第7話 これは詐欺です

 まるで飛行機に乗りおくれて置いてけぼりをくらった旅行客のように、アホふたりはデスパート本社の前で、しばらくのあいだぼうっと突っ立っていた。

「ねえ橋枝ちゃん今日はとりあえずやめとこうよ。アポなしで行っても門前払いのはずだし」

「ここまで来て、なに情けないこと言ってるんすか。さあ行きますよ」

 松永がなにを言っても逆効果である。橋枝君はデート中にキレた女の子のように、とっととさきを進んでいった。がに股でビルのなかに入っていき、受付嬢に用件を伝えている橋枝君の、妙に勇ましい背中を見て、松永はこの隙に自分だけ帰ろうかという考えが頭に浮かぶ。

 今日の橋枝ちゃんはなんか変この感じだとなに言いだすかわかんないしあいつらの癇にさわること言うと僕ちんが監督責任問われてボコられるしでも僕ちんが逃げても橋枝ちゃんはなんの用事で来たのか伝えるだろうしそうなると結局はまた呼びだされてボコられる。

 松永は最上階が天空に吸いこまれるバベルの塔のような高層ビルを見あげた。ああ神さまっているのかしらいるとしたらちゃんと僕ちんのこと見えているのだろうか僕ちんはモブキャラではありませんよ僕ちんの人生ではちゃんと僕ちんが主人公なんですすくなくとも自分ではそういう意識を持っているんだから神さませめてその点だけでも気に留めていてください。

 雲がながれて太陽が顔を出し、高層ビルの窓ガラスに反射して松永の目を射る。宗教心なんてこれっぽっちも持たない松永だったが、人生によくあるように、それがなにやら神さまからのサインであるような気もして、しばし考えた。やがて松永はあきらめたように溜め息をつき、のろのろとデスパートのなかに入っていった。

 橋枝君は受付嬢と揉めていた。

「……ですから当社の役員の名を存じあげていない方を当社の役員にご案内することはできないと、何度言ったらわかるんですか」

 やっぱ橋枝ちゃんてアホなんだよねえ。しかしこのアホっぷりが、松永にはなぜかいとおしく感じられる。自分そっくりの体臭を嗅いだような親近感をおぼえるのである。いっそこのアホと心中するのもわるくないかもと松永は思う。松永は目を閉じて首を振ると、橋枝君の背後から受付嬢に言った。

「諸木はいる?」

「あ、松永さん、お疲れさまです。諸木さんは出社しておられます」

「つないでくれる?」

 受付嬢はにっこり微笑んで内線のボタンを手ばやくピポパと押す。小さな声でしばしの問答。内線をきると受付嬢はまた微笑んだ。

「二十二階の応接室までお越しくださるようにとのことです」

「お越しくださるようになんて言ってないでしょ。よこせ、でしょ」

 それについてはなにも答えず、上目づかいで笑みを浮かべて受付嬢はさらりとごまかした。

「橋枝ちゃんエレベーターはこっち」

 橋枝君が適当な方向に歩きだしたのを、松永は幼児を連れた母親が言うように、ややエッジのきいた声で先導したのだった。

 エレベーターがおりてくるのを待っていると、通りかかった数人が、松永に向かってひどく丁寧な挨拶をした。みな高そうなスーツを着ている。橋枝君は少し面白くなさそうに松永に挨拶してくる人間をかたっぱしから睨みつけてやった。

 静かに扉が開いてエレベーターに松永が乗りこむ。しかし、ここで逃げだしてやろうかという、まさかの考えが橋枝君の頭によぎる。松永なんてどうでもいい。アカの他人だし、人として好きじゃない。そもそもこいつはこれまでさんざんひどい目にあってきたじゃないか。『スターウォーズ』がまた続編をつくるようなものだ。簡単にいえば、正月の鏡餅のようにタンコブのうえにもうひとつ新たなタンコブができるだけの話なのである。

 橋枝君は実際にエレベーターの前で躊躇した。エレベーターの前で立ち止まったままの橋枝君の顔を見て、松永が不思議そうに小首を傾げる。その動作が妙に橋枝君の心を打った。貧困を極めた母親が、小さな子供を置きざりにするとき、子供が不思議そうに小首を傾げるのを目の当たりにした際に湧いてくるのと、まったくおなじ種類の感情を抱いたのだ。橋枝君は泣きそうになった。

 そうなのだ。こいつはこれまでこうやってさんざん置きざりにされてきたのだ。そしていまは俺がこいつを置きざりにしようとしている。橋枝君には松永が子犬のように見えてくる。ダンボール箱に、毛布や丸文字の文章が書かれた便箋とともにいれられ、目を潤ませた子犬である。この俺までがこいつを見ごろしにしかけたんだ、と橋枝君は心のなかで涙ぐむ。そのくせ松永をここまで連れてきたのは橋枝君だったりするわけだが、ピュアなアホにはもうそこまで考えがいたらない。

「松永さん、ひとりでは行かせませんよ」

 その必要もないのに閉まりかけたドアを力づよく手で押し戻しながら、橋枝君は弾んだ声で言う。松永はあきれたような顔で言った。

「当たり前でしょ」



 橋枝君はエレベーターを出てからまだもうちょっと歩くものだと思って油断していた。だからエレベーターのドアが開いて、五人の男たちが赤い絨毯のうえに座ったり机に腰かけているのを見てたじろいだ。と同時にフラッシュバックのようなめまいが橋枝君を襲う。ちょっと待てよ。これって俺が面接受けたあの部屋じゃねえの。

「めずらしいな松永、おめえのほうからうちらに会いたいってのは」

 地べたに座っている男が、昔のVシネに出てくるチンピラ風の粘っこい口調で言った。ダメだ。橋枝君はとっさに思った。俺の記憶に残っているより遥かにたちのわるそうな喋りかたをしている。まだエレベーターのなかに残っている橋枝君は階数ボタンに手を伸ばそうとするが、松永が前に立っている橋枝君の肩を押して、ふたりともエレベーターの外に出る。背後でチンと軽い音が鳴ってドアが閉まり、無情にもエレベーターは静かに下へとおりていった。松永が前に進みながら言う。

「この前セミナーの動画ほめてたでしょ」

「セミナーの動画ってなんだよ」

「投資のセミナーでつかう動画のことでしょ」

「投資のセミナーっていったいなんだよ」

 単に松永がからかわれているだけなんだろうが、往生際のわるい橋枝君は、すべてが松永の妄想であるというウルトラC的展開にまだ期待してしまうのである。

「あんたらがやっている詐欺のことじゃない」

 松永が声を張りあげると、スマホをいじったり、窓ガラスに張りつけた的に向かってダーツの矢を投げたり、シュールな絵面ではあるがベンチプレスでトレーニングに励んでいたりと、めいめい好き勝手なことをやっていた五人の男たちが、いっせいに松永のほうを向いた。ひとりが部屋じゅうに響きわたる口笛を吹いた。

「えらくご機嫌斜めじゃねえか。どうした松永。ていうか、そいつ誰だよ」

「あんたらがほめてた動画のCG部分をつくった子なんだけど前に連れてこいって言ったでしょ」

「‥‥そっちの話はついてんのか?」

「ついてるもなにも動画制作のコンセプトを話さなきゃ細かい指示とか出せないじゃない」

「仲間って言っていいんだな?」

「そこは心配しなくて大丈夫だから」

 役員のひとりが橋枝君にゆっくり近づいてくる。そして拳を頭上にかざした。橋枝君はおそるおそる拳をあてる。おそらくこのやりかたで合っているはずだ。異星人との邂逅。相手が人さし指を突きたてていれば、橋枝君はもちろん人さし指を重ねあわせただろう。

「うーい」

 拳を重ねあわせた当人が低い声で言った。タイミングはずれたものの、他の役員たちもみなおなじ声を出した。だがたぶん橋枝君は、うーい、と言ってはいけないのだ。ピュアなアホにもそれが本能的にわかる。おそらく旧来の仲間同士だけが許される儀式に過ぎず、「新しい仲間」がむやみにそれをやってもいいというわけではないのだ。

「でもなんでこいつこんなにびくついてんだ?」

 松永は無表情のまま直立不動の状態になっている橋枝君を気の毒そうな目で見る。

「新入社員の面接でこういう状態にならなかった子っているわけ。あんたらとウマのあいそうなパリピなタイプは書類選考の段階でかたっぱしから落としちゃうし」

「履歴書の写真をデータに落として耳たぶ拡大してピアスの穴とか見ちゃってるもん。たぶんそんなことしている会社役員って世界でも俺らっちだけだね」

「まだ就活控えてんのにピアス穴ぶちぬいちゃってるクソカスなんかいらねえっての」

「あんたら一年のときからつけてたじゃない」

「俺らは最初から就職する気なんかなかったからな」

「やっぱ雇われるより雇う側だもん」

「ってこの会社つくったの僕でしょ」

「今日はやたら絡むねえ」

「部下の前でいい格好したいんだろ」

「お前がやったのは単に、会社の設立に必要な書類揃えて、田舎の親の土地を抵当にいれて銀行から軍資金の金借りて、経営が軌道にのるまで三つぐらいアイデア出しただけじゃねえか」

「十分でしょうが」

 役員たちが声を揃えて笑う。橋枝君も笑う。いや、つい笑ってしまったのである。役員たちが橋枝君のほうを見る。

「いいねえ。やっぱ人間てのはこうでなくちゃいけねえよな。面白いことがあれば笑うってのがナチュラルな人間ってもんだ。それに比べておめえときたらよ。俺らがなにしても魚みたいに死んだ目しやがって。目の前でおめえのばあさんみんなでまわしてもクスリともしねえんじゃねえか」

「いや笑うわけないでしょ」

「調子こいてんじゃねえぞ。なんで俺らがてめえのばあさんとやらなきゃなんねえんだよ」

「あのさ話噛みあってないよねこれ」

 橋枝君はどうも自分がここに呼ばれたのは自分の「工作行為」が発覚したからではない気がしてきた。こうした連中に、いたぶる対象をじらす傾向が多分にあるとはいえ、このノリからの急転直下は、ちょっと考えられないのである。橋枝君は事前に、カラスの群れのなかに鳩の死骸が落っこちてきたようなエグい展開を頭に思いえがいていた。だが役員連中は橋枝君なんて、もとから眼中にないような感じなのである。橋枝君は安堵した。ゴム風船から空気を抜くように心のなかでおもいっきり息を吐いた。

「そんでなにしに来たんだよ」

「だからあんたたちが前にほめてたセミナー用の動画のCG部分をつくった子を連れてきたって言ってるでしょ」

「ふん。そういえばそんなことあったっけ。松永のくせにアポなしってのは感心しねえけど、まあどうせ俺たちヒマだからな。もう一度その動画観せてみろや」

 松永がちょこまかと動いてリモコンで窓のブラインドをいっせいにさげる。全面がガラス張りなので部屋が真っ暗になった。中央にぽつんとある机のうえのパソコンのキーボードをかたかたと叩き、天井に吊りさげられているプロジェクターが光りだした。

 スクリーンがどこにあるのかと橋枝君が思っていたら、ブラインドそのものに映像が投影されたのだった。縦の尺こそ圧縮されてはいるが、横幅は映画館のそれとほとんど大差ない。天井に埋めこまれているスピーカーから松永の操作するパソコンのクリック音が聞こえてきた。

 投資セミナー用の動画がはじまった。スクリーンには動画開始前のカウントが15から写しだされる。

「おい松永、これ通しで何分あった」

「たしか45分くらい」

「ざけんなよ。俺らがそんなヒマだと思ってんのか」

「死ぬほどヒマじゃないのあんたら。指一本動かさなくてもお金ガポスカ入ってくるんだから」

「CGまで動画とばせよアホ」

 松永はまたパソコンのキーボードをかたかた叩いた。スクリーンに写った理沙と亜梪美がめまぐるしく動く。CG部分まで行きすぎて、ほんの少し巻き戻す。

『絶対に損はしないんだ』

 亜梪美の明るい声が響きわたった。悪の象徴である亜梪美を勧誘する側に設定したのは、むろん制作サイドにそれなりの含みがあってのことである。

『でもそういうセリフって法的にアウトじゃない?』

 理沙はやはり純真な顔で心配そうに亜梪美に言う。亜梪美が言った。

『だってほんとうのことなんだもーん』

 役員たちが爆笑した。橋枝君にはなにがそんなにおかしいのかわからない。もちろんこのピュアなアホにだって、株式投資の世界で「絶対に損はしない」という文言が、一発アウトだということくらいは、知識として頭に入っている。こんなNGワードを女子高生ふたりがあっけらかんと言っているのが、そんなにおかしいのだろうか。そもそも天地のひっくり返った世界を生きているとはいえ、橋枝君は役員連中のねじくれたセンスにはついていけそうもない。

『でもさあ、わたしあんま気が進まないんだよねえ……』

『がたがた言ってないでおとなしく投資すりゃいいんだよ、このメスブタが!』

 亜梪美が腹に蹴りをいれて、理沙は口から血を吐いた。まるで理沙の前にカメラを置いたように血が大画面に飛散してゆっくり滴り落ちる。これがもし『セロトニカ』本編であれば、チーフの許可がおりることはまずなかったであろう、なまなましい描写だ。のちのち報道番組で取りあげられることでもないかぎり、テレビで放送されることはまずありえないので、橋枝君も好き放題やったわけである。

「よくできてんなあ」

「こんだけリアルだとちびるよな」

 当の製作者である橋枝君ですらそう思った。小さなパソコンのモニターでつくっていた時点では、まさかここまでなまなましい写りかたになるとは思わなかったのである。映画館なみのサイズで観ると、はからずもR18指定のホラー作品のような迫力が出てしまったのである。

「これつくったのこいつなのか」

 役員のひとりが橋枝君のほうを顎でしゃくった。反社連中にサイコパスでも見るような目で見られるのは、ちょっと癖になりそうなくらいの快感ではあった。橋枝君の開発されていない部分が、スパナやドライバーでむりやりこじ開けられそうになる。

「そうなのよ凄いでしょ」

「ちょっとスローで観てみようぜ」

「はいはい」

 橋枝君は嫌な予感がする。ちょうどこのあたりにサブリミナルの画像を挟みこんだのである。松永がまたパソコンのキーをかたかた叩いて動画を巻き戻した。「絶対に損はしないんだ」のセリフのところまで戻る。橋枝君の顔から血の気がひいた。松永がキーボードを叩いてスロー再生に設定したので、理沙と亜梪美はゆっくり動いていたが、とつぜん画面が白くなった。

 


         そんなわけありません


 

 画面にでかでかと文字が表示された。

「なんだこりゃ」

「うんなんだろうね。セル画の挿入ミスかな。一枚だけだとほんの数秒なんでチェックから漏れちゃうこともあるらしいよ」

 橋枝君以外の全員が、死体のダイイングメッセージでも解くように、じっと画面に見いっていた。文字は一瞬で消えるというわけでもなく、スロー再生にありがちな微妙なブレかたで、しばらくのあいだ画面に写しだされていた。やがて役員のひとりがはっと目がさめたような感じで口を開いた。

「おい松永、このままスローで再生してみろ」

「女の子が血を吐くのはもうちょっとさきだよ」

「いいからやれって」

 また画面に文字が写しだされる。

 

 

        法的にアウトです


  

 女の子ふたりが超スローで喋っているので、なにを話しているのかは聞きとれないが、おそらく「でもそういうセリフって法的にアウトじゃない?」であることは、誰しもが容易にわかった。そしてつぎに写しだされたのは、念押しのような言わずもがなのこんな文字である。


 

        これは詐欺です



「へたな細工しやがって」

「やってくれやがったな松永」

「いやなんで僕なの」

「こんな弱っちいやつにこんなたいそれた真似できるわけねえだろ」

 橋枝君は白目をむいたまま微動だにしなかった。まずい、というきわめてシンプルな言葉だけが、1960年代につくられたSF映画に出てくる宇宙人が発する声のように、原始的な鉄板エコーがかけられた状態で、橋枝君の頭のなかをエンドレスにループする。

「村田君の可能性だってあるじゃない」

「村田っちは言いたいことがあったら俺らに直接言いやがるよ。あいつはそういうまっすぐなやつだ」

「面と向かって文句言う勇気もねえくせしやがって、陰でこそこそこんな小細工してマジで情けねえ野郎だな」

 なんだろうこの胸に刺さる言葉は。その言葉は刃の磨がれたナイフのように橋枝君の心をえぐる。松永が批判されながら、実のところ松永を見くだしている橋枝君を松永以下だとこきおろしているという、いわば二重構造になっているので、そのままナイフはぐりぐり突き進んで、橋枝君の激しく脈打つ心臓を貫いていった。自分のことをほとんどなにも知らないはずの人間から的確な批判を受けるほど気が滅入ることはない。

「いや僕じゃないからほんと」

「もし仮りにおめえがやったんじゃないとしても、おめえには責任ってもんがあっからな」

 役員連中は部屋の中央に集まってひそひそ話をはじめる。まだ動画がながれているため、天井のスピーカーからのラウドな音が邪魔して、橋枝君にはなにも聞こえなかった。いや、聞こえていたとしても、いまの橋枝君が理解できる状態であったかどうかは、きわめて疑わしい。

 やがて男ふたりずつにわかれて橋枝君と松永は両腕をとられた。そしてそのまま部屋を引きずられる。

「なにすんの」

 橋枝君には松永がじたばたと足をばたつかせるのが見えた。こうした状況に慣れているはずの松永にしては、往生際がわるいように橋枝君には思える。松永はあんな風におおげさに反応するからずっといじられつづけるのだ。橋枝君は自分に言い聞かせるように心のなかで呟く。たぶん殺されることはない。役員たちもそこまで無鉄砲じゃないはずだ。ひたすらグレーゾーンを漂浪する、ただの臆病者たちの群れに過ぎないのだから。橋枝君は疲れすぎて、なんだか眠くなってくる。壁にかけられたルーベンスの絵がちらと見えた。松永が犬のように吠えた。

 橋枝君はそこからさきの意識がなかった。

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