乙女の船飛び

「何が起こっている!」


「分かりません!」


 グラエキア海軍は大混乱に陥っていた。彼らに襲い掛かったのは猛烈な砂嵐と見失った海賊、それに


 ドガンッ! ダダダッ!


 ガレー船より少し高い位置から聞こえるその音は、人が出す足音のようだ。しかし、それが響くのは一か所ではなかった。


 西正体不明の足音。視界不良も影響してか、まるでおどろおどろしい化け物の出す音にさえ思えてくる。


「船に近寄るな! 化け物め!」


「撃て、撃ち落とせ!」


 兵卒のみならず隊長クラスの者までもが、音のする方に無暗やたらに矢を放つ。これが彼らの混乱に拍車をかける。


「敵襲だ! 応戦しろ!」


 とうとう船長を務める議員らが応戦を命じてしまった。こうなればパウルスの指揮など無意味だ。


「執政官殿! 矢が!」


 パウルスに向かって飛んできた矢が数本。そのすべてが味方からのものだった。彼は冷や汗をかいた。姿を見せぬ敵ほど恐ろしいものなどないからだ。


「この海域には化け物がいるのか?」


 砂嵐で分からぬ戦況。耳につんざく轟音。それはおそらく衝角が突き刺さる音だろう。続いて聞こえてくる斬撃。甲板に倒れただろう兵の出す音。そして、砂嵐が薄れるにつれて見えてくる「ムカデの旗」。


「おい、なんだありゃ?」


 ある海軍の兵士が、帆柱ほばしらの上に立つ女の姿を視認した。スカート上のチュニックに皮の胸当て、それに両足がムカデの胴のように真っ黒。


 セレネだった。


「ムカデの女王だ!」


「射殺せ!」


 兵士らはセレネを標的に矢を射る。既に彼女の仲間たちが友軍を屠っているのも構わずに。


「へなちょこ矢なんて、当たらないよ」


 セレネは「ムカデの足」を使って、器用に帆柱から帆桁ほげたへと降りる。そこから帆桁の端まで進むと、今度はすぐ隣の軍船へ、そして同じように帆桁を伝って別の船に……といった調子で次々と走り飛んでいった。全てが彼女のてのひらの上の出来事だった。


 視界不良の中で海賊が見えて、無暗に狭い海峡を通ろうとしたものだからグラエキア海軍の戦列は団子状になった。互いの距離も縮まり、そこにセレネが船に飛び移り――その船は不運にも、彼女が着地した衝撃で帆柱がへし折れ、数名の負傷者を出した――、


 これに敵兵が恐怖して矢を浪費したことで、今度は迫りくる海賊に撃つ矢が激減した。このことはパウルス率いる海軍には致命的だった。急速接近してきた彼らに飛び道具で応戦できず、かといって崩れた戦列となっては逃げられない。おまけに海流が北西方からの流れ――つまり、目的地とは反対方向に流れているから強行突破も困難だった。


(このままでは壊滅だ)


 パウルスは仲間の運命を決める選択を迫られた。


 徹底抗戦を命じて活路を見出すか。


 それとも、抵抗を止め降伏を全軍に通達するか。


 しかし、彼は選択を後回しにせざるを得なくなった。


「あんたが船団のリーダーか!」


 上空からの一撃。すんでのところでかわすパウルス。その目に映るのは、一〇代後半とおぼしき少女。白いチュニックを纏い、その上に皮の胸当てを付けたセレネだった。


 彼女の攻撃がパウルスの紫色のマントの留め金をはじく。マントが宙に舞う。


「ああ、そうだ!」


 パウルスは腰のサーベルを抜くと、異形の両手を持つセレネへと剣戟けんげきを放つ。


 今の状態では交渉などできそうにない。目の前の少女に対処せねば。


 パウルスの頭にあるのはそれだけだった。

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