第6話 タクシーこそわが人生
タクシーは平日の昼間のがら空きの道路をひた走る。車内には最初からずっと、電車の人身事故で行きさきがおなじふたりがむりやり相乗りさせられたような、そんなぎこちない空気が漂っていた。
いっそ松永がビビって車から飛びおりてくれないかなと橋枝君は思う。走行中のタクシーから飛びだして、松永が道路の後方へころころ転がっていけば、とりあえずはデスパートに行かずに済む。後続の車に轢かれず、頭から落ちなければ、命に別状はないだろう。しかしこいつに期待するだけ無駄だなと橋枝君は思う。こいつにそんな度胸などあるわけないのだ。
松永は松永でこのタクシーが事故ることを願っていた。こちらは自分の命が危険にさらされてでも、役員連中との衝突を回避したがっているのだから、さすがに年季が入っている。空想のなかでさえ誰かを巻き添えにせずには気が済まないのだから、いじめられっ子はいじめられっ子なりに、頑迷な思考パターンがちゃんと首尾一貫しているのだ。
しかしピュアなアホふたりのそんな自分勝手な願いとは裏腹に、中年の運転手の男はひどくのんびりした速度でタクシーを走らせていた。
「最近、目がわるくなってきたんですね」
運転手の男がひとりごとのように呟いた。それがのろのろ運転にたいするエキスキューズであることに気づくまで、他のことを考えていたせいもあるが、天然のはいったアホふたりには、わりあい時間がかかったものである。
「視界がぼやっと霞む。それで病院に行ってみたら、緑内障の一歩手前だと言うじゃないですか。びっくりしちゃってねえ」
どうでもええわ。とアホふたりは心のなかで同時に突っこむ。近しい人間ならともかく、しょせん通りすがりでしかないポジションのおっさんのヘルストークなんか聞きたくないのである。しかしそこは日本人の悲しいサガ、橋枝君も気の毒そうな表情を取りつくろって、こう言わざる得ない。
「それは大変でしたねえ」
「はい。でも手術が成功して大事にはいたらずに済みました。おまけにお医者さまから、このままタクシーを運転しつづけてもよろしいとのお墨つきもいただきました。でもいちおうね、退院してから私、社長に相談してはみたんですよ。私みたいな目を患ったものが、お客さまを乗せて大丈夫なのかと」
「はい、はい」
妙な間をあけたので、松永が相づちをいれる。
「私も十八でこの職に就いてから、かれこれ四五年ほどになります。昭和平成令和と三つの時代を、お陰さまで事故ひとつなく、お客さまのおっしゃる目的地まで、無事お届けさせていただきました。いいえこれは自慢ではありません。同業者にそんなことを言ったら笑われます。それはいたって当たり前のことなのです」
着地点の見えない話になってきた。そんな気分ではないのだが、こうなったらこのおっさんに喋りたいこと喋らせてやろう、とピュアな橋枝君は思うのだった。
「とはいえやはりそれは私にとって密かな誇りなのです。今日この日まで、無事故無違反でおのれにあたえられた任務をやり遂げられてきたのは、私の胸につけた、目には見えない透明な勲章なのであります」
ルームミラー越しに橋枝君をちらちら見てくるため、橋枝君は力なく頷いた。
「しかしさすがにノークレームで、とはまいりません。そりゃ世の中いろんなタイプの人間がいますからね。えっ、なんでそんなことに不満を持つの、というクレームをつけてくるお客さまもおられました。昔は面と向かって言われたものですが、時代は変わってしまいました。昨今のお客さまは、車をおりてから、タクシー会社に直接電話なされます」
時代の推移を憂うように、運転手は悲しげな空気を醸しだして間を溜める。毎度語りなれている話なのか、講談調で淀みがない。
「話が脱線してしまいましたね。目を患ったものが、お客さまを乗せて大丈夫なのかと私は社長に相談してたのです。社長はこう言われました。馬鹿を言っちゃいかん。これまで無事故無違反だった君がハンドルを握らんで誰が握る。君なんかたとえ目がなくても事故など起こさんよ。なにをおっしゃるのですか、やめてください、そんなお世辞、いくら社長でもさすがに怒りますよ、と私はそのとき顔を赤くして照れながら、社長に言ったものです。社長はつづけて、それに君からタクシーをとったらなにが残るんだね、と言うではありませんか。私は雷にうたれたような気持ちになりました」
最後に青汁か高麗人参でも売りつけられるんじゃなかろうかとアホふたりはいささか心配になってくる。
「そうなのです。私からタクシーを奪われたらなにも残らないのです。なにひとつ、です。私には妻も子供もおりません。結婚式場に向かう新郎新婦、産婦人科に向かう出産間近の女性なども数えきれないほど乗せてまいりましたというのに、私はタクシーのハンドルを握ったまま、結婚という名の停留場をやり過ごしてしまいました」
うまいことを言った、という風な顔をしてルールミラーから松永を見てくるが、笑ってはいけない類いの話であるのは、ピュアなアホにだってわかる。
「休みの日にさえ、私は焼酎をちびちび飲みながら東京の地図をぼうっと眺めています。つくづく私にはタクシーしかないのであります。たまに酔った頭で、ああ、こりゃいかん、これでは飲酒運転になる、と思って、口からぶっと酒を吐き出してしまうのだから、われながら困ったもんです」
本人が笑ったのでアホふたりも安心して笑った。
「私は復帰してからこの仕事をつづけられることに、心の底から感謝いたしました。数ヶ月ぶりにタクシーの運転席に腰をおろすと、この革のシートが実になんとも座り心地がよいのです。私にはまるでこの車が、おかえり、と言ってくれているように感じました。その日、晴れていたせいもあって、私は意味もなく東京じゅうを走らせたものです。おまけに復帰してから最初に乗せた上品なおばあさんが、最近のお客ではめずらしく、降り際にありがとう、と言ってくれたものだから、私はもう有頂天です。私にはタクシーしかないのです。目の病気があらためてそれを教えてくれました。お陰さまで、復帰してからも無事故無違反でやらせてもらっております」
そりゃよかったですねえ、とアホふたりは心のなかで半ばふてくされた声で呟きながら窓の外を眺めた。
「ですが三日前からまた視界がぼやっと霞むんです」
おいおいこれなんか期待の持てそうな話だぞとピュアなアホふたりが淡い期待を抱きはじめた。縄をかけて引っぱられでもしたように、ふたりの視線が運転手のハゲ頭にあつくそそがれる。
「白濁というんですか、テーブルに牛乳でもこぼしたようにまだら模様がぽつぼつ浮かぶんです。私は顔面蒼白になって、また病院に駆けこみましたよ。すると先生はこう言いました」
話を聞いていたアホふたりは固唾を呑むが、カーヴにさしかかったため運転手はいったん黙りこんだ。横断歩道なので自転車に乗った男の子がゆらゆらわたるのを待つ。そんなときの運転手の目つきはやはり鋭かった。車がカーヴをまがると運転手はふたたび口を開いた。
「先生はこう言いました。単なる眼精疲労です、と。 処方してくれたお薬を飲んだら、たちまち治ってしまいましたよ。現代の医学の力というものはすごいものですねえ」
ピュアなアホふたりの落ちこみぶりは語るまでもない。と同時にタクシーが路肩に止まった。松永にとっては見慣れた、橋枝君には見おぼえのある威圧的な高層ビルが目の前にたち聳える。
「到着いたしました。デスパートというのはここでよろしかったんですよね。ご乗車ありがとうございました。安全運転でお届けさせていただいたのは、この私、塩田と申します者でございます。今後ともご愛顧のほどを」
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