第13話 万にひとつのバグ

 たしかに役員たちとエンジニア、そして松永は、データで構築された仮想世界のバグの発見に関して、あらゆる可能性を試してみたものだった。

 空に向かって実物の(と言ってももちろんデータでこしらえた)大砲を打ちこんでみたり、日本各地の原子力発電所の機械をいじって同時に臨海事故を起こしてみたり(とりあえずヴァーチャルに過ぎない被爆を恐れることはない)、適当に選んだ場所で、盲目の人間が杖をついて障害物をたしかるように、地面や中空をひたすら突いてみたりした。この世界に立ち入ることの許されていないエンジニアたちはエンジニアたちで、パソコンのモニターに映る仮想空間をひたすらカーソルで連打して、バグの存在を探ったのである。

 しかし渚さんがトリガーとなって、こうも盛大なバグが引きおこされるとは、松永も予想すらしていなかった。そもそもそんな可能性さえ考えたこともない。渚さんの存在はあくまであとから加えられたオプションのようなもので、仮想空間のプログラミングとは別個につけくわえられたもの。そんな存在が、まさか本体の世界を揺さぶるとは思ってもみなかったのである。

 とつぜん空間の歪みが止まった。松永と橋枝君は顔を見あわせる。渚さんは頭をかかえたまま、しゃがみこんでいる。その頭がとつぜん溶けだした。煮えたぎった液体のように、ぐつぐつと渚さんの頭は消えていってしまった。そのまま全身が溶けるのかと思いきや、溶けたのは頭部だけだった。なくなった頭に添えられたままの、綺麗な細ながい手が妙に悲しく切ない。

 地面が揺れた。まっすぐ立っていられないほど激しい揺れだった。天井の壁が崩れ落ちてくる。橋枝君は溶けていった渚さんの頭を見て腰を抜かして床にへたっていた。地震が起こっていることに気づいているかどうかも疑わしい。

 松永はいたって冷静だった。革命家の母親を殺しに未来からやって来た、かの有名なアンドロイドのように、天井が崩れ落ちてくるなか、悠然と立ちつくしている。生きているのも地獄だから、死ぬのもへっちゃら。もともとこの男にはそういうところがあるが、正確にいうと、この世界で死んだところで、現実のデスパートのビルで眠っている本体が死ぬわけではないこということを知っているからでもある。

 仮想空間のディテールの構築にかんして、松永は地震のプログラミングを導入したかどうかを思い出そうとしていた。すくなくとも会議でその発案はあったように記憶している。しかし、地層プレートのメカニズムなど、現代最先端の科学をもってしても動きが把握できないわけだから、正確なアルゴリズムの再現も、もちろん現時点では不可能だ。

 いやそもそも地震など誰も望んではいない。それにデスパートがめざしているのは、かならずしも現実世界の忠実な模倣ではないのだから、という理由で導入は却下という結論になったはずだった。だからこの現象はおそらく、建物の崩壊に端を発している、ひたすら純粋な揺れの現象に過ぎないのだ。

 橋枝君も松永もビルの崩壊によって死ぬことはない。いやそもそもこの仮想空間において死は存在しない。そこは保証されている。ただ、絶対的な物理法則は容赦なく機能するので、何百トンもの瓦礫の山から抜けだすのにひと苦労させられるだけだ。

 この空間ではたとえなにが起きようと死ぬことはない、と松永はあらためて考える。だがこのまま仮想空間に意識を放っておかれたら、おそらくは本体が眠ったまま餓死することとなる。この仮想空間に食物があったところで、たらふく食べたとしても本体の腹が膨れるわけではない。そこはあくまでパラレルだ。胃がからっぽのまま、人間が何日生きつづけられるのかは個人差もあるので正確にはわからないが、それでも遠からず死にいたるのは確実だろう。あくまでグレーなラインを攻めつづけた役員連中がそんなことをするともさすがに思えないのだが、連中はわりと松永の存在そのものを忘れてしまう傾向がある。そこが恐ろしい。

 松永と橋枝君がこの仮想空間に放りこんだのは、ある種の報復処置と考えて間違いあるまい。しかし役員連中は熟慮に熟慮をかさねてこのような行為におよんだわけではないのだ。仮想空間に放りこんだこと自体にたいして意味はないのである。いまの段階では、まだ自らの意思で現実世界に戻ることができないのを松永が知っているので、役員連中はその恐怖を味わせていると考えるのが妥当だろう。そこに見いだすことのできる、あさはかな稚拙さは、いかにも役員連中らしい。

「橋枝ちゃん立てる?」

 橋枝君は恐怖におののいた表情で渚さんの頭のあった場所をじっと見つめていた。橋枝君にはちょっと刺激がつよすぎたのだろう。松永は近づいていって橋枝君の腕をとり、むりやり立ちあがらせる。落ちてきた天井の破片が脇腹にかすったが、ヴァーチャルな痛みだと思えば、さほど苦にならない。しかし橋枝君の頭に破片が直撃して、橋枝君は気をうしなってしまった。

 松永は橋枝君の肩をささえながら、ドアのほうへと歩いていった。天井の壁がつぎつぎと崩れていき、振りかえると、瓦礫のなかに頭のない渚さんが埋もれていく。

 しょせんデータだ。そのことは松永もわかってる。データで構築された渚さんなど、あとでいくらでも復元できるのだ。デスパート本社の地下にあるデータベースにバックアップデータが保存されているし、この個体の渚さんが死にたえても、かわりの渚さんがそれこそ無尽蔵に控えているのである。

 しかし松永はそこが不憫に思えてならない。この渚さんにも感情はある。頭部が消えてなくなっても、身体が残っている以上、この空間のどこかに渚さんの感情が存在しているはず。生身の人間ならありえない話だが、データの結晶なのだから、この仮想世界の渚さんとこの仮想空間がどこかで紐づけされている場合、それは十分に考えられるのである。いや紐づけされているからこそ、これほど盛大なバグが巻き起こっていると考えたほうが妥当なのである。

 データの結晶に過ぎないのだが、だからこそ感情の動きは生身の人間とほとんど変わらない。建物が崩壊していくなかに残していけば、渚さんはどう思うだろうか。自分がデータで構築された人間だと知らないだけで、ほんとうはデータの結晶に過ぎないと気づいたら、どんな気持ちになるのだろう。そして自分をつくった人間に置きざりにされたら……、と、これまでさんざん他人に見捨てられてきた松永は思うわけである。天性のいじめられっ子が、ふとした拍子に見せる、悲しいまでの優しさ。と同時に松永はここにきてようやく神をも恐れぬ行為に加わってしまったことを本気で後悔しはじめたのだった。

 松永は渚さんに声をかける。

「渚ちゃん聞こえる?」

 なんの反応もない。渚さんはなくなった頭に両手を添えたまま、しゃがみこんでぴくりとも動かない。天井の崩壊は止まらない。それでもなお松永は根気づよく渚さんに語りかける。

「自分の力で頭部を復元させられないかな?」

 やはりなんの反応もなかった。だが、地面の揺らぎとは関係なく、パソコンのモニター画面にちょっとしたノイズが走る感じで、空間がわずかに揺らいだような気がした。つぎの瞬間、溶けていったのとほとんどおなじ早さで渚さんの頭がつくられていった。ほんとつよい子だねえと松永は思った。とうぜんといえばとうぜんだが、本人とおなじくらい芯がしっかりしている。

「渚ちゃん今度は聞こえるよね?」

「はい。聞こえます」

「自力で立てる?」

「はい。なんとか」

 渚さんはなにごともなかったかのように平然と立ちあがり、崩れ落ちてくる壁をうまく避けながら、ふたりのほうに歩いてきた。

「橋枝ちゃんの肩をささえて連れてくことはできない? 情けない話だけど僕はまったく体力がないのよ」

「無理です。そういうチカラはないので」

 だよねえと松永は思う。渚さんはロボットではないのだ。

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