第12話 真骨頂

「『セロトニカ』の制作現場ぁ?」

 橋枝君はおもいっきり調子はずれな声を出してしまった。

「なんでよりによって俺らの働いているスタジオなんすか」

「さっきも言ったようにあくまでこれパイロット版だからデータの渚ちゃんと仮想空間の精度をテストするために仔細に検証できる場所が必要だったのよ。もちろんあのスタジオとこの本社ビルだけがデスパートが法的に所有している場所だってのもおおきいけど」

「あの場所を渚さんに案内されるって、なんか想像しただけで変な気分になるんすけどね」

「村田君よりはいいんじゃない」

 橋枝君はそのパターンを頭のなかで想像してみる。しかし橋枝君はすぐさま首を振る。ダメだ。信頼のおける上司として、また尊敬できる人生の先輩として、自分の弱さをAからZまで全部さらしきった村田さんに、いまさら自分たちの働いていた場所を他人行儀で案内されるなんて、気持ちわるいどころの話ではない。村田さんに比べればいくらか精神的な距離があるぶんだけ、渚さんのほうがまだマシだ。

「まあ、そうですけど‥‥。こっちの世界の渚さんには、自分が『セロトニカ』の制作にかかわっていたっていう認識はあるんすか」

「僕がプログラムを組んだわけじゃないから記憶があやふやだけどたしかそういう設定にしてあるんじゃないかな。何度も言っているようにこっちの世界の渚ちゃんも生身の人間みたいなものだからアニメ会社を案内していてなんであたしこんなこと詳しく知っているんだろうと考えこんじゃうからね。まあ自分の任務そのものには疑問を持たないように変更を加えてはあるんだけど」

「じゃあ村田さんとかの知識はあるんすね」

「渚ちゃんの兄貴が耳にしている範囲の知識はあると思う。渚ちゃんのことならなんに関しても打ちこめるだけのデータを打ちこんであるから。あの兄貴だって子会社で働いている人間の主要なメンバーの顔と名前くらいは把握してるし」

 ということは渚さんは自分のことをだいすきなお兄ちゃんにはまったく話していないというわけか、と橋枝君はあらためてへこむ。通りすがりの脇役。人生最後に見るという、走馬灯とやらのショートムービーには、けっしてお声のかからない名無しのゴンベエ。でも屋上から通行人めがけて銃をバンバン撃っていたときは、気にかけてくれていたから話してかけてくれたんだよなあ。……かわいい後輩として、か。橋枝君はがっくり肩を落としてうなだれる。そして橋枝君は、俺はいったい渚さんに何度失恋したら気が済むんだろか、と自己嫌悪に陥る。ストーカーみたいだな、これじゃ。

 いつのまにか渚さんの姿が消えていた。道路の路肩に停めてあった黄色い車のクラクションがぱふと鳴る。運転席に座っているのは渚さんだった。

「あれ、渚さんってたしか運転免許持ってなかったんじゃ……」

 あのねだからこれ変更プログラムを加えてあってねとツッコミをいれようとして松永はいやもう疲れたわと口をつぐむ。しかし松永はなぜか橋枝君に苛立つわけではない。こうして何度もおなじボケをかましても許せるのはまさに若さの特権である。自分のもう少し若かった頃はけっしてこんな感じではなかったはずなのだが、ああ僕ちんもこんな感じだったかなあと、どこかなつかしい感情を抱かせるのである。

 橋枝君はいつのまにか車の後部座席に座っていた。疑問を抱いても深く考えこまないのはピュアなアホのむしろ利点である。渚さんが窓をあけて言う。

「出発しますよ、マッスルキングオブワールドフェイマスさま」

 以前にも感じていたことだが、渚さんが「マッスルキングオブワールドフェイマスさま」と言う際、松永には渚さんの目がうっすら笑っているような気がするのである。まるで笑いを堪えているような。いや無理もない。渚さんはプロフェッショナルに淡々と仕事をこなしているだけで、感情は生身の人間とほぼ変わらないのだ。松永だって、他人をそんなふざけた名前で呼ばなければならないとしたら、やはり笑いそうになるだろう。

 しかしそのことだけにかぎらず、松永は以前からこの世界の渚さんがちょっと自分のことを見くだしている気がするのである。もちろん現実世界の渚さんからはそんな印象など微塵も抱いたことはない。それがはたして気のせいなのか、渚さんのデータを打ちこんだ役員連中の主観が入っているせいなのか、こういうことに敏感すぎる松永には、もはや区別のしようがなかったのである。

 

 

 変更プログラムによって構築された渚さんの仮想上のドライヴィンテクニックはやはり抜群にうまかった。現実世界の渚さんが運転免許を持っていないにもかかわらず、渚さんが自動車を運転すればこうなるだろうなという、橋枝君の想像そのままの優雅で大胆な運転っぷりで、車は市街を滑らかに走っていった。

 信号はもちろん制御されており、渚さんはきちんと守った。しかし町には誰もおらず、たまに野良猫が闊歩するだけ。そのせいなのか町にはごまかしようのない人工的な空気が通奏低音のように漂っていた。

 しかし橋枝君は仮想世界の風景をじっくり観察している余裕もなかった。そもそも窓から見える景色が現実世界と大差ないというのもあるが、橋枝君は花より女子、ただひたすら後部座席から渚さんの切れ味するどいハンドルさばきにみとれていた。

 渚さんと橋枝君の働いているアニメ制作会社のビルの前に着いた。橋枝君は車のドアをあけようとガチャガチャやっていた。渚さんがにこやかだが、こいつどんだけボケをかますつもりじゃい、という目つきで、いそいで自分のシートベルトをはずす。車のキーを抜くと、すたすたと歩いていき後部座席のドアをあけ、ぱっと左手をかざした。

「こちらが『セロトニカ』を制作しているアニメ会社が入っているビルでございます」

 渚さんにそう言われるのは実になんともいえない気分である。想像すらつかない光景が目の前で繰り広げられるというのは、自分が自分ではなくなっていくような不思議な感覚だった。そもそも現実の世界のほうが実は夢だったんじゃないかとさえ思えてくる。

 逆に自分がスタジオを案内したら渚さんはどんな気分なんだろうなと橋枝君は思った。自分についてなにも知らない渚さんをさきに立って案内したら、「生身の人間みたいなもの」であるこっちの世界の渚さんは混乱するだろうか。興味はあるが、それは少しかわいそうな気もするのである。

 しかしいつもクールな渚さんが混乱している姿というのは、ちょっと堪らない萌えポイントではある。ピュアなアホはひとりでにやついた。それを見てもうひとりのアホが橋枝ちゃんまたおかしな想像しちゃったりしてるんじゃないのと顔をしかめる。

 スタジオの前までたどりつき、渚さんが異空間にいざなうかのような意味ありげな笑顔を浮かべてドアをあけると、そこには現実世界のスタジオと寸分たがわない風景があった。

 橋枝君はちゃんと自分のデスクがあることに感動する。しかしよく見るとデスクのうえに置かれてあるのはモニターとマウスとキーボードだけ。フレッツで買った愛用のペン立ても、『スラムダンク』の卓上カレンダーも、オブジェとしてつかっている自由の女神の描かれたスタバのマグカップもなかった。マウスは橋枝君が入社してからしばらくつかっていたもので、途中で壊れて自前のワイヤレスのマウスに変えたのだが、そのマウスはどこにもない。橋枝君お気に入りのトイ・ストーリーの絵柄の入ったマウスパッドもない。ようするにこの場所をスキャニングしたのは、自分がここに来る前の話なのだ。

 だとしたら、仮想世界の渚さんのデータが打ちこまれたのは、自分がここに来る前なのではないだろうか、と橋枝君は一縷の望みにすがってみる。それなら仮想世界の渚さんに、自分のことについてのデータがまったく入っていないことも、すべてが腑に落ちる。

 んまあしかしそれはさすがに都合のよすぎる解釈なのではないかと橋枝君も思うわけである。というか、渚さんが自分のことをなんとも思っていないということのほうが、橋枝君にとってはよっぽどリアリティがあるわけで。仕事中はなんやかんや気にかけてくれていても、休日にはまったく存在そのものを忘れられている、ながい休暇あけに、ああそういえばコイツいたよなあと、感慨ぶかげに凝視されちゃったりする、渚さんにとってはそんなポジションなのだ俺はと、橋枝君は涙ぐみながら思う。

 ここでまたまたサッカーチームのアツいコーチのことが橋枝君の頭をよぎる。橋枝君の心が折れそうになると、このコーチにお声がかかる。橋枝君が人生の末期に見るであろう走馬灯の出演確定メンバー。そして例のあのセリフが、まるでサッカーの日本チームをワールドカップの決勝戦まで導いた監督の名言ででもあるかのように、橋枝君の羽毛よりも軽い脳みそのなかでこだまする。泣くんだったら、試合が終わってから泣け。

 ぬはあ、と脳みそでこだまするその言葉に、ピュアなアホが、条件反射的に心のなかで嗚咽する。そうっすよねコーチ。俺が勝手に連敗モードに入ってるだけで、渚さん、まだ結婚してないんっすもんね。

 そうなのである。渚さんはまだ結婚していないのである。橋枝君にだってチャンスはあるってことになる。しかし渚さんは世間一般でいうところの結婚適齢期だ。渚さんほどの女性なら、結婚を視野にいれた彼氏がいてもなんらおかしくはない。そして橋枝君はまたもや懲りずに渚さんの想像上の彼氏を頭に思いえがいては溜め息をつく。橋枝君は首を振る。いかんいかん。またこの無意味な負のループに突入してしまった。

 もっと前向きに考えてみよう。スタジオで働いている、橋枝君をのぞく二十人ほどの男性たちは、みな妻帯者だ。ライバルはいない。職場の男性陣の誰かと絶賛不倫中で深みにはまっちゃって、ああいつになったら奥さんとわかれてくれるの、いつか後ろから刺してやる的展開は、渚さんにかぎってはないように思う。

 だが、もちろんそんな消去法なんかで、渚さんは自分を選んではくれないだろう。渚さんはそういうタイプの女性ではない。ながれに身を任せるというよりは、なんであれ、積極的に自分から掴みとりにいくタイプだ。そもそも渚さんは、職場で適当に見つくろう、ということをしなくていい風貌の持ち主である。家の玄関を出てから、五秒とたたないうちに往来の人目を惹くタイプの人間がこの世の中にはいるが、渚さんはまさにそういう女性である。三十を過ぎるまで、世の男たちの手という手を器用にすり抜けるほうが、渚さんのような女性にとってはよっぽど至難の技なのである。

 休憩中に話していても彼氏の存在は感じられなかった。これほど恋に臆病な橋枝君だって、連休の予定なんかをさりげなく聞いて、探りをいれちゃったりしたこともあった。しかし橋枝君の狙いを見透かされたのか、そもそも橋枝君なんかにプライベートなことを教えたくなかったのか、いまのところないのよねえと、含みのある言いかたで適当にはぐらかされてしまった。そんなまわりくどい聞きかたをしていないで、いっそダイレクトに訊けばよさそうなものだが、橋枝君は怖くて聞けない。

 そんなことを思い悩むいっぽうで、渚さんはこういうウジウジしたタイプがいちばん嫌いなんだろうなあと、橋枝君は思うわけである。むしろあたって砕けるのがいいのかも。いや砕けたくはない。どこかで希望を残したまま、こんな風にまったりずるずる、渚さんの笑顔に癒されて日々を過ごすのが、自分には合ってるのかもしれない。でもそんなことしているうちに、いつか渚さんは誰かにとられちゃって、橋枝君の心臓はついに杭でうたれてしまうのだが。

「この工房でアニメ『セロトニカ』は制作されました」

 渚さんが淡々としたプロフェッショナルな口調で言った。コンパニオン的役割のわりに声にあまり愛嬌がにじまないのは、いかにも男みたいな性格の渚さんらしいと橋枝君は思った。

「ああ渚ちゃん僕らはそういうのいらないかも」

 渚さんは首を傾げる。なにいうとんのじゃこのボケカスが、という頬のひきつりかたをする。

「マッスルキングオブワールドフェイマスさま、そういうの、とは、どのようなことでございますか」

「スタジオの案内」

 松永のぶっきらぼうな言いかたに橋枝君は心おだやかでない。もちろんこの渚さんが、仮想空間に生きるデータで構築された渚さんであることは、よくわかっている。だから松永がロボットを相手にするような感じの口調になるのもわかるのだが、橋枝君は家畜にも劣る松永なんかに、そんな口のききかたをしてほしくない。

「ですが新しくこの世界に来られた方は、ここにご案内するのがきまりとなっております」

「渚ちゃんあのさその指示を出したの僕だってことおぼえてない?」

「はい。おぼえております」

「僕が指示を出したわけだから変更とかってできないわけ?」

「できかねます」

 いかにも渚さんらしい、てきぱきとした答えかただと橋枝君は思った。確定事項を口にするときは、自身の記憶を探っているような余白がまるでないのである。

「ううん僕がこのプロジェクトをはずされた時点で指示の認可が無効になったのかな」

 松永が呟いた。

「指示の認可?」

「以前はこの世界に入ることが許されてたのは役員連中と僕だけだったのよ。複数のシステムエンジニアを雇ってこの仮想空間をつくらせたんだけど彼らはあくまで自分の担当した部分しか知らないわけ。だから彼らが陰で結託して自分たちだけでこの世界をつくろうとしても無理なのよ。僕が総指揮をとって彼らの技術を有機的につないだわけだから」

 総指揮、の部分でやはり松永の鼻の穴が自慢げにひくひく動いたのを、橋枝君は見逃さなかった。この期におよんでなおこいつはと、説明がよく飲みこめないながらも橋枝君は心のなかでツッコミをいれる。

「本格的にこの仮想世界が商業化するまで彼らは立ち入り禁止になってるのね。流動の激しいIT業界のシステムエンジニアたちにこの世界に立ち入らせるともし情報が漏洩したときに取り返しのつかないことになるでしょ」

 生き馬の目をぬく熾烈なIT業界。昨日の味方は今日の敵、今日の味方は明日の敵。秘密保持の観点からすると、金で雇われているだけの人間は、金で雇われているだけの関係だからこそ、なおさら危険なわけである。その点をふまえれば、デスパートと深い関係を持ち、ポンコツながらもあるていど理系につうじた松永が、プロジェクトの初期段階で重宝されたのはとうぜんともいえる。橋枝君はよくわからないながらもうんうん頷いた。

「この世界の渚ちゃんにコンサルジュをやってもらうにあたって細かい指示をあたえないといけなかったから僕の指示だったらなんでも従うよう例の変更プログラムを加えたのよ。僕を渚ちゃんの上司っていう設定にすれば簡単な話なんだけどそうなるとどの会社に属している人間なのかって話になるじゃない。そんなの適当にでっちあげればよさそうなものだけど僕の役職を適当にでっちあげちゃうと最終的に渚ちゃんのなかで整合性がとれなくなるわけだからね」

 渚さんは少し離れた場所で柔らかい営業スマイルを浮かべながら松永と橋枝君の話が終わるのを行儀よく待っていた。

「人間じゃないのに感情はあるから人権みたいなのは尊重してあげないといけない。渚ちゃんに仕事してもらうのだって役員連中はまず面倒くさがってこんなことやらないんで僕の声が指示することには無条件に従うようにさせたわけなの」

 橋枝君にとっては実に腹立たしい話である。たとえデータで構築された渚さんに過ぎないとしても、松永なんかの言うことになんでもはいはい従わせるように操作しているなど、橋枝君にしてみたらもう言語道断である。

 だが冷静に考えれば、松永だってべつにそれを好きでやっているわけではないのである。このプロジェクトだけにかぎった話ではないのだが、役員連中に強制的になんやかんややらされているという点では、データで構築された渚さんとまったくおなじ。むしろ松永が生身の人間であるぶん、本人が考えても仕方ないと自覚しているような負の感情が、つぎからつぎへとあれこれ沸きあがってくるわけだから、そこらへんの感情が変更プログラムによってシャットダウンされている渚さんよりも、よほど同情されて然るべきなのである。橋枝君にだってそんなことはわかる。

 とはいえやはりそれとこれとはまたべつの話(え?)なわけで、ピュアなアホには感情的な面でやけにひっかかる。データで構築された渚さんにだって敬意をはらうべきだという、いたいけな小学生のような、純情な想いが募ってくるのだ。松永のようなカースト的底辺を這いつくばって生きてきた下等生物ならなおさら、その対極で華やかに生きてきたはずの渚さんに、たとえデータのコピーに過ぎなかろうと、最大限の敬意をはらうべきだと橋枝君は思うのである。

「松永さん、それはちょっと違うんじゃないすか」

 ああまたはじまったのねえと橋枝君の据わった目を見て松永はげんなりする。男たちが中心になって物事が動くなかで、女性が絡むと話がややこしくなるのは、もちろん松永だって知識として知っている。しかしこれまでの人生で松永がそうしたトラブルとわりと無縁だったのは、松永がひとりの男としてただひたすら無害な存在だったからだ。トラブルのほうが松永を回避してきた、と言いかえてもいいかもしれない。僕ちんはただ運が良かっただけなんだなあと感慨にふけりながら、松永はピュア過ぎるアホに根気よく説得を試みる。

「いやあのね橋枝ちゃん。この世界の渚ちゃんはメインのパソコンの電源を切っちゃえば消えてしまうような儚い存在なわけなのね。アニメに出てくるかわいい女の子がいかに自分の好みの子だとしてもテレビのスイッチを消せばいなくなるのとおなじなわけよ」

「論点をずらさないでください。松永さん、言ったじゃないすか。この世界の渚さんは、現実の渚さんとほとんどおなじなんだって」

 ピュアなアホ相手に、どこまでも議論が平行線をたどりそうな予感。しかし松永はこんなことではへこたれないのである。松永がこれまでさんざん相手にしてきた役員連中に比べれば、どちらかといえば人間としての温度感が自分に近いぶんだけ、橋枝君のほうがよほど気が楽なのである。

 とはいえ松永は他人を説得することが致命的にへただ。そもそも説得が上手であれば長年こんな不憫なポジションに甘んじてはいないわけで。だから松永の口から出る言葉は、相手を説得するどころか、逆なですることばかりになる。

「橋枝ちゃんいったん渚ちゃんのことは忘れようよ。簡単に言っちゃうとこの渚ちゃんは幻みたいなものなんだからさ。これは渚ちゃんに見えるけど渚ちゃんじゃないの。言葉はきついけどニセモノなの。一度この建物から出て冷静になろう。ね」

 子供を諭すような口調。渚さんのことをふたたびこれと呼び、ニセモノの渚さんのことは忘れろときた。松永の雑すぎる言葉選びのせいで、焚き火に薪をくべられたように橋枝君はめらめらと燃えさかる。

「いやちょっと我慢ならな……」

「こちらが『セロトニカ』の貴重なセル画でございます」

 絶妙なタイミングで渚さんがふたりのあいだに割って入る。当の渚さんが出てくることで、アツくなっていた橋枝君の頭が、はために蒸気が見えるくらい、いっきに冷えた。松永はああほんと渚ちゃんらしいねえと感心する。よく気がきく。

 ただ橋枝君はちょっと不完全燃焼である。渚さんが松永なんかに助け船を出したのが気に食わない。ふと見ると、渚さんが手に持っているセル画が、ちょうど渚さんの担当した箇所であることに気づいた。橋枝君はむらむらと渚さんをいじめたくなってくる。ピュアなアホの真骨頂だ。

「これって渚さんが担当した場面っすよね」

 ピュアなアホのやることは予測がつかない。松永はさすがに咳きこんだ。

「あのね橋枝ちゃん。そんな細かい部分までデータを打ちこんでるわけないでしょ」

「さようでございます、橋枝さま」

 松永は渚さんを振りかえる。自分がデータを打ちこんだわけではないから、こんな細かい部分まで入力されているのかと驚いたわけである。

 コンサルジュとしてアニメの製作工程や『セロトニカ』について詳しく知っていなければならないため、この世界の渚さんは前職がアニメーターという設定にはしてある。もちろん『セロトニカ』の製作陣として、だ。

 とはいえ、自分がどの部分を担当したとかいう話までかかえこませるのは、この世界での渚さんのシンプルな役割と、そこに焦点を絞って割りふられた、あくまで少量のギガ配分(そこは松永が設定した)を考えると、いくらなんでも負荷がかかりすぎるのである。それとも渚さんが適当に話をあわせているだけなのか。

 しかし渚さんの性格にそういう側面がまったくないことを松永もよく知っている。いちいち性格の細かい部分にまで変更を加えていると、本人が精神的に破綻をきたす恐れがあるため、変更プログラムは性格を変えることまではできないはずなのだが、このプロジェクトをおりたのがかなり前の話なので、そのへんは松永も自信が持てなかった。

「理沙と亜梪美が睨みあっている場面ですよ。自分がウィルス保持者である証拠を突きつけられた理沙の表情を描くのに、ひどく苦労してたじゃないですか」

 渚さんは目を細め、人さし指をこめかみにあてがった。

「あの、橋枝さまはなぜそのようなことをご存知なのでしょう」

 橋枝君はある種の快感に背中がぞくぞくする。現実には見たことのない渚さんの困惑した表情が、そこらへんの男の子とおなじように、橋枝君だっていっぱしに抱きもつサディスティックな部分を刺激する。そしてピュアなアホのダークな部分が、とうとう盛大に爆発した。橋枝君はよくわからないキメ顔でにんまり笑う。

「僕も制作チームの一員だったからですよ」

 松永は頭がくらくらした。役員連中のような人種が根っから腐っているのは仕方がないし、もう慣れっこだ。しかしおそらくはごく普通の環境に身を置いて、おそらくは多少の過不足はあれど一般常識をつちかってきたはずの人間が、データで構築されたヴァーチャルな人間を軽い気持ちでからかっているのを見るのは、グロテスクでさえある。橋枝君がうすら笑いさえ浮かべているのを見て松永は震えあがった。

「もうしわけありません、橋枝さま。私には橋枝さまの記憶がまったくないのですが」

 たとえば記憶障害を患っている生身の人間にたいして、こういった極悪非道なことはしないはずである。それはつまり、データで構築された渚さんのことを、結局は橋枝君だってヴァーチャルな存在でしか認識していない、ということになるわけだ。松永は複雑そうな表情で橋枝君の顔を見たが、子供が蟻の集団でもいたぶっているようなその目つきを見ると、そのことを指摘する気もたちまち失せてしまった。

 渚さんはいかにも気分がわるそうだった。端正な顔が歪んでいる。いや、実際に歪んでいるのだ。渚さんだけでなく、このスタジオの空間自体も歪みはじめた。エスプレッソの表面に描いた絵を、スプーンでかき混ぜたように風景がぐるぐると歪む。松永は窓の外を見る。やはり外の風景も歪みはじめたのであった。

「松永さん、なんか顔が歪んでるんすけど」

 そう言った橋枝君の顔も歪んでいる。松永は溜め息をついた。やはりあったのだ。松永は文字どおり表情を歪めながら言った。

「これが万にひとつのいわゆるバグだったのねえ」

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