憎しみの炎
憎しみの青白い炎は木造船に火の粉を振りまき、乗組員
(許せない)
クロエは相手を探していた。さながら、空駆ける鳥類が地を這う昆虫を見つけ出そうとするように。
ムカデの国の姫は、父親殺しの男を生きて帰すつもりなどなかった。兜を通して、獲物を探し海底に突き落とすように命じる。
(許せない!)
乙女の命令に忠実なイルカたち。疑いなど挟みはしなかった。兜から出された指示は、それ即ち女王の指示。拒否などできない。
たとえそれが己の命を失うようなものであったとしても、だ。
「クロエ、もうやめるんだ!」
「離してよ、ダフニス。私はあいつを許せないの!」
体を押さえつけられるのに必死で抵抗するクロエ。この兜の力があれば仇を打てる。
私を心から愛してくれた父の仇を。
最期の瞬間。怖かったはずなのに、自分に最高の笑顔を見えてくれた父。
そんな父の死を殺した紫マントの男を、私は許せない!
ここで残りの寿命の全てを使ってもいい。あの男だけは逃がしてなるものか!
クロエの憎しみの炎は眼下の海に広がり、海上に浮かぶ
もし彼女がダフニスから制止されなければ、炎は海上の船を敵味方を問わず殲滅していただろう。
「ダメだよ、クロエ、もう戦いは終わったんだ」
「離して!」
滅茶苦茶に暴れて、ダフニスを振りほどこうとするクロエ。眼下の敵に向けて、喉が潰れんばかりに吠え続ける。
「あいつを、あいつだけは許さない!」
「もう十分だよ、クロエ! あれを見て!」
ダフニスに促され、クロエは西方の戦場をつぶさに見た。
そこら中に浮かぶ無数の遺体。今もなおイルカに抵抗を続ける敵兵。炎に巻かれまいともがく味方たち。
彼らの姿が乙女を冷静にさせる。
自分は父の仇を打ちたかっただけ。でも、それが海上にいる者全てを危険に晒している。現実が見えてくると、彼女は己の行いを恥じた。
「うわあぁ!」
クロエは自分が許せなかった。鼻を刺激する血の匂い、パチパチと燃える木材や帆、陽に照らされる剣や鎧。先の陸戦のことも合わさり、彼女は自暴自棄になる。額を地面に擦り付け、しばらくは動けなかった。
(壊しなさい)
兜から聞こえる声。それは以前のものとは違い、どこか晴々としたものだった。
(お前の罪は私が肩代わりする。自分を傷つけてはいけないよ。さあ、壊しなさい。私の遺志を。お前が悔やむことがないように)
クロエは声の指示されるがままに兜を脱ぎ、それを投げ落とした。
イルカ型の兜は瀝青の張った海に落ち、しばらくは浮かんでいた。やがて、
ボウッ!!
と数秒の間、兜は真っ赤な火柱を上げて激しく燃え
海を黒く染めていた瀝青が消え失せ、青く澄んだ海が姿を現したのだ。兜に宿った遺志が己と引き換えに、愛する海を浄化したかのように。
そして、この奇跡はクロエの憎しみも幾分か和らげてくれたようだった。
「ダフニス、ごめんなさい。私……」
ダフニスはそんな彼女を無言で優しく包み込み、しばらく丘の上で二人だけの時間を過ごした。
妻と悲しみを共有したいと考えて。
◇
脱出用の船団はその日のうちに南に針路を採った。イラクリスのある方角へ。
クロエはを探り、アケロンの髪束を一編みだけ発見できた。せめて、祖国に造る墓に何かを納めたいと思った彼女にとって、ささやかな
「お父様。どうか、メセニエス様のもとで幸せに暮らしてください」
乙女がぽろぽろと涙を流す。もう心に憎しみは湧かなかった。ダフニスが傍にいてくれたからだ。伴侶の力は強かった。
それを右舷から見やりつつ、ちょっぴり安堵したのはデメトリオだった。
(良かった。落ち着きを取り戻したみたいで。しかし……)
彼には大きな懸念が二つあった。
一つは王位継承について。
生前アケロン王は、自分の死後に王位を継ぐのはイアソンと定めていた。
「女王が君臨すれば、国に災いが起こる」
とお告げがあったので、国の存続を期すために双子姉妹を王位継承者から外していたのだ。
となると、先王の死により四歳のイアソンが王位に就くことになる。当然、幼い彼に政治などできようはずもない。これが一つ目の懸念点。
そしてもう一つ。こちらの方がよりデメトリオには深刻に思えた。
それは父の死をセレネに伝えなければならないこと。
彼にはセレネの対応が鮮明に予測できた。下手をすれば、自分を必要以上に責めて、自らを傷つけるかもしれない、と。
(いや、それでもあっしが伝えにゃいけねえんだ。陛下の知人として、あっしが)
陽は西に姿を消した。デメトリオ含め船に乗る人々の心は夜のように暗いままだった。月明かりもおぼろで、それが彼らの気持ちを一層暗くさせた。
その時だ。甲高い鳴き声が船団の周りで鳴り響いた。
「ピュイイッ!! ピュイッ、ピュイ!」
イルカの大群。彼らは月明りを背に浴びて、海賊たちに同行してくれた。それだけではなく、
「キッキイー!!」
サルたちも付いてきてくれたのだ。彼らはイルカの背に
彼らなりの和ませ方にミュリナの心もほぐれたらしく、
「あたいらがしょぼくれてても、しょうがないね。祖国が失われても、生きてりゃ希望が転がってるもんさ!」
と気持ちを切り替え、危険な夜の航海への不安を和らげることができたようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます