第2話 地獄の猟犬

 ビルの屋上から見る夜景は心洗われるように美しい。橋枝君の働いているアニメ制作会社は駅前の一等地にあり、近くに立体道路もあるから、まるでキャンディでもぶちまけたように、色とりどりのイルミネーションやらヘッドライトやらが爛々と輝く。両隣りは高層ビル。かたやオフィスビル、かたや現代の建築技術を見せつけるような角が丸く湾曲した商業ビルで、電光掲示板にディスプレイ広告がめまぐるしく映る。

 この八方から発せられる光源のひとつひとつに、生身の人間の、ぞっとするような邪悪な魂が宿っているというのは、よく考えてみれば恐ろしいことではある。もちろん、まだ邪悪な魂を持っていない人間だっているかもしれない。しかし彼らも『セロトニカ』の理沙が邪悪な魂を宿したのとおなじように悪に染まるのだろう。そしていま、自分がそうなるとは!

 橋枝君は手すりに上半身を預け、しばらくのあいだ呻いていたが、とつぜん発作でも起こしたように両手で髪をくしゃくしゃにする。

 そして大声で喚いた。

 橋枝君は右手を銃に見たてて、歩道橋をわたっている通行人をかたっぱしから撃ち殺していく。俺だってワルくなろうと思えばなれるんだ。

 そうなのだ。この世を生きぬくために理沙が最後にワルになったのとおなじように、俺だって、この世を生きぬくためにワルになるんだ。聖書に書かれているように(たしか)食うのに困ったら万引きするのは許されることなんだ。

 だがその万引きで潰れる店もあるという話をピュアな橋枝君は思い出した。しかし店が潰れるまで何度も万引きを働いているのは、食うに困っているような人間ではないだろう。橋枝君は頭をかかえる。やっていることは同じで、大義だけ異なるというのは、ピュアなアホにはなかなか卸しがたい現象なのだ。

 役員連中のやっている投資詐欺は二十万前後の上限をもうけているという。働いている橋枝君にとって、いやさすがに少額とはいえないものの、人生を左右するほどの額でもない。といっても詐欺の対象はほとんど学生たちだ。たとえこのくらいの少額の被害であっても思い悩んで首を吊る人間がいてもおかしくはないのである。その片棒を担ぐのかお前は。

 食うのに困ったら万引きしてもいいというのはおそらく真実である。死そのものの重みは世のどの罪よりも重い。この定義はどういう状況でも揺らがないはずだ。

 しかし実際問題として自分がアニメ会社を辞めたからといって、食うのに困るわけではないのだから、おおいなる矛盾が生じるわけで。橋枝君はなんといっても天下無敵の実家暮らし。親の小言さえ軽やかに聞きながせば、安泰のあげ膳すえ膳、極楽浄土。ふたたびネトゲの蟻地獄に呑みこまれて、お日さまにしばしのおわかれを告げるのもわるくはない。いけねえ。考えただけで指が疼くぜ。グッバイ、サンシャイン。また会う日まで。

 橋枝君はそこで考えこむ。しょせん会社なんてパーツの寄せあつめ。オイラいち抜けたしても会社が困るわけじゃなし。かわりにもっと優秀なCGクリエイターが自分の席に就く可能性だってある。

 そこが橋枝君はひっかかる。できたらこの椅子は誰にも明け渡したくない。これは身勝手なジレンマなのか。骨の髄まで愛した仕事だろうと、自分なしでも会社がまわっていくという、このなんともいいがたい憂鬱。社会正義と存在意義の天秤。おお、ジーザスクライスト、いったい俺はどうすればいいんだ。ピュア魂のアホな葛藤。

「銃をおろしなさい。でないと撃つわよ」

 背後から聞こえてきた声の持ち主は、工房の紅一点の渚さんである。細身の黒いスーツ姿が今日も麗しい。仕事中はカジュアルな恰好をしているが、通勤服はだいたいこのスタイルである。両手で架空の銃を持ち、片目を閉じて橋枝君を狙っている。さすがにこちらはキマっていて、しかもわざとらしくないのだから、橋枝君もしばしぼうっとみとれてしまう。

「銃で無差別に人を撃っちゃいけないって、橋枝君だって小学校で習ったでしょうが」

 渚さんはふっと銃口に息をふきかける。橋枝君はバツのわるさもあって、でへへと頭をかく。隣りの商業ビルの大型ディスプレイ広告の煌びやかな光に照らされた渚さんはどこかヴァーチャルな雰囲気を醸しだしていた。涼しげな目元、ぷるんとした唇、痩せているのに馥郁とした頬、ながい黒髪は柔軟な鋼といった趣きで、渚さんのルックスには瑕疵というものがない。橋枝君にとって渚さんは崇拝対象であり、畏れおおくて、もはや恋愛対象でさえなかった。

 渚さんはセル画担当である。こう見えて幼少期に『プリキュア』を観て以来アニメにズブズブにはまったガチのアニオタである。コスプレをするタイプの女性にありがちなライトオタではなく、アニメについての豊富な知識はチームの男性陣に勝るとも劣らない。しかし一点豪華主義的にアニメに人生を捧げてきたのではなく、すくなくとも人並みの恋愛経験をこなしてきたであろうことは、世の中にはアニメ以外にも面白いことがあることを前提としたバランスのとれた会話内容や、橋枝君をはじめとした男性たちの扱い方からよくわかる。もっともこれは生来的な性分もかなり作用しているのかもしれないが。

「渚さん勘弁してほしいなあ。‥‥いつから見てたんですか?」

「絶叫したあたりから」

 橋枝君の顔が赤くなる。

「まさかあんなことぐらいで飛びおりとかしないだろうなと思って心配して見てたのよ」

「あんなことって‥‥渚さんにもあの話いっちゃってるんですか」

 反社の魔の手が渚さんにまでおよんでいるとは。しかし考えてみれば松永が全員の了承を得たと言っていたのだから、とうぜん渚さんの了承も得ているわけだ。

「渚さんは平気なんですか」

 橋枝君は思いきって訊いてみる。

「うーん、まあ仕事だから」

 渚さんは一瞬だけ顔をくしゃっとさせて、いたずらっぽく笑った。

「おっぱい見せろとかいうのだともちろん断るんだけど、これってまだ私にとっては許容範囲内の話なわけね」

 許容範囲内、というワードに橋枝君はおおきく頷く。そうなのだ。迷うからこそ許容範囲なのだ。許容範囲だからこそ迷うのだ。心のどこかでそう思っていなければ、松永から話がきた時点でとっとと断っているはずなんだよな。と橋枝君はもやもやした心情をやや強引に理由づける。

「私たちがこれから手を染めるのって、いわゆる間接行為じゃない? 看板をつくれって言われて看板をつくるだけなわけだし。タクシーが銀行強盗を乗せて指示された目的地まで走るようなもの……これを共犯とはいわないでしょ。子会社が親会社の指示を受けて仕事するだけなんだもん。それに私たちなかば脅かされてるようなもんじゃない。そういうことをはっきり言われたわけじゃないけど、役員たちの意思ひとつで子会社の閉鎖なんて簡単にできるんだから」

「でしょうね」

「私たちみんな生活があるんだもん。うー、私って考えが甘いかなあ。でもまあとにかく許容範囲なのよ、私にとっては」

 橋枝君にはだんだん、渚さんもまたそういって自分を納得させているように思えてきた。みんな迷える子羊。たしかに人間というのは平等につくられている。極端につよい人間なんてほとんどいないのだ。でも橋枝君にはそんな渚さんがどこかいとおしくて仕方がない。

「そりゃ嫌は嫌よ、こんなこと。でも『セロトニカ』が大ヒットして給料があがるっていう話があったから、えいやっと家賃の高いマンションに引っ越したばっかだし。まあお金なんて他でいくらでも稼げるんだけど、私ほんとこの仕事好きで辞めたくないわけね……私ってズルいだけなのかな」

 橋枝君はぶるるんと首を振る。違います、僕だってズルいんですと、あやうくどっかの映画で観たようなセリフが口から出そうになるが、生活がどうこうという話になって、さすがの橋枝君も、渚さん相手に「いやあ、俺は実家暮らしなんで職失ってもぜんぜん大丈夫なんっすよ」なんて口が裂けても言いたくないのだ。ピュアなアホでも、そういう矜持みたいなものはいちおう持ちあわせているのである。

「橋枝君は嫌なの?」

 嫌にきまってる。だがなぜか橋枝君は素直にそれが口から出てこない。それを口に出してしまうと渚さん相手に弱音を吐く気がしたからである。渚さんだけには弱音を見せたくない。中学生が高校生にたいして抱く、淡い恋心に似たこの思い。その思いが泡のように漂って空気中でぱちんと弾けた。

「ごめん、こんなこと訊いて。嫌よね、橋枝君みたいにまっすぐな子じゃなくても嫌にきまってる。詐欺の片棒を担ぐなんて誰だって嫌にきまってるもん」

 そのあとの沈黙に耐えきれず、橋枝君は中身のない質問であることを承知していながら、静寂を掻き消すためだけに発した。

「渚さんはああいうことしてる人たちをどう思いますか」

「うーん、……質問を質問でかえしてゴメンだけど、逆に橋枝君はどう思う?」

「頭おかしい、です」

「うん。頭おかしい、よね。頭おかしいよ、ほんと。でもたぶんあの人たちは地獄の猟犬に追いかけられてるの」

「地獄の猟犬?」

「そう、地獄の猟犬。一度魂を売っちゃうと、どこからか地獄の猟犬が現れて、荒い息をしながらこの世の果てまで追いかけてくるのよ。地獄の猟犬に捕まらないためにはまた魂を売らなきゃいけない」

「あの。それって、なにか宗教的な教えみたいなものなんですか」

 橋枝君はやはりおそるおそる渚さんに訪ねる。宗教ってナイーブな話だってことを、ナイーブなアホもきちんとわかっている。

「まあそんな感じかな。子供の頃におばあちゃんに聞かされてた話なの。わるいことをするとこんなことになる、って類いの。こういう話って強烈じゃない? だから記憶にいつまでも残ってる」

「でもなんで地獄の猟犬に捕まらないために、また魂を売らなきゃなんないんですか?」

「地獄の猟犬は魂の匂いで人をかぎ分けるのよ」

 橋枝君はわかってもいないのに、うんうん、という風に頷く。

「魂を売ると一時的に心がなくなるの。そりゃそうよね、魂を売ったんだもん。人間らしい心がまったくのからっぽっていうことになるわけ。でもまたあれこれ考え出すと魂が形づくられてく。煩悩ってやつね。魂を売って、人間らしい心がうしなわれても、思考そのものがなくなるわけじゃない。そしてその再生された魂の根っこにはちゃんと人の良心みたいなものも復活しているわけ」

「あんな人たちでも?」

「そう。あんな人たちでもね。地獄の猟犬は盲目で、魂の匂いしかかぎ分けられないから、彼らの前を素通りしていく。彼らもほっとひと安心ってとこね。うー、ひと休み、ひと休み。でもふたたび魂が形成されると地獄の猟犬はものすごい剣幕で襲いかかってくる。これの繰り返しなの」

「魂を売るのも楽じゃないっすね」

 橋枝君は笑って言った。

「楽じゃないよね。でも彼らは魂を売る前にこうなるってことを知らなかったから。悲しいでしょ?」

 渚さんが話しているのは単なる喩え話ではないのだと橋枝君は思った。それこそ渚さんのおばあちゃんが話していたときとおなじように、痛切な響きをともなっているのではないかと橋枝君には思えた。渚さんのおばあちゃんがそう信じていたように、渚さんもそう信じているのだ。地獄の猟犬の話があくまでメタファーであって、真実ではないと言うのなら、いったいこの世のなにが真実なのだろうと橋枝君は思ったのだった。

「渚さん、ひょっとしてあの人たちに同情してないですか?」

 欄干にもたれかかったまま、ふたりで顔を見あわせる。つよい風が吹いて、渚さんの顔のちょうど右半分ほどにながい髪がはりついた。大型ディスプレイからの青白い光が渚さんの顔を照らした。渚さんが答えをかえしてくるのには奇妙なほど時間がかかった。橋枝君はひどくまずいことを訊いてしまったような気がしてきた。

「同情しているかもしれないね」

 渚さんはなにかを言おうとして、その言葉を呑みこみ、かわりに当たりさわりのない返事をよこしたという感じであった。

 それから渚さんは欄干から身体を離して後ろを向き、一度だけこくりと頷くと、無言のまま階段口のほうまで歩いていった。橋枝君は完全に見えなくなるまで渚さんの姿をじっと見まもっていた。

 仕事が定時で終わると、狙っているわけじゃないのだが、けっこう高い確率でエレベーターで渚さんと乗りあわせる。たわいのない話をしながら駅までいっしょに歩いていき、それぞれ反対方向の電車に乗るので改札口でわかれることになる。さすがにそんなときは後輩らしく一礼して渚さんを見送るのだが、橋枝君はなぜかいつも、渚さんの姿を見ることができるのは今日が最後なんじゃないかという気がしてくる。そうじゃないといいんだけど、と橋枝君は祈るような気持ちでいつもつよく思うのである。

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