第11話 世界的に有名な筋肉の王
エレベーターで一階までおりると、自動ドアのガラス越しに、現実の世界で最近会ったばかりのはずなのに、なぜかひどくなつかしく思える麗しの姿が橋枝君の目に入る。渚さんである。橋枝君は泣きそうになる。
渚さんは自動車メーカーの新作発表のアナウンスをするコンパニオンっぽい格好をしていた。首に赤いスカーフを巻き、上下とも真っ白なスーツにはどこか未来感があって、化粧も清潔感のあるコンパニオンのそれ風で、そうした装いもまた抜群に似合っていた。
自動ドアが開き、渚さんはふたりのほうを振りかえって、少し驚いたような表情を浮かべてから、橋枝君がこれまで見たことのないようなプロフェッショナルな笑顔を浮かべた。
「ようこそ橋枝さま、お久しぶりでございますマッスルキングオブワールドフェイマスさま」
橋枝君は松永の苦虫を噛んだような顔を見て笑いそうになる。
「なんかドラクエの主人公に変な名前つけた感じっすね」
「その名前まだ生きてるんだねえ。いうまでもないけど役員連中が勝手につけたハンドルネームなのよ。橋枝ちゃん社員証持ってたでしょ。いの一番に会員登録しないと入場できないことになっているから橋枝ちゃんのは役員連中が打ちこんだのよ」
後半部分は橋枝君もまったく聞いていなかった。潤んだ瞳で渚さんに近づき、現実世界の渚さんに話すように、おそるおそるな感じで訪ねた。
「あの、俺のこと知ってますよね?」
渚さんはプロフェッショナルな表情をたもったまま首を傾げる。
「渚ちゃんの兄貴が橋枝ちゃんのことおぼえてるわけないでしょ。何度も言ってるように渚ちゃんのデータの結晶に過ぎないのよこれ」
「松永さん、渚さんを指して、これ、って言うのやめてもらえますか」
やはり子犬のような純情な目でピュアなアホがひとり燃えさかる。
「ねえ橋枝ちゃん変なところでキレないでくれる。いまはそれどころじゃないでしょ」
「橋枝さま、はじめてのご来場におきまして、いくつかの通達事項がございます」
こういうほんものの渚さんの口からは出てこない文言を聞くと、ピュアなアホにも、この渚さんが松永のいう「データの結晶」でしかないということを痛感させられるのである。渚さんはその通達事項とやらを機械的に挙げていくが、もちろん橋枝君の耳には入らない。まるで科学博覧会でロボットの女性を見るオッサンのように、顔を近づけて好奇心もあらわにまじまじと渚さんを眺める。松永がとがめる感じで言った。
「あのねそんな風に食いいるように見てたら渚ちゃんたぶん内心ムッとしてるよ」
「はい?」
「データの結晶でしかないとしてもほんものの渚ちゃんみたいなものだって何度も言ってるでしょ」
そう言われて橋枝君はあらためて渚さんの顔を見てみる。渚さんはチーフからむちゃなスケジュールを言い渡されたときのように、にこやかだが目が笑っていなくて、かすかに口元をピクピクさせているのであった。渚さんの気のつよさを十分すぎるほど知っている橋枝君は震えあがる。
「プロフェッショナルに仕事をこなしているだけで内心では激ギレ状態じゃない。しかもこっちの世界では橋枝ちゃんと初対面なわけだし」
「橋枝さま、ご了承いただけますでしょうか」
渚さんの抑制された声の響きには、ええ加減にせえよワレ、隙あったらシバキまわしたるからなあ、のニュアンスがちゃんとこめられている。この世界の渚さんは「データの結晶」であっても、紛れもなく渚さんなのだ。
「すみません、渚さん」
下の名前を呼ばれて、渚さんはびくっと身体を震わせる。そういえば、現実の渚さんをはじめて下の名前で呼んだときも、こんな風にびくっと身体を震わせたよなあ、と橋枝君はなつかしく思い出す。
チームのみんなが渚さんを下の名前で呼んでいたので、自分もそうしてみようと思ったのだ。それで渚さんの反応を試してみようという下心ももちろんあった。渚さんを下の名前で呼んで、どういった反応をするか見てみたかったのである。そうすることで渚さんが潜在的な心理で自分との距離をどう測っているのか知りたかったのである。
はじめて渚さんを下の名前で呼んだとき、渚さんは身体を震わせた。橋枝君はそれをどう解釈したらいいのかわからなかった。ただ、怒られはしなかった。橋枝君はその可能性も想定していたのである。けれどピュアなアホは、自分をのぞけば渚さんがチームのなかで最年少であることに、あとから気づいた。それでも気のつよい渚さんが注意しなかったのは、橋枝君を弟のような存在として見ていたからなのだろう。
データの結晶に過ぎないはずの渚さんがほんものの渚さんとおなじ反応をしているのを見て、橋枝君は胸が高鳴る。いや、締めつけられた、といってもいい。まるで終わってしまった恋が復活したような感覚なのである。おまけにこの世界の渚さんとは初対面なのだから、よけいにどぎまぎしてしまう。これは渚さんとの関係を一からやり直すチャンスなのである。
「橋枝ちゃん不毛なことしないように」
松永がメフィストフェレスみたいに背後から神妙な面持ちで橋枝君に注意する。しかしピュアなアホという点では、橋枝君もかのファウスト博士とあまり大差なかったりするので、あまり効果はなかった。
「なんでですか」
橋枝君は不満にみちた声で言った。
「渚ちゃんは僕らみたいに生身の本体と記憶が紐づけされてるわけじゃないからいざ現実に戻ったとしても虚無感に襲われるだけだよ。渚ちゃんはなにも知らないわけだから」
「そんなの百も承知のことですよ。それがわかっててなお惹かれるんです。んもう。俺の口からこんなこと言わせないでくださいよ。だいたい松永さんって誰かに恋とかしたことあるんすか」
「あるにはあるんだけど報われることはなかったねえ」
「だったら俺にもうちょっと同情してくれてもいいじゃないすか」
「データの渚ちゃんに恋するなんてどこまでいっても僕の経験してきたこととは種類が違うじゃない。というか橋枝ちゃんが渚ちゃんに抱いているのは恋心じゃないからね」
「じゃあなんなんすか、これが恋心じゃなかったら」
お前みたいなのがいっちょまえに恋心とか語りやがって、という口調で橋枝君は言っちゃったりする。
「昔好きだった女の子によく似た女性にただ脊髄反射的に反応してるってだけ。まあなんていうかこの渚ちゃんの場合は似ているどころの話じゃないんだけど」
「じゃあ俺の渚さんにたいするこの思いはどこにぶつけたらいいんすか」
「僕といっしょに現実の世界に戻って現実の渚ちゃんにぶつけたらいいんじゃない。まったく脈なしってもんでもないんでしょ」
「それがまったく脈なしなんすよ」
「どうしてそれがわかるの。告ったの」
「そんな勇気あるわけないでしょうが」
橋枝君の声は松永の襟首をつかまえて揺さぶらんばかりである。そこに額に青筋たてた渚さんが割りこんできた。
「橋枝さま、マッスルキングオブワールドフェイマスさま、これから見学ツアーを開始しますがよろしいですね」
「見学ツアー?」
「法律をクリアするまで移動できる場所がかぎられてるからきまった場所を案内するようにプログラムされてんのよ」
「どこに案内してくれるんすか」
「『セロトニカ』の制作現場」
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