。

「なんか、こいつらに噛まれると頭がぼうっとしてくんだけど」

「痛くて?」

「そんなんじゃねえよ」

 松永が橋枝君の顔を見る。

「いや、俺もわからないっす」

 心がかじられている。犬がもっとも匂いに敏感になるのは餌だ。つまり魂こそが猟犬どもの餌なのである。肉体を食いつくせば魂も消えるわけだから、渚さんの頭がぼうっとしてくるのも、いちおうは理に適っている。

 しかし橋枝君はそれを口にださない。こんなフェイクな渚さんなど、魂ともども消えさってしまえばいいと思っているのである。渚さんは意識が朦朧として、とびついてくる地獄の猟犬をかわすだけで手いっぱいになってしまった。苛立たしそうに叫ぶ。

「こいつら魂の匂いに引き寄せられてるはずなのに、なんであたしばっかり襲ってきやがんのよ」

 ピュアなアホふたりにはもちろんその理由がわかっている。渚さんが反社勢力の側についているからだ。すくなくとも理論上はそうなってしまう。だがそうは言っても、地獄の猟犬たちの産みの親は、渚さんなわけである。地獄の猟犬たちが渚さんに襲いかかるのは、どうも腑におちない。この仮想空間ではそうした理屈が通用しないのだろうか。それこそ機械的に善悪を区別して、渚さんを単純に悪と見なしているのかもしれない。

 松永はもう一本のライトセーバーを拾い、気持ちわるい裏声をがなりながら、地獄の猟犬に向かっていった。だがプロのボクサーが格下の相手をするような感じで、猟犬たちに後足で蹴られるだけでまるで相手さえしてもらえない。そもそも、松永がこの状況の渚さんを救うことができるようなタイプだったら、役員連中とはとっくに縁が切れてるわけで。いやそもそも役員連中に目をつけられることもなかっただろうし、この仮想空間に放りこまれることもなかったはずである。松永は自分にとっては猫に小判でしかなかったライトセーバーを投げだして考える。

 すくなくともこの状況では、理紗と亜梪美は渚さんを抹消するために送りこまれた刺客であるはずだから、彼女たちを食いつくした猟犬たちが、役員連中のつくりだしたものではないと判断するのが妥当である。

 そもそも猟犬たちは渚さんのつくりだした概念である。もし渚さんの想念のようなものがさきほどのバグによって、この空間とつながったままになっていると考えたらどうだろう。そうだとすれば処理できるのも渚さんしだいなのではないかと松永は思うわけである。

「渚ちゃんの想像の産物なんだからどうにかできないの」

「想像の産物ってなんだよ」

「地獄の猟犬って渚ちゃんがつくりだしたものじゃないの」

「そうだけどさ、あたしが子供の頃から頭に思いえがいてたのと、ぜんぜん違うのよ、犬の種類が」

 松永は雷にうたれたような気持ちで橋枝君を見る。役員連中のデータの具現化は徹底している。デスパートの社運を賭ける一大プロジェクトなわけだから、この空間自体はもとより、渚さんだってこのとおり、現実の渚さんを忠実に再現している。地獄の猟犬なるものを具現化するなら、渚さんから犬の種類くらい聞くはずである。兄妹で頭に思いえがいていた犬の種類が違うだけというオチだって考えうるが、松永からすれば、祖母から聞いた遠い記憶にあるおとぎばなし、しかも「地獄の猟犬」なるきわめて宗教色の濃い概念が、グレーな犯罪に手を染めている兄貴の脳裏に、いまなお残っているのかという疑念を抱くのである。わざわざ兄貴が(それなりの手間をかけて)この空間に埋めこんだものではないような気がするのだ。だからやはり地獄の猟犬たちは役員連中の創作物ではない。

 てっきり渚さんの概念の具現物かと思っていたが、地獄の猟犬をつくりだしたのは実は橋枝君だったのだ。橋枝君がこの世界の「間違った」渚さんを抹殺するために、地獄の猟犬をこの世界につくりだしたのだ。

橋枝君はやはりこの世界の渚さんをデータの寄せあつめでしかとらえていない。その根源にあるものはやはり純粋さである。この渚さんはなんたって「間違った」渚さんなのだから。恐るべき、残酷なピュアネス。しかしおそらく橋枝君には自らが地獄の猟犬たちをつくりだしているという意識はないのだろう。松永はそう思いたい。そして松永の読みがあたっているのなら、モニターの前で役員連中とエンジニアたちは、さぞ首をひねっているのではないだろうか。

 渚さんは身体のあちこちを食いちぎられて朦朧としていた。そのあいだにも地獄の猟犬たちは渚さんの身体に食らいつく。このままでは渚さんが理紗と亜梪美のように食いつくされるのは時間の問題である。

 理紗と亜梪美には感情はなかったはずである。すくなくともこの渚さんのように生身の人間の詳細なデータは打ちこまれてはいないはずだ。この渚さんのような生身の人間に近い存在に仕たてあげるにはかなり詳細なデータが必要なわけで、理紗と亜梪美に課されたもともとの役割を考えると、そこまで手間ひまをかけられた存在ではないだろう。見ためだけ人間の皮をまとったロボットと考えていい。

 しかしこの渚さんはほぼ生身の人間なのである。手間ひまをかけて仕たてられたほんものまがいのアバターなのである。無限のスペアがストックされているせいで、個体が軽んじられているに過ぎないのだ。ディテールの再現にこだわったせいで、中身は人間とほとんどおなじ。この渚さんを見ごろしにするのは生身の渚さんを見ごろしにするのとおなじことなのだ。役員連中に虐げられつづけてきたために、人類屈指のピュアネスを堅持することとなった松永には、渚さんをさらさら見すてる気にはなれなかった。それがたとえ長年自分を虐げつづけてきた役員の妹であろうとも。

 そもそもなぜ橋枝君が地獄の猟犬たちをつくりだせたのか。地獄の猟犬というのは渚さんから聞いたイメージに過ぎないはずである。とはいえ、橋枝君は猟犬たちを意図してつくりだした感じでもない。データで構築された渚さんを抹消したいという願望が、橋枝君の潜在意識とむすびついて、地獄の猟犬たちが具現化したのだろうか。ほんものの橋枝君は眠らされているのだから、表層意識も潜在意識もまるでチャンポン状態のはずなのでなのある。そして現実で装置のなかで眠らされている橋枝君のごった煮の想念が、データとして送られる際に、仮想空間を構築するプログラムと絡みついたのだ、と。松永はそう結論つけざる得なかった。

さっきの大規模なバグがこういう事態を招いてしまったと考えるのがやはり妥当なのだろう。すくなくとも松永がプロジェクトにかかわっていた際には、この手の事態はまったく起こらなかった。誰も渚さんをわざわざ混乱に陥らせたことがなかったからである。

そしてその渚さんと紐づいていた部分によって引きおこされたバグは、仮想空間そのものを制御しているプログラム自体にダメージをあたえ、さらなるバグをも引きおこした結果、橋枝君の想念と絡みついてしまった、と。仮想空間に放りこまれた、いわばカスタマー的立場に過ぎない橋枝君も、客観的にみれば渚さん同様に、仮想空間のプログラミング本体から切りはなされたオプションみたいな立ち位置に過ぎないのだから、おそらくその逆パターン、つまり橋枝君の想念がプログラム自体に絡みついたわけではない。……もしこれがほんとうにそうなのだったとしたら、この仮想空間にはバグどころではない、プログラミング上の脆弱な欠陥があったわけだ。

 そう考えると、たぶん「地獄の猟犬」が具現化されたのは、かならずしも橋枝君の潜在意識で作用したというわけではなさそうである。潜在意識が読みとられたのだとしても、よくよく考えれば、いまのところどれだけ最新鋭のコンピューターなりプログラムだろうと、人間の意識の表層部分と潜在意識を区別する能力なんかないはず。見わけがつかないのだ。つまり、橋枝君が地獄の猟犬たちをつくりだせるなら、松永もまた自分の意思によって、これに対抗する生物なり概念を生みだせるのではないかと思うわけである。

 松永はいろいろ考えてみるが、なぜかなにひとつ頭に思い浮かばない。いやそもそも松永に創造的なものをつくりだす能力なんかない。だったらこういうときに便利なあの御方、神をつくるのというのはどうだろう。なぜか現実世界で自分だけを目のかたきにしていじめつづけるあの憎いお方。だが松永は神を信じていないし、つねに神に裏ぎられつづけてきた気分で生きてきた松永としては、この期におよんでさえ、神に頼ろうとする気になんか、さらさらなれなかった。

 マンガのキャラでもいいのだろうが、子供の頃から筋金いりの活字中毒で、誰もが知っているキャラでさえ、松永の脳みその引きだしのなかにはなかった。無敵のデカルトや分裂するカントといった、歴代の哲学の巨人たちを出現させてもいいのだが、生前と死後にほんの少数の信者にだけささえられてきた亡霊とはいえ、生前になしげた偉大な業績のことを考えると、なんだか故人にもうしわけないような気がする。いやそれよりも根本的な解決策を練ったほうがいいのではないかと松永は思うのである。

 松永は自分の腕にライトセーバーをそっと押しあててみる。さほど力をこめないでも腕はストンと切りおとされた。痛みはある。ヴァーチャルな痛み。そう思うとたいしたことはない。たいしたことはないと思うと痛みも消える。松永の人生もだいたいそんな感じだった。それから松永は腕が復元するように念じた。切りおとした腕は、渚さんが復元させたようにみるみる復活する。松永はうんうん頷いた。やはりこの芸当ができるのは渚さんだけではないのだ。

「あんたなにやってんだよ、こんな状況んときに遊んでんじゃねえぞボケカス」

 ボケカスなんだろうねえと松永は思う。これでほんとうにアバターの橋枝君を殺しちゃったら洒落になんないんだもの。松永はライトセーバーをぎゅっと両手で握りしめた。きりりと引き締まった表情は、これまでの松永の人生のなかでもっともイケメンである。

「橋枝ちゃん復元するよう念じるのよ」

 松永は振りかえり、ライトセーバーを振りおろして橋枝君の首をばっさり斬った。首を斬られる瞬間の橋枝君と目があった。橋枝君が最後にみせた、ほんとうの黒幕はお前だったのか、みたいな感じの目が松永には妙に切ない。橋枝君は膝をついて崩れ落ち、頭部がごろんと地面に落ちる。たちまち地獄の猟犬たちがあとかたもなく消えさった。渚さんの全身がみるみる復元される。

「度胸あるねえ。あんたなかなかやるじゃない。でも、そいつちゃんと自分の力で頭を復元できんの?」

「たぶん」

 しかし、いくら時間がたっても橋枝君の首が復元されないので、松永は不安になってくる。橋枝ちゃんあまり状況を把握できていなかったんじゃないのと松永は考えはじめた。純粋であまりかしこくない子にはしつこいぐらい説明しておくのが正解だったはず。橋枝ちゃんだけ身体の復元ができないとも考えられないし。松永はそう思うが、頭部と胴体を切りはなされたまま、ぴくりとも動かない橋枝君を見て、松永は罪悪感さえ駆られてきた。ううんでもまあ死んだわけじゃないから、と松永はとりあえず思うことにする。

 遠くから轟音がする。それはずいぶん遠くからでも轟音とわかるような気合い十分な轟音であった。地鳴りもする。レベルメーターのノブをゆっくりまわしていく感じで、徐々に地鳴りがおおきさを増していった。遠くの轟音よりもこちらの共振音のほうがひと足さきにけたたましくなっていった。渚さんがなにか言ったが、松永にはまったく聞きとれない。

 轟音はよく聞くと波の音である。だが明らかに尋常な波の音ではなかった。同時に空気を引きさくような音も聞こえてくる。これが大規模な津波だと想定すると、バグの可能性は考えられない。プログラミングのバグは自然現象を素直に模倣しない。どこかに無秩序な乱れがある。ということはつまり、役員連中が人為的に津波を起こして、三人もろとも抹消しようとしているのである。

 しかしデータで構築されたヴァーチャルな渚さんはともかく、現実世界の意識をたもったアバターである自分と橋枝君はどうなるのだろうと松永は思う。大津波に呑みこまれて、死ぬこともなく、果てしなく仮想空間を漂うことになるのだろうか。おお神よと松永は十字を切る。われらが偉大なる神よ与えられる試練のスケールがちょいとおおきすぎやしませんか。問題は役員連中がそこまで深く物事を考えて行動を起こすようなタイプの人種ではないという点にある。それともこれが組織を裏切った人間にたいする報復処置なのであろうか。

「橋枝ちゃん聞こえる? どでかい津波がやってきて僕たち三人を呑みこもうとしてんだけど」

 なんの反応もない。切りおとされた頭も、胴体も地面に両膝をついたまま、ぴくりとも動かなかった。

「とりあえず立ちあがってくれる?」

 やはりなんの反応もなかった。渚さんがじれったさそうに叫んだ。

「とろくせえ野郎だな。あとでおっぱい見せてやるから、私とウマヅラ豚野郎についてこいっつてんだよ」

 マッスルキングオブワールドフェイマスからウマヅラ豚野郎への名誉ある昇格は正直ありがたくはない。たとえひとつの名称のなかに二種類の動物が入っていたとしてもだ。だが橋枝君の胴体に反応が起こったのは、なにより朗報である。松永が語りかけてもなんの反応もなかったのに、渚さんがそう言ったときは、たしかに胴体のほうがぴくりと動いた。

「立ちあがれっつてんだよ」

 渚さんの一喝。橋枝君はようやく両膝を起こして立ちあがった。いくぶんぎこちない動きなのは仕方がない。人類のほとんどの人間は、首のない状態で手足を動かしたことなんてないのだ。松永は渚さんに向かって高層ビルを顎でしゃくった。

「向かいのビルの屋上まで登ろう。あそこまで波が到達するかもだけど」

「ビルの中にいたほうがいいんじゃねえの」

「水圧で窓ガラスがわれて部屋がたちまち水で充満するよ」

「デカい津波だったら部屋のドアだって蹴破るんじゃね」

「たぶんそうなるけどそれまでにちょっとだけラグがあるから部屋が水でいっぱいになって窒息するか押しながされてあちこちの壁に身体をぶつけるはず」

 渚さんは少しだけ黙った。あまり松永の経験したことのない、相手とのあいだにある空気がわずかに揺らぐような種類の沈黙である。渚さんは、松永の足もとから頭のてっぺんまでじっくり眺めて、ねっとりとあつい吐息をついた。

「あんた、頭いいね。痺れちまったよ」

 兄妹で似たような性格だが、そこは男女の違いが顕れるわけである。しかし外見がどれほど美しい女性であっても、兄貴の性格そのままの妹に好かれたところで、松永はなんら心が動かされない。自分が仮想空間で津波に呑まれそうになっている原因が、そもそもその兄貴(と愉快な仲間たち)にあるのだからなおさらである。松永はひきつった笑顔を浮かべて、渚さんの言葉をさらりと流した。

「あんがと。橋枝ちゃん自分で動けるよね」

 橋枝君は立ちあがったまま、なんの反応もしめさない。しかし松永には自分の声が橋枝君にちゃんととどいたという不思議な感触があった。苛立ったような声で渚さんが言った。

「お前いま首がねえってことわかってんだよな?」

 わずかに橋枝君の身体が震えて、それから胴体が前後に動いた。ピュアなアホ恐るべし。おそらく橋枝君は松永の言葉に首を振っていたのである。

 松永と渚さんはビルに向かって走る。橋枝君もちゃんとよたよたついてきた。三人はビルのなかに入った。つぎの瞬間、雲までとどきそうなほどの高さの波が来てビルを打ちつける。建物を揺さぶる衝撃。三人はよろけた。その衝撃で通りに面しているガラスの全面に亀裂が走った。防災ガラスのはずだからそれなりに持ちこたえてはいるが、また波がくれば確実に割れるはず。渚さんがエレベーターのほうに走っていくのを松永が呼びとめる。

「電源が落ちてすぐ停まるよ。階段で行こう」

 さすがに反論しない。なにか言いたそうな顔はしたのだが、素直に松永のほうに戻ってきた。松永と渚さんは階段を駆けあがり、頭部のない橋枝君も生命の息吹きをあたえられた泥人形のように妙なフォームでがくがくと階段を登った。断続的な衝撃が建物を揺さぶる。何度も大津波がビルにあたっているのだ。

 とうとう階段の下のほうから浸水しだした。まるでポンプで押しあげているように急激に水位があがっていく。ふたりにたいしてやや遅れ気味の橋枝君が水に飲まれた。と思ったら、そのままなにごともなかったように、速度をあげて階段を登ってくる。

「まあ首が無いんだもんねえ」

 そうなるなら自分と渚ちゃんの首も刎ねときゃよかったかと思うも後の祭り。ライトセーバーはもう水の底である。念じれば復元できるのだろうか。しかしその理屈でいうと念じればこの津波もおさまるはずだ。松永は階段をかけ登りながら念じてみたが、ライトセーバーの復元も津波の収束も実現しなかった。そうは問屋がおろさないわけだ。役員連中の発案品は、松永たちの意思で操れるものとはあくまでパラレルなラインで設定されているらしい。これはやはり優秀なエンジニアたちとの頭脳戦なのだろうか。最上階まで登り、渚さんが扉まで走った。

「扉の鍵が閉まってるんだけど」

 渚さんの声に焦りが感じられる。鉄の扉はさすがに頑丈だ。ふたりで体あたりしてもびくともしない。容赦なく下から水が迫ってくる。

 だが松永にはぶあつい扉の向こうの音が聞こえた。地平線の彼方から無人島に向かってくるヘリのような救いの喧騒。松永は後ずさった。渚さんも勘よく松永とおなじ位置まで橋枝君の服を引っぱりながらさがった。

「きてんのね」

 松永は頷いた。つよい衝撃が何度かくる。扉がほんの少し歪む。下から迫っている水に押されて鉄の扉に叩きつけられるのがさきか、外からの津波が鉄の扉を強引にこじ開けてくれるのがさきか。松永は賭けてみることにした。というかそれ以外に選択肢はない。

 松永は、もしこの賭けに勝ったら、神が存在することを認めてもいいような気がする。でもそれはヴァーチャルな世界にも宿るヴァーチャルな神なのだろうか、あくまで現実世界の延長線上の神の仕業なのだろうか。後者である場合、人間がヴァーチャル世界を開拓するとともに、神はヴァーチャル世界にも進出なさったことになるわけである。もちろん自分にとって都合のいいことが起きたからといって神が存在する証明にはならないのだが、神としか呼べなさそうなものにこれまでさんざんな目にあわされてきたことを思えば、せめて絶体絶命のときくらいは味方してくれてもいいんじゃないのと松永は思うわけである。

 水が足もとにまで迫ってきたときに爆音がして鉄扉が開いた。しかし蝶番がはずれて鉄の扉がとんできて、松永は正面からまともに食らったのであった。なんという折衷案。これでは神の存在を否定することも肯定することもできないではないか。それともこれは神を試すなかれ、ということの意思表示なのか。とはいえそのまま流されそうになるのを、扉の横に立っていた渚さんに腕を掴まれてことなきを得た。扉が開いて流れこんできた波と、対抗する浸水が絡んで小さな渦を巻き起こし、いったん三人がその渦のなかに呑みこまれたあと、ビルを満たした水が溢れ出て、屋上の外まで渚さんと橋枝君と松永を押し出してくれた。

 だが屋上に出た三人を待ち受けていたのは、目の前に立ちはだかった壁のような波である。考えるまもなく三人は水中に呑まれた。渚さんがとっさに松永の手を掴んでディズニー映画に出てくる人魚のように水中をすいすいと泳いで屋上の手すりを握る。だが橋枝君はあっというまに津波に流されてしまった。そしてそのまま見えなくなってしまった。

 渚さんは屋上の外側で手すりを掴んだ。だから波が引いたあとはふたりとも手すりからぶらんと垂れさがることになる。渚さんは、松永を掴んでいる手も、手すりを掴んでいる手もぶるぶると震えている。松永は遥か彼方の地面を見おろす。たしかにこの高さから地面に叩きつけられたら、意識を失うほどの痛さだろう。しかしまあヴァーチャルな身なもんでとりあえず死ぬことはない。

「あのね渚ちゃん事情があって僕は不死身の身体だから思いきって手を離しちゃってもいいのよ」

「なにカッコつけたこと言ってんだよ、黙ってろよ」

「いやそういうことじゃなくて」

「さっき助けてもらったんだから、助けてやるのとうぜんだろ。うちらが死なないとしてもさ」

 渚さんは一瞬だけ泣きそうな顔をして黙った。

「つうか、わかってんだよ、私がデータの結晶に過ぎないんだってこと」

 松永はそっと首を傾けて渚さんの顔を見た。

「……いつから?」

「首がなくなったとき。あんとき数字だらけの暗い部屋に閉じこめられててさ、理屈じゃなくて、直感的にわかったんだ。ああ、あたし、生身の人間じゃないんだなって」

 なにもかける言葉が出てこない。たぶんそんな言葉は過去に書かれたどの哲学書にも載ってはいないのだ。ただ自分はこの女の子は見捨てることはしないと、松永はそれだけを思うのである。

 松永も自虐的な性格という点では一貫しているが、渚さんも渚さんで、兄貴には欠けている任侠心みたいなものを持っているわけで。しかし松永にはそんな任侠道なんてどうでもいいのである。松永はぐいと手首をひねった。

「やめろよクソが……いっちょまえに人のこと試してんじゃねえぞ」

 それでもなおぐいぐいと手首をひねっている松永を見おろして、渚さんは切ない溜め息をつき、手すりを持ったほうの手を離した。落下するふたり。松永の頭に走馬灯がめぐる。けれども松永の頭には役員連中の顔ばかりが浮かぶ。まあ仲間みたいなもんだもんねえ。仲間じゃあないんだけど。でも学生時代以降にわが身に起こったカラフルな出来事にはきまってやつらがそばにいた。普通に就職していれば僕ちんは定年まで孤独にぼっちを貫いてたはずだから人生を楽しませてはくれているのかもしれない。

 可能性なんて考えたこともないんだけれど結婚することになって新郎側の参列席を埋めるために式の招待状を送るのはこの連中になるのかな。学生時代からの友人として。やっぱひどいことになるんだろう。どれだけ下品なパーティーになることやら。結婚そのものが壮大なドッキリだったりして。やつらならやりかねないもんねえ。僕は喉が裂けんばかりの悲鳴をあげる。かな。あげないような気もする。わからない。いやいや死ぬんじゃないのよ僕ちんは。ねえねえ。あのさ。僕ちんにヴァーチャルな走馬灯みせんのやめてもらえる?

 ふたりは地面に叩きつけられた。

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