幸せになる資格
クロエには海の香りがくすぐったく感じられた。
(セレネはいつも、こんな気持ちだったのね)
自分が王宮で姫としての振る舞いを学んでいる時、妹は大海原に繰り出している。いや、少し違う。
働けない父に代わり、血に塗れつつ戦利品を獲得していたのだ。楽しいはずがない。それでも……。
(私は海にいても、考えるのは嫁ぎ先の事ばかりだわ)
妹と同じ場所に出てもやはり役割は変わらない。それを思い知らされるクロエ。自然と暗い顔になる。
「クロエ様。体調は如何っすか?」
姫を乗せた船団五艘を率いるデメトリオが、クロエを気遣う発言をする。彼は人生初の航海となったセレネの姉を心配していた。というのも、
「クロエは船酔いをするから、定期的に島に寄港し休憩を取らせるように」
とアケロン王から指示されていたからだ。セレネと違い、クロエが船の揺れに弱いのをデメトリオは知っている。それで海賊業引継ぎをセレネに任せた、と聞かされていたのだから。
「いいか、クロエを絹みたいに丁寧に扱うのだぞ!」
出航前に伝えられた王の言葉。守らないとまずいのは明らかだ。
「クロエ様?」
デメトリオの左腕にクロエが抱きついてきた。具合が悪そうだった。
「少し到着を遅らせても……大丈夫かしら」
「吐きそうっすか?」
「ええ」
デメトリオは仲間の船に旗信号で「近くの島に寄るから続け」と下知した。クロエにとっては幸運なことに、さほど遠くない場所にイラクリスの船を泊めてくれる島があった。
◇
南をナクサス島、北をグラエキア共和国、そして、西をアケイオス半島に囲まれた多島海の勢力図は複雑だ。基本的に各々の島々が物理的に近い勢力と協力関係を結んでいる状況だった。今、彼らが航行する地域は南部の海域で邪魔は入りにくい。
一方、目的地のミュトゥムはグラエキアから極めて近くにある。直線距離にして八〇キロ程しかない。多島海最東部の島にある国にも関わらず、同島はナクサス島のイラクリスと「公に」同盟を樹立している稀有な国だった。それはどうしてか。
海賊女王テイテュスの最初の流刑地がレス島だったからだ。
彼女は元々、グラエキア王国の高貴な血筋を引く王族だ。その彼女が「不浄な行い」をしたとして国を追放されたのだ。西からの漂流者に手を差し伸べた罪で。
グラエキアでは太陽神ヘルメイアスが至上の神と崇められている一方、海の女神メセニエスは嫌悪されていた。海は不浄とされ、それに触れた者は「穢れた者」と見做される。
テイテュスがなぜ、穢れるのを承知で漂流者を助けようとしたのかは分からない。だが、その後の事実だけは伝わっている。
「レス島に追放されたテイテュスはミュトゥムを建国し、そこを海軍基地として開発しようと目論んだ。これは追放を決議した我が国の王族への復讐心からなされた行動に他ならない」
共和国の史書にある一節だ。その後、こうも
「彼女の目論見を知った我が国はレス島に侵攻した。ミュトゥム近郊で行われた激戦の末に、我が軍はテイテュスを捕らえた。その後、彼女が二度と復讐を企てられないよう、より南西の島――西の国アケイオスが『呪われた地』と称するナクサス島へ『二度目の流刑』に処した」
このような経緯から、イラクリスとミュトゥムは「女王の流刑地」という共通点でもって同盟を結んだのだ。
◇
「大丈夫っすか。クロエ様」
「うう……」
付近の島の港に泊まり、イラクリス船団は休息を取ることにした。期間はクロエの酔いが回復するまで。
おそらく、この時間は相当なものになりそうだとデメトリオは予測していた。それは隣で自身の手を取り、ぐったりしているクロエの様子から明らかだった。頭痛がひどいのか、彼女は開いている方の手で頭を押さえている。上陸の際にふらついていたから、めまいの症状もひどいらしい。
「ごめんなさいね、デメトリオさん。私のせいで」
「いや、気にしないでください。クロエ様は悪くないっすから」
デメトリオに気遣われても、クロエは俯いたまま。ふと、こんな言葉が彼女の口をついて出てしまう。
「海賊王の娘なのに海が苦手なんて……どうしてセレネと違うの」
「クロエ様。自分を悪く言わなくていいんすよ」
「でも、どうして!」
急に叫び出すクロエ。近くの乗組員らも彼女の方に目を向ける。
「どうしてセレネは自由に海を行き来できるの! どうして私はそうじゃないの! 私がメセニエス様に愛されていないから?」
「クロエ様、落ち着いて」
「お父様の言いなりになってる私と、呪いにだけ縛られてるセレネと、どちらが幸せだと思う? デメトリオ。答え――」
言い終わらぬうちに、クロエはデメトリオに強く抱きしめられた。これ以上の愚痴を言わせないための、彼なりのやり方だった。
「あっしに言わせれば、二人とも幸せ者っすよ。割れ物みたいに愛してくれる親父さんがいるんすから。あっしみたいな元奴隷よりずっと幸福っす」
デメトリオの言葉は嘘ではない。イラクリスに住まう者はほぼ例外なく、祖国から
デメトリオの言葉を耳にし、過去を思い出し涙ぐむ者がいた。よほど辛いことがあったのだろう。
クロエは自身よりもずっと辛い人生を送って来た彼らによって、自分の嫁入りを手助けしてもらっていることに気付いた。そして、
「ごめんなさい、わがままで」
と言ってすすり泣いた。そんな彼女を、周りの男たちは
「俺たちが無事に送り届けてやっからさ」
「僕たちの分も幸せになってください!」
ゴロツキ共の飾らない率直な言葉は、クロエの心に深く刺さり、そして元気をもたらした。
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