世の海は漂流するためにあるもの
登漉勘十郎
第1話 投資詐欺
空から馬が落ちてくる。ちょうど橋枝君と視線がぴったりかさなるあたりで止まった。橋枝君はびくっと上半身をのけぞらせた。握っていたマウスは手から離れ、まるで西部開拓時代のワイルドな絞首刑のように、机の端からぶらんと垂れさがる。
「ひとりだけ残業なんて感心だねえ橋枝ちゃん。仕事熱心でほんと感心だねえ」
無表情の延長といった、形式だけの笑顔を浮かべつつ、感情のないひらべったい声でそう言うと、松永は馬面のながい顔をゆっくりと引っこめる。パソコンで作業している人間の顔を、前屈みになって覗きこむのは、背丈のある松永だからこそできる芸当だ。橋枝君はこれもわざと怒った顔をつくり、首だけまげて背後に立っている松永を見る。
「もう。やめてくださいよ。びっくりしたじゃないですか」
「あのさこの場面ていったいどういう状況なわけ」
橋枝君の言ったことを無視して、松永はパソコンのモニターを指さした。そこには、ロリな顔していっちょまえすぎるほどボインな女の子が、学校の廊下の壁を背にしてへたりこみ、放心した表情で全身に血を浴びている姿が映っている。
「理沙が目の前で由梨花を殺されて呆然としているシーンですよ。第6シーズンのクライマックスじゃないすか。てか、サブチーフのくせに台本に目も通してないんですか」
非難がましいを通り越して、恨めしそうな表情で橋枝君は、古代から屹立する歴史の負を象徴する巨人の像であるかのように松永を仰ぎ見る。
かねてから橋枝君は松永のことを心の底から軽蔑していた。たいした仕事しないわ、部下の仕事をきちんと的確に批評できないわ、この低賃金こきつかい業界で働いている人間に不可欠な根本のアニメ愛がないのがふだんから透けて見えるわ、そのうえ自分の給料の五倍はもらっているのが、ハラワタ煮えくりかえるほど腹立たしいのだ。
橋枝君も美術系のCGの専門学校を出てから、早いものでもう四年。ここにいたるまでにはそれなりに紆余曲折もあった。
就活が難航しだしてから、橋枝君のそこそこ順風満帆な平凡人生にケチがつきはじめる。CGクリエイターというのがもともとニッチな分野であるうえ、やおら即戦力だけが重視されるこの世界で、いくつかの大手の映像制作会社の新卒採用枠が埋まってしまえば、なんの下積み・修行時代も経ていないヒヨッコを欲しがる会社など、そうそうあるわけもなかったのである。
専門学校で凌ぎを削った同胞たちはとっとと見きりをつけ、パソコンのスキルだけを買われ、IT系の会社に拾われていった。そんな同胞たちを尻目に橋枝君だけはあくまでピュアに現実的妥協を突っぱねた。実家に戻って、公務員の両親の100%の支援のもと、生卵の白身につつまれた黄身のごとしゆるゆる作戦、つまり引きこもり生活へと突入したのだ。
最初の数週間ほどはたしかに就活サイトに頻繁にアクセスしたりはしていた。就活サイトの更新は一週間に一回。その時間帯に律儀にパソコンの前に座り、検索キーワードを打ちこむも、ヒット数はきまってゼロ。橋枝君はやがて気ばらしにネットを徘徊しだした。ふとした拍子にネトゲの深淵を覗きこんだとき、ネトゲの深淵のどす黒い闇もまた、子供のようなあどけない笑顔を浮かべる橋枝君を覗きこんだのである。
橋枝君は昼も夜も忘れた。課金すらした。しかし橋枝君には、なにも親の金でゲーム三昧の道を歩もうという邪悪な意思など、一ミクロンもなかった。たとえ自身がそういう身であっても、もしおなじようなことをしている人間がいれば、改心せよとばかり、涙ながらにビンタと頭突きを食らわせていただろう。橋枝君はそういう人間である。真性のアホなのだ。人としてヤバい道をひたすら突き進んでいる自覚などまるでなし。売人にヤク漬けにされたがごとし思考停止した状態でネトゲ廃人への道を極めつつあった。
彼をネトゲの泥沼から救い出したのは、IT企業に就職した、かつての専門学校の同胞だった。複数台の大型ディスプレイと、bluetoothで制御されたサラウンドシステムにかこまれた環境とは対照的に、原始人のようなロン毛の髭面にまで落ちぶれた橋枝君を見た同胞は嗚咽した。一度たりともチェックシャツ姿なんか見たことがない陽キャの代表格みたいなやつだったのによ。あの頃となんら変わらないまぶしい笑顔が逆に物がなしい。
橋枝君がトイレに立った隙に同胞はゲームの味方たちを皆殺しにした。彼のゲームの腕前は二流半といったところだったが、いかにその筋でぶいぶいいわせたツワモノたちであろうと、味方に不意をうたれては全滅もやむなし。当初から橋枝君がチャットで優等生的な言動だっただけに、コントローラーを握っているのが本人とばかり思いこんでいるプレーヤーたちは、オタクたち特有の、相手側の心理の裏の裏を読もうとする習性もあいまって、それが実は周到に仕組まれた罠であったのだと結論づけたのであった。
トイレから戻ってきた橋枝君は混乱した。自分のキャラが味方に撃たれて死んでおり、何度やり直しても、そのたびに味方だったはずのキャラたちが総攻撃を仕掛けてくるのだ。この時点でもはや味方たちは橋枝君の弁明など聞く耳持たず。がっくり肩を落とす橋枝君に、同胞は入社案内のパンフレットを無造作にパソコンのキーボードのうえに投げた。おい同胞、現実にかえる時間だぜ。
しかし結局のところ、橋枝君は同胞の勤めるIT企業ではなく、おりしも立ちあげられたばかりの子会社のアニメ制作会社での採用となった。任されたのは作中の部分的なCG演出箇所の映像製作だったのだから、もともとスマホの待ちうけ画面などのアプリのCGクリエイターを志望していたとはいえ、橋枝君もまあまあ運がよかったのだといえるだろう。
橋枝君だってもちろん子供の頃からアニメやマンガは好きだった。同年代のガチオタほどではないが、一般レベルでは話題にならなかったマンガやアニメだってちゃんと嗜んでいる。あまり深みにはまらなかったのは、落ちつきのない橋枝君の趣味が多種多様であったからである。
だがこの仕事に就いてからはアニメが心底好きになった。自分のさじ加減ひとつで、手垢にまみれたクリシェな情景描写が、CGの挿入によって新鮮な息吹が吹きこまれるのを観るのは、何度経験しても鳥肌が立つくらい感動的だった。作業している際は自分の担当している部分ばかり繰り返し観ることになるが、それが本編に組みこまれてランスルーを試写するときなど、自分がつくったということさえ忘れそうになるのである。
「こんな派手に血しぶきがとびまくって大丈夫なの。深夜帯とはいえこれ放送するの地上波なんでしょ」
モニターには橋枝君のつくったCGによって女の子の顔に何度も血しぶきのとぶ映像が繰り返し写しだされている。しかしよく見れば女の子の顔に血しぶきがかかるのは数秒のことで、画面の手前から血がとぶたびに、女の子の顔はふたたび血のかかっていない状態に戻るのだった。
「これ仕上がりをチェックするためにリピートかけてるだけですから。本編でながれるのは一瞬なんで」
こういうことすら理解していない松永に苛立ちながら橋枝君はしかし冷静な声で答える。松永はビー玉のような目で橋枝君を見た。つくづく感情の読めない顔をしている。松永は口輪筋だけを動かして笑顔をつくった。
「いやさすがだなあ橋枝ちゃんは。でもね今日はそんなことで橋枝ちゃんに怒られにきたのじゃあないのよ」
「じゃあなんすか」
「ええとねえ唐突だけど橋枝ちゃんは反社ってどういうものか知ってるかな」
「反社って……反社会的勢力のことですよね」
「うんうんさすが橋枝ちゃんわかってる。それでここの親会社がデスパートっていうIT企業だってことは知ってるよね」
「ええ。最初はそこで面接受けました」
「うんうんそうだった。たしか学生時代の友だちの紹介だったんだよね橋枝ちゃんは。だったらそのデスパートを興した連中がどういう素性の人間かってのも耳に入っているよね」
橋枝君は嫌な気分になった。デスパート本社で面接を受けたときのことがフラッシュバックのように頭をよぎる。都心にあるオフィスビルの、四方ガラス張りの高層階で、半グレのような格好をした男たちにかこまれた朦朧とした記憶が。いままでに経験したことがないほど空の雲が間近に見えたので、その視覚効果のせいもあってか、最初から最後まで妙に息苦しかった。
部屋には五人ほどいただろうか。ふかふかの赤い絨毯の敷きつめられた、だだっ広い部屋の中央にぽつんと机が置かれていて、ひとりが椅子に座り、他の人間は机のうえに腰かけていたり、窓際に立って電話していたり、意味もなくそこらへんをうろちょろしていた。全員ラフな格好をしていた。深夜二時頃に町を徘徊していた若い人間を適当に見つくろって連れてきた感じ。
若い、といってもとうぜん橋枝君よりは年がうえで、みなだいたい三十前後ぐらい。キャップを被っている人間もいた。その男はジャック・ポロックの描いた絵のような図柄のシャツを着て、エアコンがガンガンきいているのにもかかわらず半袖の下のドラゴンのタトゥーをかくそうともせず、手首にはじゃらじゃらと金色の腕輪をはめていた。もっとも、顔つきはよくおぼえておらず、橋枝君の記憶のなかでいささか戯画化されて、現実以上にワルな顔つきになっているのだった。
彼らがこの会社の役員たちだと聞かされたときには橋枝君も腰が抜けそうになった。彼らはぶっきらぼうな調子でどうでもいいことを(と橋枝君には思えたのだ)いくつか質問したあと、子会社のアニメ制作会社で採用する旨を伝えのだった。
橋枝君は勤務初日にパソコンのモニターの前に座ってからもまだ半信半疑でいた。きっと途中で画面が切りかわってオレオレ詐欺の講習会になるのだと信じて疑わなかった。ようやっと自分が無事にアニメの制作会社に就職できたのだと心の底から安堵したのは、それから約三ヶ月後のことなのだから、ピュアはピュアなりに用心深い。
「ええまあ、だいたいのところは……」
「周知の事実だもんね。そりゃバレちゃうよねえ親会社の役員たちがサングラスかけて短パン姿でガム噛みながら視察に来たりしたら。はは」
いまでは天職とさえ思っているアニメ制作の元締めが反社の会社という事実は、橋枝君の気持ちをいつも暗くさせる。なんだか自分のつくっているアニメが穢されたような気分になるのである。関係ある。関係ない。と、無垢な乙女が川辺で膝をくずして、クローバーを一枚ずつちぎっている感じ。好きになった女の子がヤクザの娘だったりしたらこんな気持ちになるのだろうか。
「まあ反社といってもがっつり犯罪行為を営んでるわけじゃないのよ。あくまでグレーゾーン狙い。具体的にいうと株の投資詐欺やってるのね。上場されていない未公開株への投資。名目上はある種の体験学習なのよ」
「体験学習?」
「うん。初心者のための資産運用講座。投資させる相手にいちおうそのことを早口で説明してはいるみたいだけど。まあそんな感じでレクチャーする過程でではやってみましょうと実践的に投資させるわけ。資金をいったん電子マネーに両替させて投資させるから相手もいっちょガチャやってみますか的な軽いノリになっちゃうみたいね。ていうかこっちがそういうノリで話を進めていくみたいだけど」
橋枝君はネトゲでひたすら親の金を溶かしていた暗黒時代を思い出して、背筋がぞくっとした。
「といっても昭和にいた捨て身覚悟でダークゾーンに振りきってたサムライスピリットな詐欺師たちみたいにお年寄りなんかターゲットにしないの。子供が騒ぐから」
たしかに子供がひっかかるよりも、親がひっかかったほうが騒がれるというのは、橋枝君にもわかるような気がする。いつか自分のもとに遺産という形で還ってくるお金が、悪意ある第三者の手にわたったとなれば、少しでも回収したいと思うのが人間の普遍的心情というものである。それはピュアな橋枝君にもなんとなくわかる。
「上限を二十万くらいにして学生の子たちに小遣いや仕送りやバイト代なんかを投資させるの。といっても消費者金融に借金させたりはしない。借金が膨らんじゃうとそれはそれでまたべつの地平線でややこしい話になっちゃったりするわけだから」
「刑事訴訟されたりする可能性はないんすか」
「定期的に配当を出したりするからね。といってもある投資者のお金が他の投資者にまわるいわゆるポンジスキームってやつなんだけど。それが法的なアリバイづくりみたいな役割をはたすことにもなるわけ。顧問弁護士が用意した言いわけというのがまた洒落ててね。うちがやっているのはあくまで若者向けの体験型『投資ごっこ』なんですと。そんなわけだからもちろん大局的にみたら投資者が大損こくような仕組みになってる」
「パチンコみたいなもんすね」
松永は頷く。
「二十万ってとこがほんと絶妙だよねえ。それくらいだったらまあ社会勉強のうちと言ったらかわいそうだけど本人もあきらめがつくじゃない。親も騒がないし裁判費用のほうが多くかかっちゃうから弁護士のもとに駆けこむこともない。泣き寝入りっていうお馴染みの言葉のなかに万事が丸くおさまるってわけ。実際そうなってるんだからすごいよねえ」
「ううん。でも実際に民事とかで裁判起こされたらどうするんですか」
「やつらの雇ってる顧問弁護士に聞いたことがあるんだけどそうなったら示談に持ちこんで騙しとったお金全額返金しちゃうんだって。もちろん裁判費用もこっち持ちで。全額返金しちゃうと相手はもうそれ以上アクションはとれないじゃない。お金をとった。お金を返しました。の話に過ぎないわけだから。道義的な問題はべつとして」
「でもそんなのずっとうまくいくとは思えないんですが」
筋金いりのピュア魂の持ち主である橋枝君はせめてもの抵抗を試みる。
「駄目だったら駄目でまたつぎの展開を考えるんじゃない。そんなことばっかしてるから汗水たらして働くことがバカバカしくなっちゃうんだよねえ。IT企業が稼ぐのは年商二十億。投資詐欺で稼ぐのが二億。たかが二億されど二億。もちろん税金なんか抜かれないいわば純利益なわけだから辞めるに辞められないんだろうな。捨てさるにはあまりにも惜しいのよ。世間知らずの強欲たちがそのまんま市場になってんだからそりゃ世の中から詐欺がなくならないわけよね」
橋枝君はかねてから社内で噂になっていたことを、この際だからと松永に思いきってぶつけてみた。
「松永さんて、デスパートの役員たちとおなじ大学だったんですよね」
松永の身体がこわばる。社会情勢の話からとつぜん恋愛遍歴の話に変わるような展開に、松永は川からあがった犬のようにぶるっと震える。そこは触れられたくなかった。
「突っこんでくるね橋枝ちゃん。その話ってわりとタブーな感じ醸しだしてるはずなんだけど」
そりゃないよ橋枝ちゃん空気読めそうな顔してずけずけとそんなこと聞いてきたりしちゃってさそうなのよ講義中あの連中のフリーズした私物のノーパソを脇腹蹴られながら再起動まで持ちこんであげたのが運の尽きぶさいくなくせにお前なかなかやるよなあと目をつけられてテストも解いたさきから机の下で一斉送信やつらの行きつけの居酒屋のバイトの穴埋めいやなんでよ卒論も各自せっせせっせと文体まで変えて書いてあげて大手商社の就職きまってはあはあやっとこの連中と縁きれるわと思ってたら首ねっこ掴まれてむりやりデスパートを立ちあげさせられておまけに役員からははずされてさそのうえオシャンテイで意識高い系全員集合なオフィスでひとりだけルックス浮いてて僕のせいじゃないよなあお前ちょっと小汚ないし着てる服もダサいからって理由だけで子会社に出向させられて子供の頃から勉強ばっかりでアニメなんて見たことないのに面がオタク顔だから部下によけいに馬鹿にされるしでたまに死にたくなるの嘘でしょ橋枝ちゃんそれほんとに僕の口から言わせちゃうわけいやんもう純粋って怖いわあ。
「松永さんも大変っすよね」
そういう感想を笑いながら言うもんじゃない。松永の泣きそうな目がそう訴えている。
「あいつら学生の頃からそんなことばかりしていたからね。また小動物がどっからかエサ拾ってくるみたいにグレーゾーンを見つけてくるのが妙にうまいのよ。スポーツの推薦枠で入ってきてまわりのレベルの高さにいじけちゃってていう連中の集まりだから学力はそんなに高くないんだけどさそういう嗅覚だけはなみはずれてるのね」
「スポーツに秀でてるのとなんか関係あるんですかね」
「不正な金塊を掘りあてるのがうまいのと関係あるのかってこと? ないと思うけど」
「万がいち捕まったらどうするんですか」
「投資詐欺が問題になった場合にそなえてスケープゴートを用意しているって話は聞いたことあるけど」
「そうなると松永さんの出番っすよね」
面白そうに笑う橋本君の丸っこい頬っぺたを、松永はあえて右手の甲でビンタしてやりたくなる。
「僕じゃないみたいなの。一度でもデスパートに籍を置いたことのある人間に捜査の手がおよぶのが嫌らしいのよ。こっちはこっちで不正な会計処理とかやってたりするから。僕はそれを知っているわけだし逮捕されちゃうとべらべら喋ってしまうヘタレってことももちろんよくわかってるのね。やつらはデスパートともども共倒れって線だけはなんとしても避けたいのよ」
「ちょっと待ってください。つまりそのスケープゴートが僕ってことですか」
いつもは隔離された不穏な政治思想家のように上役部屋に閉じこもって、めったに現場にまで足をはこばない松永が話しかけてきた理由が氷解して、橋枝君は青ざめる。松永はにんまり笑う。
「橋枝ちゃんどう見ても黒幕な感じゼロじゃない。いや逆に橋枝ちゃんみたいな風なのが説得力あるのかな。おおこんな普通のあんちゃんが投資詐欺の首領だとは実に令和な感じだって。でも良くも悪くもあの連中は橋枝ちゃんのことなんかとっくに忘れてると思うのよ」
虐げられしものの秘かな優越感、俺は存在を認められているだけマシなんよ、そんな空気を恥ずかしげもなく顔からにじませる松永に、橋枝君は同情すら感じる。たしかに救うべき人間は社会不適合者だけではない。社会でフツウに働いている適合者のなかにもおおぜいいるのだ。真正ピュア魂の持ち主である橋枝君は心のなかで泣きそうになる。
「実はね連中のやってる投資詐欺のセミナーにアピール動画を導入しようっていう話が持ちあがったんだ」
「ふえ?」
「セミナーで若い人たちに『セロトニカ』に出てくるキャラをつかって動画つくって投資をわかりやすくアピールしてもらうの」
橋枝君は野獣のように低く悲鳴をあげる。いまの橋枝君にとってアニメはもはや犯されざる聖域である。生命をあたえ衣食住をあたえてくれた親の命よりも尊い。そこに犯罪の片棒を担ぐ役割をあたえようなぞ、教典に小便すなわち言語道断である。
「冗談じゃないですよ。そんなことしたら僕らだって共犯で捕まっちゃうじゃないですか」
「うーんあの連中はそんなことどうでもいいんだよねえ」
松永の平坦な声には一線を超えているという自覚もない。さんざん反社連中にアゴでつかわれて、そこらへんのところが麻痺しちゃっているのだ。
「だいたい女子高生同士が殺しあうアニメのキャラつかうって、どういう神経してるんすか」
「だって若い人たちに人気あるんでしょ」
松永は自分んとこのつくっているアニメなのにどこか他人事のように言う。まあ毎度のことなのだが。
「そりゃ女子高生同士がリアルに殺しあうんですもん。人気出ないほうがおかしいでしょ」
橋枝君がややキレ気味にそう言うと、今度は松永のほうが怪訝そうな表情をする。その表情を見て、橋枝君も松永とおなじくらい怪訝そうな表情をする。やっぱりこいつはアニオタの心理なんて微塵も理解してないのだ。てな感じで。
「チーフは了承してるんですか」
「んまあ雇われの身だしね。役員たちがどういう連中かも知ってるしでふたつ返事」
「ぼくはやりませんよ、そんなこと」
「いやあのねこれべつに橋枝君にお伺いをたててるわけじゃないのよ。親会社の決定を伝えてるだけなのね」
「なんすかそれ、親会社の役員たちの横暴さを訴えたはなから親会社の決定だから従えって。松永さん、それじゃちょっと情けなさすぎるじゃないですか」
橋枝君は手のひらで何度もデスクを叩きながら声を荒げた。ある意味ピュア魂のまま反社グループに引きずりこまれることとなった松永と、そんな松永の濁りに濁った天然水とは対照的に、透きとおった雪融け水のようなピュア魂の持ち主である橋枝君の、駄々っ子じみた睨みあい。けわしい目つきで松永を睨みつけ、スーパーでお菓子を買ってもらえなかった子供が、母親に向ける渾身の恨みの目と瓜ふたつである。
「みんな承諾したんですか?」
「ここで働いてるみんながね。最後が橋枝ちゃんなのよ」
「村田さんも?」
橋枝君がとくに尊敬しているアツい先輩である。安っぽい権力闘争系のドラマに出てくる中間管理職のように、松永は静かに目を閉じる。
「あの人たちの名誉のために言っとくけど生活とかお金のためじゃないのよ。自らが存在している理由のある場所と社会正義を天秤にかけて決断したんだからね」
いかにもアホをくすぐる言葉だ。松永も反社グループに根っから染まってしまったのだろうか。いやこの場合は反社グループに全員了承という報告を持っていきたいがために、とっさに出た苦しまぎれの言葉だと考えるのが妥当であろう。部下にこんな話をするのも嫌だが、そこはいじめられっ子の哀しきサガ、連中にフルボッコされるのはもっと嫌なのである。
しかしその殺し文句は松永の想像した以上に橋枝君の心を打った。肩を落とし、腕をデスクのうえに置いて、めぐるめく表情の変化。フランス革命を描写した絵画に出てくる人物たちのように苦悶葛藤絶望祈願悦楽恍惚等々と七変化である。松永は顔がにやけそうになる。
撃ちおとしたな、松永は銃口からくすぶる硝煙に息ふきかけ、冬の木枯らしのなかでコートの襟を立てて葉巻をふかす。こういうときには心のなかで、自分こそがまるで反社連中を牛耳っているかのような倒錯した気持ちを抱いて悦に入るのだから、こいつはこいつで、真正ピュア魂を持ちながらも、橋枝君同様に愛すべき真正のアホなのだ。
「僕も犠牲者なんだよ」
ラストのひと押し。橋枝君の頬には一筋キラリと光るものがつたう。橋枝君はなんとかよわよわしく首を縦に振るのがやっとだった。松永がうしろ手にドアを閉めて薄暗い廊下に出ると、ぬおおおお、という悲痛な叫び声が部屋の中から響きわたったのであった。
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