第8話 死後の世界?

 ふたたび橋枝君がめざめたのはおなじ応接室だった。

 窓のブラインドは全開になっていて、日が燦々と射している。よく晴れている。それにしてもよく晴れている。

 床の赤い絨毯のうえにそのまま寝ていた。なにぶん毛足が深いので、橋枝君の実家でつかっている煎餅布団で寝るよりか、よほど快適ではあった。橋枝君はもう少し寝ていたいのを堪えて、とりあえず上半身だけ起こしてみる。

 部屋には赤い絨毯以外になにもなかった。机も、パソコンも、あの場違いなベンチプレスだってない。天井を見あげたがプロジェクターもスピーカーもなかった。不思議なことに、埋めこみ式だったはずのスピーカーは、天井から抜きとった痕跡さえなく、最初からそんなものなかったみたいに、天井は平らでなのある。

 だがそこはさすがピュアな天然、反社の連中だったら、それくらいお手のものなんだろうと考えた。自分がどれくらい寝ていたかはわからないが、そのあいだに高い金を払って業者を呼んで、綺麗に穴を埋めさせることくらい、連中には朝飯前なのだ、と。

 とはいえ、どうしてそんなことをするのかが謎だった。橋枝君はアホなりにじっくり考えてみる。

 証拠隠滅のため。つまり、自分は組織にとっていわば裏切りものである。役員連中にしてみたら、こってりコテコテのお仕置きとか月にかわってしてやりたい。とはいえ、橋枝君に手をかけることは、道義的(ん? 道義的?)に許されない。だからいっそのこと役員連中は橋枝君とデスパートを放りだして逃亡しちゃいました。最初からデスパートなどという会社など存在しなかったように、自分たちのそっくり存在を消した‥‥

 ‥‥わけがない。そんなおおがかりなことをやるくらいだったら、動画を抹消して、自分や松永にそれ相応の制裁を加えたほうが、だんぜん手っとりばやいのである。しかし天井の埋めこみスピーカーを引っこ抜く。という手間のかかることをやる意味がわからない。とはいえ橋枝君のちっちゃな脳みそでこれ以上考えても仕方なかった。

 橋枝君はえいやと立ちあがって窓際まで歩いていった。高所恐怖症ぎみの橋枝君はおそるおそる窓の下を覗きこむ。

 車ひとつない。ひとっ子ひとりいない。どう見ても都心の真っ昼間の光景ではなかった。

 これが死後の世界っていうやつか、と橋枝君は思った。俺は反社連中に殺されたんだ。短い人生だった。嗚呼。嗚呼。悔いばかりの人生だった。橋枝君は涙ぐむ。ていうか死後の世界って生前世界の延長なのか。ガネーシャがトリッピーな柄の服を着て出迎えてくれる酒池肉林の楽園じゃあないの。

 ひょっとすると生前世界の延長を永遠に生きること、それがすなわち地獄というものなのかも。生きているあいだにわるいことらしいわるいことをした記憶がないので、てっきり自分が天国に行ったものだと早合点してしまったが、よくよく考えてみたら、善行らしい善行もした記憶もないので、自動的に地獄コースということになるんだろうか。

 いやそもそも善悪の基準が神さまとは違うのかもしれない。中学のときに友だちの母親を思い浮かべてマスをかいたのは、罪悪感こそハンパなかったが、地獄に落とされるほどのものでもないはず。けっこうエグい設定でヌイちゃったけど、でもあれ頭のなかだけのことだもんね。それとも万能なる神さまはあんな無秩序このうえない狂気世界を覗き見ておいでだったのか!

 生きてるあいだに宗教がらみの本を一冊でも読んでおけばよかったと思うが、あとの祭り。聖書とかマントラとかカーマストラとか大月隆法とかちゃんと読んでおけばよかった。いやいや。だいたいそういった類いの本だって、ほんとうのこと書いてるかどうかはわかんないわけだし。嘘八百のならべ得。実はどれもマルコ・ポーロの極東ウルルン滞在記なみのトンデモ本だったりして。

 はあ、と橋枝君は溜め息をついた。

 俺はやりたいことをなにひとつやれないまま死んでしまったのだ。という切ない思いがどんどん募る。あれもしてみたかった、これもしてみたかった。時は金なり。大嘘だ。時間ほど値うちのあるものなんて他にない。生きているとき、なんであんなくだらないゲームばっかしてたんだろう。物理的に可能なら生前の自分の尻にライダーキック食らわしてやりたい。

 サーフィン、スカイダイビング、海外旅行、宇宙遊泳、路上で寝る、思い残したことはいろいろとあるが、わけてもピュアなアホには、なぜかディズニーランドやUSJに彼女と行けなかったことばかりが悔やまれるのである。といってもいまのところ橋枝君に彼女なんていなかったのだが、ディズニーランドやUSJは、橋枝君にとってはタジマハールやマチュピチュのような、死ぬまでに一度は観ておきたい歴史的建造物なんかよりもよっぽど厳かな威光を放っていた。そしてその威光も、いまとなっては手のとどかないところで煌々と輝いている。

 橋枝君の頬に静かに涙がつたう。子供の頃にジュニアサッカーチームに所属していたとき、敵チームに点をとられるたびに、橋枝君は悔やしくて声をあげて泣いたものだった。そのたびに角刈りの鬼コーチから、バカヤロウ、泣くんだったら試合が終わって負けてから泣け、とさんざん怒鳴られた。ピュアなアホがそれなりの精神的タフネスを持ちあわせているのは、この鬼コーチのお陰があると言えるかもしれない。橋枝君はその鬼コーチのことが心底好きだった。

 しかし橋枝君は鬼コーチの顔がはっきり思い出せなかった。記憶に残っているのは、サーモグラフィで体温のたかい人を映したように、あかあかとした熱っぽいイメージだけ。そういうアツいところは村田さんとどこか似たところがある。

 いいんすよね。もう泣いちゃってもいいんすよね。橋枝君は心に浮かぶ、顔のぼんやりした鬼コーチに語りかける。試合終わったんだからもう泣いちゃっていいんすよね。ピュアなアホの唇に、一筋のながい鼻水が垂れる。

 いや、まだ終わりじゃない、と橋枝君は首を振りながら思う。意識のあるかぎり、終わりじゃないんだ。こうやって身体も動かせるし。と橋枝君はストレッチをはじめた。こうやってペニスだって自在に。橋枝君はまた泣きそうになる。われらが海賊はうんともすんともいわない。いやこの状況じゃなに思い浮かべてもさすがに勃たないか。

 ずっと落ちこんでいても仕方がない。もしかしたら他に誰かいるかもしれないじゃないか。

 ビルのなかを探索してみようと橋枝君は思い立った。エレベーターは通電していた。ボタンが淡く光っている。電気がとおっているんだったら、死後の世界だってまんざら捨てたものではない。ゲームやりたい放題だし、映画も見放題だし、アニメも見放題だ。なんなら映画館でゲームしたっていいんだ。そもそもソフトやハードはあるのかという問題が残るわけだが、ピュアなアホはもちろんそんな高度な疑問など抱かない。

 とつぜんエレベーターが動きだした。三五階からおりてくる。橋枝君はあんぐり口をあけた。おりてくるのは悪魔か神さまか。はてまた関西弁を喋るトリッピーな柄の服を着た陽気なガネーシャなのか。橋枝君は固唾を飲んだ。

 チンと軽い音が鳴ってエレベーターの扉が開く。なかに誰か立っていた。

「やっぱりここにいたのね」

 松永だった。

「たぶんここだろうと思ったのよ。意識のなくなったところがこの世界の出発点になるから」

「この世界?」

「仮想空間の世界ね。いわゆるVR」

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