第10話 渚さんであって、渚さんではない

「マジすか。この世界に渚さんがいるんすか」

 橋枝君のにやけが止まらない。松永は困惑した表情を浮かべる。

「でもこの世界の渚ちゃんは橋枝ちゃんの思ってる渚ちゃんじゃないのよ」

「どういうことすか」

「簡単に言うとデータ上の渚ちゃんなのね」

「データ上?」

「精巧につくられたヴァーチャルな渚ちゃん。そもそも本人じゃないし本人の許可すら得てない」

「わけわかんないすよ」

「たぶん橋枝ちゃんは知らないだろうけど渚ちゃんは役員のなかのひとりの妹なの」

 なにか言おうとして、橋枝君は盛大に咳でむせた。

「べつにかくしてたわけじゃないんだけどね。世の中知らないでいいことってあるでしょ」

「たしかに知りたくなかったっす」

 橋枝君はげんなりした表情を浮かべながら言った。自分の働いているアニメ制作会社の親会社が、反社組織の人間が役員であるというのとおなじくらい幻滅させられる事実である。なあんで世の中こんなに綺麗なものと穢いものが密接につながっているんだろ。キレイはキタナイ。キタナイはキレイ。橋枝君はつくづく思う。

 地下アイドルの肩の向こうに、脂っこいオッサンが脂っこい指で、札束数えているのがちらちら見えるようなもの。アイドルに投げ銭しても、拾いあげるのはそのオッサンたちなのだ。嗚呼。他人に純粋さをもとめれば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

「実の妹なんだから思考パターンなんて手にとるようにわかるわけよ。一から十までデータの入った渚ちゃんは本人そのものと言っていいかもね。もちろん兄貴の把握している範囲でだけど性格やら記憶やらがかたっぱしから全部入力されてる。もっともただひとつだけうまくいかなくて違うところがあるんだけど」

「ただひとつ違う?」

「なんていうかそのいわゆるひとつの恋心ってやつ」

 ピュアなアホは鼻血が出そうになる。

「まあそんなの本人だってわかってなかったりするからね。データとして打ちこない変数の要素が多すぎるし。本人の性格がそういうのの定型パターンをつくりだしているとはいえ相手と最初にであった際のシチュエーションとかも絡んでくるわけだから未知数すぎるのよ。んまあ橋枝ちゃんがそういう表情になるのはわかるんだけどねえ。男子に人気あるから」

 現実ではけっして叶わなさそうな恋。だからこそ橋枝君はいじましい恋心を地中ふかくに葬りさったのである。渚さんと釣りあいそうなタイプの男を思い浮かべては、その仮想敵に負け挫け、溜め息ばかりついていた。しかし恋がたきが松永しか存在しない世界なら、勝ちめは十分あるかも。

 最初にひと目見たときから、橋枝君は渚さんのことが好きになった。男が好きにならずにはいられない、そういうタイプの女性なのだ、渚さんは。しかし仕事場で接しているうちに、橋枝君はやがて恋心を封印することにしたのだった。渚さんの外見も中身もあまりにもこのチンケな自分と不釣りあいに思えたから。最初の最初から手のとどかないところにいる人がこの世の中には存在する。橋枝君にとってはそれが渚さんだった。

 データで完全に再現された渚さん。橋枝君の心の底で眠っていた感情が、むくむくと起きあがるのが自分でもわかる。遠い感情が戻ってきたときの胸の高鳴りで、橋枝君は息苦しさすら感じた。

 だがそれが倒錯した行為であるという自覚はちゃんと橋枝君にもあるわけで。データ上の渚さんに恋するなんて、少し前に流行った、ぬいぐるみやフィギュアとデートするガチオタとたいして変わらない、と。いや、現実にフィジカルとしてしっかり存在するだけ、そちらのほうがよっぽどマトモなのかもしれない。自分がいま夢中になろうとしているのはデータで構築されたヴァーチャルな存在の女性に過ぎないのだから。しかし、そのことを前提としていてさえ、橋枝君にとって「もうひとりの渚さん」には、どこか抗いがたい魅力がある。

「なんで渚さんをこの世界につくったんですか」

 むしろ怨み節さえこめて橋枝君は松永に言った。

「コンサルジュなのよ。この世界の。見ためもいいしいっしょに働いててわかるだろうけどとにかくプロフェッショナルな性分だからそういう役割も普通にこなせそうでしょ」

「だいいち、本人に内緒でって、人権とかどうなってるんすかね」

「いまさらだけどそういう洒落たことに気をまわしそうな連中だと思うわけ」

「そうですけど」

 鳥が窓ガラスに体あたりしてきた。とうぜんのように窓ガラスにはヒビひとつ入らない。鳥は失神したのか、白目をむいて窓ガラスをゆっくりとずり落ちていった。ガラス越しでも羽根や体毛の一本一本にほんものの質感があるのがわかる。それをわざわざデモンストレーションするために、こういうアクシデントをランダムに演出しているのではないかとさえ橋枝君は疑ったくらいだった。

「ここまでリアルにつくらなくてよかったかもねえ」

 橋枝君の視線を追って松永が呟いた。

「気になるんすけど、渚さん本人がこの世界に来たときはどうなるんすか」

 松永は唸りながら顎に指をあてる。

「どうなるんだろうね。そこまで考えてやっているわけじゃないから。ほんものの渚ちゃん自体は別データとして処理されるだろうから問題は起こらないはずだよ。問題は渚ちゃんが来るときまでに本人の許諾を得ていなかったから怒り心頭になるってくらいじゃない」

「怒るでしょうね」

「んまあ怒るだろうけどだいすきなお兄ちゃんのやったことだからさ」

「だいすきなお兄ちゃん?」

「渚ちゃんちょっとブラコンこじらせてんのよ。ブラザーコンプレックス。中学生になってもいっしょにお風呂入ってたそうだしいまだにお兄ちゃんの奥さんに会うと睨みつけてくるそうだから」

 橋枝君は渚さんの言っていた地獄の猟犬のことを思い出した。そうか。だいすきなお兄ちゃんだからかばいたかったのか。橋枝君は乾いた溜め息をついた。でもなあ、である。反社やってる兄貴がだいすきって。かばう値うちのない悪党。頭のネジがとんだ犯罪者。いまこうしている瞬間だって、現実世界で犠牲者を生んでるクズ野郎だろ?

 渚さんは正義感のつよい人だ。たぶん村田さんに負けないくらい。だいすきなお兄ちゃんのやることなら許せるのだろうか。橋枝君は渚さんのそういった感情がまったく理解できない。理解したくもなかった。しかし渚さんのかかえている心の痛みだけは、地獄の猟犬という、どこか子供じみたメタメルフォーゼをつうじて、ひしひしと伝わってくる。それが橋枝君には妙に切ない。

 役員のなかに兄弟がいることくらい、屋上で話したときにでも言ってくれたらよかったのに、と橋枝君は思う。話してくれなかったのは、そのまま渚さんと橋枝君の距離の数値を明確に表している。そんなこと橋枝君だってわかっている。だからよけい悲しいのである。

「データ上の渚さんはどこにいるんすか」

「たぶんこのデスパートのビルの前に立ってるんじゃないかなあ。プロジェクトの途中で子会社への移動がきまったからこの世界に来るのは僕もかなり久しぶりなんでよくわからないけど」

「ビルの前でぼうっと突っ立ってるんすか」

「それが彼女の役目だから」

 橋枝君は低く唸った。なんという人権軽視。その声には役員はもちろんのこと、松永にたいする非難も盛大に含まれている。

「データ上の渚ちゃんには苦にならないのよ。そういう変更プログラムもされてるし」

 松永は言いわけするように言った。

「変更プログラム?」

「性格のデータを忠実に打ちこんだらそのまま現実の渚ちゃんになっちゃうからちょっと手を加えてあるのよ。いくらプロフェッショナルな子だからといって休みもなく仕事させてたらストレス半端ないでしょ」

「休みもなくぅ?」

 橋枝君はガチギレの声と表情で松永に掴みかからんばかりに言った。俺の渚さんをなんちゅうつかいかたしてくれちゃってんすか、と。

「渚さんは不満を感じないんすか」

「そのためにまったくストレスを感じないよう変更プログラムを加えてるんだってば」

「いや、そういう問題じゃないっしょ。この世界の渚さんはかぎりなく生身の人間に近いんすよね?」

「だからいろいろと変更を加えていると言ってるじゃない」

 筋金いりのピュアなアホとどうどうめぐりの議論になりそうな予感。低レベルの時耐久レース。しかし早くも橋枝君の抗議の語彙が尽きてしまった。お題目自体はソクラテス的になかなか高度な次元のもので、疑問という頭が結論という尻尾をくわえこんでいるという、いわばメビウスの輪的な要素も含まれているから、それに対抗するだけの独創的な持論がなければ、早い時点で論点をすりかえるしかないのだ。それはピュアなアホにも本能的にわかった。

「松永さん、人間っすよね?」

「たぶん」

「温かい血のかよった人間っすよね?」

「まあたぶん」

「生身の人間に近い人間を休みなく働かせることに罪悪感をおぼえないんすか」

 松永は黙った。論点をすり替えてきたと思ったら、あっというまにもとのお題目に戻ってしまった。ピュアなアホが手をつけるにはテーマがいささか高尚すぎるのである。橋枝君の声にも、もういきおいというものがない。松永は優しい声で言った。

「橋枝ちゃんこの話題変えようか」

 橋枝君は素直にこくんと頷いた。

「他にも変更を加えてるんすか」

「ええとそうねえ。渚ちゃんは英語も喋られるし中国語も喋られるしラテン語も喋られるしフランス語も喋られる。まあここらへんの変更は簡単だったけどね。言語を翻訳するわけじゃないから」

「ああ、なるほど」

「あと他に食欲もないしそもそも食事しないし排泄の類いもないし疲労やストレスも感じないし自分の立場に疑問を持たないし性欲もない」

「性欲がない?」

 いささか食い気味な橋枝君の問いかえしに松永はたじろぎながら答える。

「案内の仕事をしてもらうために作成されたわけだからそんなの必要ないでしょ」

「そりゃそうですけど。でも恋愛感情はあるんすよね」

「誤解をあたえる言いかたしちゃったかな。わざわざ恋愛感情のデータを打ちこんでないってだけ。そもそも僕らだってそういう感情がどこからくるものなのか明確にわかってないでしょ。ていうかなんかこれ橋枝ちゃんおもいっきり期待しちゃったりしてない」

「してないっすよ」

 ピュアなアホは顔を真っ赤にして鼻と耳から蒸気を出さんばかりである。

「くれぐれも渚ちゃんに変なことしたりしないようにね。たとえばだけどもし仮りにこの仮想空間に来た人間がよからぬ気を起こして渚ちゃんを襲っても渚ちゃんは抵抗しないようにしてあるの。こっちに来た人間同士が殴りあうのはまたべつの話だけどデータ上の渚ちゃんはデスパートの所有物になるわけだから誰かに肉体的な危害をあたえて訴えられたらとんでもなく面倒くさいことになんのよ」

「この世界に来た、データではない人間がケガしたら、現実の人間もケガするんすか」

「いやそれはないのよ。あくまで現実世界とはパラレルなわけだから。でも現実の世界の法律が適用されるけどね。ほんとうはこの世界用にいちから法律をつくりなおしたかったんだけどそれやると国の営業許可がおりにくくなるから断念したのよ」

「もし渚さんが襲われた場合、誰がその人間を処罰することになるんすか」

「将来的な話になるけどこちらで雇ったデータではない警察官なり裁判官てことになる。データの渚ちゃんには法律は適用されないけどデータの渚ちゃんになにかした人間には現実の法律が適用されるわけ。だからそういう法整備も含めて実際にこの空間を商業化できるのはだいぶさきのことになるんじゃない」

「ややこしいっすね」

「うんややこしいのよ。仮想空間の設定なんかよりも法的な整備をクリアするほうがよっぽど難航してるもん。前例がないからこれ専用の弁護士を十人も雇ったのよ」

 橋枝君はあらためて周囲の風景を眺めてみる。窓ガラスの光の反射ぐあいや、壁かけ時計の秒針の動き、体重のかけかたで変わる絨毯の毛足の絶妙な跳ねぐあいなど、現実世界となんら変わらない。目の前に立っている松永だって、妙につるんとした肌つやのよさや癖毛の質感など、精巧に再現されている。

「ちょっと待ってくださいよ。どうやって松永さんは再現されてるんすか。着ている服もおなじだし」

「現実世界で僕らが寝かされているところがスキャナーになっているの。病院のエックス線検査の寝台を思い浮かべてほしいけどああいう風な装置で全身のデータを読みとられて橋枝ちゃんのつけてるアイマスクに送られてるわけ」

 橋枝君は唸った。

「だいぶ高くつきそうな装置っすね」

「携帯電話とかもそうだったけど庶民の手にとどくまでにはそれなりに時間がかかるものなのよ。でもいったん加速がついたら普及するのは案外早いんじゃないかと僕は睨んでるんだけどもね」

「この世界の渚さんもその頃にはまあまあの歳になってるんじゃないすか」

「渚ちゃんは不老不死なのよ」

 松永はなんでもないことのように言う。橋枝君はぽかんとした。

「ん……つまりこの世界の渚さんは死なないってことですか?」

「だってデータに過ぎないんだもん。彼女の役割が終わって抹消されないかぎり渚ちゃんはこの仮想空間で永遠に生きつづけるわけ。歳もとらずに」

 たしかに渚さんのような人は永遠の命を宿すのにふさわしい女性ではある。橋枝君は心の底からそう思う。しかし現実の渚さんがこの仮想空間に来て、歳をとらないヴァーチャルな自分を見るのは、どんな気分なのだろう。永遠に若い自分を見る気分というのは。複雑な嫉妬をおぼえたりはしないだろうか。

「でもいろんな経験をすれば、精神的には成長するんじゃないんですか」

「理論上はね。僕もプロジェクトの途中で抜けてるからもしかしたらそういう可能性もブロックされてたりするかもしれないけど。でもさこの世界を案内する役割をこなしているだけで精神的に成長するもんなのかな」

 この世界に生きるヴァーチャルな渚さんは、ある意味でいっときの瞬間を切りとったに過ぎない。それはちょうど虫の標本のような感じ。現実世界のほうの渚さんの精神的成長とシンクロさせてデータをそのつど更新すれば、ヴァーチャルな渚さんも精神的に成長していくのだろう。しかしごくごく限定的な任務を課せられた渚さんにその必要はないわけで。ヴァーチャルの渚さんは見ためだけではなく、精神的にも若いままなのだ。見ためが若いままならそのほうが自然なのかもしれない、と橋枝君は思う。

「つまりこの世界の渚さんは永遠に美しいってことっすよね」

 夢見るような目で橋枝君が呟くのを、松永はどこかいぶかしげに見る。

「ううんでもそれってちょっとグロくない」

「グロい?」

「グロテスク。いつか消えてしまうから生き物というのは美しいわけであってね。もしクレオパトラや楊貴妃やマリリン・モンローが若いままでいまも生きつづけていたとしら僕らは彼女たちをはたして美しいと思うのかな。生き物として微塵も美しくない僕が言うのもなんなんだけど」

 橋枝君は考えこんだ。しかしもちろんピュアなアホに結論なんて出てこない。

「松永さん、けっこう哲学っすね。学生のときにそっち系の本でも読んでたんすか」

「うんまあ高校生のときにそういうのいろいろかじったかなあ。本しか友達がいなかったし暇もありあまってたから。デカルトやライプニッツやニーチェとかね。でもどの時代の哲学者でもそうだけどああいう人たちは自分の生きている時代の生活様式がずっとつづくと思って当世風の哲学を書いていたわけ。いくら人里離れた場所で世捨てびと状態でコツコツ書いていてもそういう時代の影響からは逃れられないのよ」

「そんなもんなんすかね」

「だから彼らの書いた本は時代の経過とともにだんだんハードコアな修行僧のための指南書みたいになっていっちゃう。時代が変わるというのはそういうことなわけだから。まあもともと同時代の読者にとってもそういった局面がなかったわけじゃないだろうけど」

「こんな風にもうひとつの世界がつくれる時代がくるなんて、彼らも予想すらしていなかったんでしょうね」

「だからこの時代にもまた新しい哲学者が生まれるんだろうけどその哲学者の書いたものもまた時代が変わったら風化してしまうと。ずっと不変であってほしいと願うのは自由だけど問題はこちらが変わっていくってことなのよね」

「どういうことすか」

「美しいと思っていたものが美しく思えなくなっていく怖さと言ったらいいかな。簡単に言っちゃうと渚ちゃんの美しさが不変であっても渚ちゃんにお目目がハートマークな橋枝ちゃんの心が不変だとはかぎらないってこと」

 おなじようなレベルのアホでありながらも、そこはやはり年の功、松永のほうが世はつねに残酷で、自分もまたその「残酷な世」の構成員であることの自覚を持っている。いまはまだ、そんなことありえねえっす、とばかりに松永にたいして子犬のように純情な目を向けてはいるものの、この純真さもしょせん若さの要素が勝っているのではないか、と松永は思うわけである。若さが失われればとうぜんながら純真さもどこかでひゅんと消えてしまうわけだ。両者はあくまでも精巧な歯車のように、たがいに連動していると考えるべきなのである。

「でもまあ、とりあえず渚さんのところ行ってみましょうよ」

 橋枝君がせっつくような調子で言った。松永は嫌な予感しかしない。しかしいつ現実世界に戻れるのか、まったく見当がつかないなかで四六時中、橋枝君が渚さんに接触しないように監視しているわけにもいかないわけで、結局のところ、この世界で橋枝君と渚さんが接触するのは、どちらにせよ不可避なわけである。ようするに遅かれ早かれの問題なのだ。

 松永は仕方なく橋枝君を渚さんのところに連れていくことにした。――いざ現実の世界に戻るときに、渚さんの存在が自分たちふたりにとって足かせにならないことを懸念しながら。


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