第3話 落涙

 痛みがない。

 あるはずの痛みが。

 代わりに。

 目前が遮られていた。それが、生命の一部だと、その表面の血管、毛穴、しわ、扉のように大きな掌だと、しばらく理解するのに時間がかかった。城壁のように厚い掌がすぐ目の前にある。

 掌から視線をその者全体に移すと、丸太3本分くらいある太い腕、茶色い毛に覆われたていた。人間のように立ち。その大きさは辺りの木よりも高く、目からは涙がこぼれている。

 大丈夫ですか、とキースが声をかけよってきた。

 「ああ……俺は大丈夫だ。キース、お前は……大丈夫なのか」

 「宿に行ったら、襲撃されたんです。もちろん、叩きのめしてやりましたよ」

 そう話すキースの右肩は血で染まる。

 俺の目から何かを悟ったのか「襲撃されている途中にアイツがやってきて少しだけ手伝ってもらいました。少し、僅か、そよ風程度ですけどね」とキースは巨躯の怪物を指さし付け足す。

 怪物を見ると、俺を庇ったその掌で、今度は村長を握り、宙に持ち上げていた。

「ああ、なんだこいつは、 くそ、あああ、ついてない、ついてないなあ。お前の妹を流行病ってことで葬り去るところまではよかったんだけどな」

 村長は掌から悪態をつく。

「い、妹は……病じゃないのか……殺したのか……」

「そうだ、王様の妄言のお陰で助かると思ったんだけどな、病ってことでな……もっとよく考えて殺せばよかった」

「どうして、俺の妹を殺したんだ」

 気づけば柄を強く握っていた。

「さあ? なんだっけ? 違う、違う、この怪物だよ。見ればわかるだろ? まだ、この状況なら、俺を殺してはまずいだろ? まさか、怪物の味方な――」

 村長は俺とキースのさらに後ろに焦点を合わせ、口を開け、石のように固まった。振り返ろうとしたその時。

「白状したらどうですか? そ、ん、ちょう、さん、兄さんが困ってるじゃなですか」

 背後から声が聞こえた。どれほど聞きたかった。声。二度と、聞くことが叶わないその声。

 振り返り、輝くような笑顔がそこにはあった「黒い服……似合ってる。かっこいい、だけど、誰か亡くなったの?」全身から力が奪われる。

 生きている、その言葉を口から吐き出すと同時に涙があふれた。

「あれ、泣いてるの? もう、あっちにいったら泣き虫になったのかな兄さんは」

 キースです、とキースが普通に挨拶をした。

「どうも。キースさん、兄がお世話になっています」

「え、いや、こちらこそお世話になりっぱなしです、はい」とやや早く口で答えるキースは最近見ないほどの笑みを浮かべている。肩を血に染めながら。

「どうして、お前が、切り殺したはずだ!」不愉快な声が響く。

「ああ、あれね、痛かったよ、死ぬかともった。でもね、ウルちゃんが助けてくれたの」人差し指が差すほうには村長を握る大きな怪物。

「ウルちゃん?」村長つぶやく。

 村長と俺は初めて同じ思考をしたかもしれない。

 「ウルウルいつも泣いているから。ウルちゃん。その涙の粒で私は傷が塞がりこの通り!看病もしてくれたんだよ」

 キースが驚いたようにいった。「だからか! さっきから肩の傷が楽になったのか! ウルちゃん涙のお陰だ。ありがとう」

 ウルちゃんはキースの顔をみて、頭を傾けた。

「お前には、何もしてない」とウルちゃんはしゃべった。

「なんだ、てことはただの気のせいで今も血が流れているのか」キースはため息をつきながら納得した。

「な、なんで、こ、こいつ、しゃべるんだ……怪物が……そ、そ、そんなものは迷信だ!」村長は目を丸くして唾を飛ばしながら叫ぶ。

 またしても、村長と俺は思考を同じくしたようだ。

「私が教えたの。私は教師を志しているので当然です」妹が不敵な笑みを浮かべていう。

「すごい」とキースがいう、妹は目を閉じ、うんうん、と頭を上下にふり、その評価を噛みしめているようだった。

 「こいつは森の動物……を殺していた、食べるためでもない、ただ、痛めつけて殺す」いっそうウルちゃんの目には涙が増えたようにみえた。

「そう……こいつが森で動物を殺しているのを私が目撃して……こいつは私を……」

 妹の目から涙がこぼれた。

「許せねえ、肩が痛くなってきた」そうつぶやくキースが一番泣いていた。

「お前は王直属の戦士だろ、勝手に人を殺すのはまずい? なあ? そうだよな? 妹も生きていたし、大団円、なあ! よかったあ」村長は顔を引きつらせながらそういった。

「ウルちゃん、食べていいよ」冷たく染みるような妹の声。

 俺が阻止する間もなく、大きく開いた口に、村長の体が運ばれる。

「ああああ、あああああ――」

 ドサッ。

 村長は地面に横たわる。

 気絶しちゃった、と妹は笑う。

 村長とウルちゃんの間に俺は入る。間近で見るウルちゃんはとても大きく、俺と手負いのキースでは歯が立ちそうになかった。それでも、キースとふたりでならと、倒せなくても動きを止めることぐらいならと思案した。

 キースに目で合図を送る。いない。

 キースは地面に倒れていた。

「ウルちゃん、キースさんの肩に涙お願い」

 うん、とウルちゃんは答えた。

 ウルちゃんがキースの肩に涙を注ぐ間、俺は妹に言葉を交わす。

「村長は、俺がきちんと処罰をうけるように中央に持っていく。必ず厳罰を受けさせる」

「兄さん……妹が殺されるかもしれなかったのに……王国の秩序のほうが大事? まあ戦士っぽくていいね」

「……た、頼……」俺は何故、剣の鞘に手を当てて頼んでいるのだろう。もし、妹が命令したら、ウルちゃんと対峙する将来を少しでも考えているからだろう。無意識に。

「いいよ。ウルちゃん、兄さん任せよう?」

「キィィィィススススウゥゥゥゥウウ」キースの肩に涙を注ぎながらの絶叫だった。

「うん。いいって……よ」

「あ、すまない」どうして、返事がキースだったのかは聞けない。

「ほ、本当に、ウルちゃんの……涙だけで命を取り留めたのか? 村長が死んだと思うほどの切り傷を……本当は燃えるように咲く曼珠沙華の力で……」

「内緒。女の子は秘密が多いんです。本当に存在したら争いが起きるでしょ?」そういって笑う。

「そうだよな……。あ、と、ウルちゃん……」俺は大事なことを忘れていた。

 ウルちゃんがこちらを向く。どうやらもう、キースには注ぎ終わったようだった。

「妹を助けてくれて、ほ、ほんと……にっうっ――」

「あ、また泣いてる」

「本当に、ありがとう」

「あ、ウルちゃんも泣いてる? 涙の量が増えた。二人は泣き虫だね」

「う、う、あ、」ウルちゃんが声を詰まらせていた。

「こんな王国一番の美人を助けられてこちらこそ感謝ですってこと?」

 妹が茶化す。

「うっう、キース強くなれえええええ!」森全体に木々が揺らすほどの大きなウルちゃん声が響いた。

 そのあと、再び、森には静けさが広がる。

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燃える曼珠沙華 猫又大統領 @arigatou

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