第14話 覆水盆にかえらず
三人がビルの自動ドアを出るのと同時に建物は崩壊した。ところが建物はまたたく間に寸分たがわず復元された。松永がそっと自動ドアに手を触れても、ほんものの質感となんら変わらない。なんの意味があったのよと松永は思うが、もちろんなにか意味があるわけでもない。プログラミングのバグとはそういうものなのである。
かといってバグが収束したわけでもなかった。空の一部分がたわんで、青い空そのものと雲が、目の前に垂れさがっている。垂れさがった部分の空は真っ暗だ。なにもない空間。まさにそれはビッグバン以前の、宇宙ですらない無の状態と、質量的に同等の「無の空間」なのである。
「渚ちゃんどうにかできないよねえ」
「できかねます」
渚さんが原因でバグが引きおこされたからといって、渚さんが解決できるわけではないのである。渚さんは結局のところ単なるトリガー。松永だってそんなことはわかっていたが、聞かずにはいられなかったわけである。しかしそれでもなお松永はしつこく食いさがる。
「これ収束させる手段とか知らないよねえ」
「はい。知りません」
渚さんらしい、迷いのない即答が、逆に恨めしくなってくる。松永は途方にくれたように、さっきからビルとビルの隙間いっぱいまでの膨張と等身大の伸縮をせわしなく繰り返しているチェシャ猫を眺めながら、七歳の女の子がこれと似たような体験したらマジでチビっちゃうよねえと思う。いやチビってないんだったか。
「ウソ。どうなってんのこれ。マジやばいんだけど」
松永がすかさず渚さんの顔を見る。さすがに世界がひっくり返ったような事態を目のあたりにして、素の渚さんが出てきてしまった。なんとも複雑な話である。渚さんがバグを引きおこして、バグが渚さんの素の部分を呼びおこしてしまった。いや、そもそも仕事としてコンサルジュをさせているだけで、渚さんだって、こんなアルマゲドン的風景を見せられれば、仕事どころではなくなってしまうわけである。
たしかにさっきからずっと表情がひきつってはいたが、松永はそれを頭部が復活してまもないせいだとばかり思っていた。だがよく考えればこんなこと現実の世界ではけっして起こらないわけで。いやいや現実を模倣した世界でも起こってはいけないことが起きているのだから、渚さんがキョトンな状態になるのも無理はなかった。
空は砕け、地は波打ち、風景の至るところが粗いドットに変換される。いまにも神さまがおりてきそうなシチュエーションだったが、現実の世界ならともかく、この世界のために神さまをつくってはいないはずなので、その可能性はかぎりなくゼロに近かった。プロジェクトにかかわっていたときにいっそ神さまをつくっていればよかったかもと松永は思う。この混沌をおさめられるのはそれこそ神さましかいないのだ。
もしかすると僕がプロジェクトをおりたあとに役員連中が神さまを導入したかもと、松永はまだ望みを持とうとするが、自分以上に神仏の概念とはまったく無縁そうな人種である。むしろ連中にとっては懲罰にのみ換算される概念なので、存在してもらっては困るだろう。役員連中の価値観からしてみれば、自分たちこそがこの仮想現実の神であると思っていそうな可能性さえある。まあ実際にそのとおりではあるのだが。
遠くのほうから水道管の破裂したような音がした。その音で橋枝君が目をさました。文字どおりの天変地異に大声をあげる。
「ちょ……なんなんすかこれ」
「橋枝ちゃんが引きおこしたんだけどね」
「え、どういうことすか」
橋枝君は腰に両手をあてて仁王立ちしている渚さんに目をとめた。
「渚さん、大丈夫だったんすか」
渚さんは厳しい目つきで振りかえる。
「大丈夫だけどさ、お前なんで私の名前を知ってるわけ。しかも最初からずっとなれなれしい口ききやがって。つうかお前誰だよ」
職場で納期ギリギリのタイムリミット、自分のことで手いっぱいの際に、橋枝君がつまらないミスをして怒りマックスのときなんかよりも、さらにつよい殺気を全身からみなぎらせている渚さんに、橋枝君はたじろぐ。
「ふえ? 初期化?」
「橋枝ちゃんあのね渚ちゃんもう仕事放棄しちゃってるから。素の渚ちゃんが出てきたのよ」
「聞いてんのかよ、この童貞が」
渚さんが吐きすてるようにそう言って、まるで奈良美智の描いた女の子のような、逆三角形の目つきで睨みつけてくる。道の向こう側から明らかに自分よりもつよそうなやつが来たときの犬のように橋枝君はあわてて目をそらした。
「いや、俺の知ってる渚さんはこんな女性じゃないっす。きっとシステムエラーっすよ」
「橋枝ちゃんが渚ちゃんのなに知ってんのよ。んまあ僕もふだんの渚ちゃん知ってるわけじゃないからなんともいえないけどしつこくナンパされたときとかこんな感じなんじゃない」
けれどもピュアなアホは信じられない。推しのアイドルの裏垢のツイートをスクロールしていくヲタのように放心状態なのであった。憧れの渚さんにこんな下品にまくしたてられるなんて、橋枝君にしてみたら、頭部が溶ける以上の悪夢ですらある。
とはいえ松永にはこちらの渚さんのほうが実にしっくりくる。兄貴のことをよく知っているだけに、こっちの渚さんのほうが、よほどしっくりくるのだ。兄妹がかならずしも性格が似るとはかぎらないが、そうはいってもやはりひとつ屋根の下、おなじ環境で育てられたわけで。どこかで共有しあっている部分があると考えたほうが自然なのである。
サバサバしてて気持ちのいい性格の子だけどやっぱ仮面かぶってたんだねえ。そういやそのサバサバぐあいがテレビドラマで女優が演じそうなステレオタイプな感じでちょっと違和感あったんだわ。女の人ってのは器用に顔をつかいわけんのよ。兄貴のことを知ってるだけに偏見があるのかと思ってたけどやっぱ女の人ってのは活火山のように感情の奥底にマグマをかくしてるんだよねえ。
「俺は信じないっすよ、こんなの渚さんじゃないっす」
「聞こえたぞ聞こえたぞ。いったい誰つかまえて、こんなの、とかぬかしてんだよおい。あんま調子のってたら、お前のちっちぇキンタマ握りつぶすぞ」
「渚さん絶対こんなこと言わないっす」
橋枝君はほとんど泣きそうである。
逆にこういう渚さんだったらダメなのか、と松永は恋愛経験ゼロなわりに、まっとうなことを思うのである。一度惚れちゃったんだったらとことん毒までしゃぶりつくしてしまったらどうなのよ橋枝ちゃん、と。毒は毒でも、恋する相手の発している毒には違いないのだから、皿までだって食えるはず。しかもべつにこれが渚さんの本質というわけでもなく、一部分にしか過ぎないのだ。とはいえ泣きそうになっている橋枝君が気の毒すぎて松永もさすがにそんなこと言えない。
「もしかしたら兄貴がデータを捏造したかもねえ」
橋枝君にそう言ってあげたときの、絶望の淵でワラにもすがるような目つきを、松永は死ぬまで忘れられそうにない。
「そうっすよ。きっとそうっすよ」
しかしそんなことをする意味がないのは、冷静に考えればわかりそうなのものである。コンサルジュの性格にわざわざ下品な側面を持たせる意味が。ここまで人を好きになれるなんて素晴らしいことだよねえと思いながらも、なぜここまで好きなのに、相手のすべてを受け入れられないのか、松永にはまだ解明しえない謎なのである。いやこれは人類最古の年よりいまだ解明されぬ永遠の謎なのだ。
なんの前触れもなく、粗いドットに変換されていた風景がシャープな情景に戻る。地面の波うちがおさまり、たわんでいた空がまるでロープで吊りあげられたようにもとの位置に戻った。チェシャ猫がなにもなかったように松永の足もとでニャアと鳴いている。
「なんだよ、もう終わりかよ。つうか世界が終わるんじゃねえのかよ、糞が」
こちらのバグはいっこうにおさまる気配がない。いやそもそもいわゆるひとつのバグではないのだから仕方がないのだろう。それでも松永は未練たらしく渚さんの顔をじっと見ていた。渚さんの口調が戻ることを切に願うような、悲哀じみた目で。
「いや戻さねえからな。二度とあんな仕事やらねえし。こんな気持ちわるいやつにねちねち絡まれてよ。やってらんねえっつうんだよ」
渚さんの性格を考えたらこうなるのもやむを得ない。覆水盆にかえらずである。松永は溜め息をついた。とうぶんのあいだ、兄貴そっくりの口調を聞かされるのは確実なわけである。
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