捨てられた聖域

 その日、セレネは王宮には戻らなかった。市内の酒場で仲間と飲み、歌い、ウードをはじき、銅鑼どらを叩いて騒ぎ続けた。


「姉御、いいんですか? 戻らなくて」


「いいんだよ。あんなクソ親父」


 セレネは飲み仲間にそう語った。本心を悟られないように。


「あんな……あんな」


 セレネは酒が回ってくると、父なりの愛について考え始める。


(本当は、あなたのことを愛しているのよ)


「んなことない!」


 頭に聞こえてくる言葉に思わず酒杯を卓上に叩きつけるセレネ。周囲の人々から奇妙な目で見られた。


「姉御?」


「ん、ああ。気にしないで。んだ」


「飲み過ぎたんじゃ?」


「そうかも。少し外を歩いてくるよ」


 場の空気をぶち壊したのを申し訳なく思い、セレネは酒場を出ていった。彼女の背中を不安げに見つめるならず者たち。


「あの、セレネさんは何か病気なんですか?」


 またまた例の若者が周りに質問。するとこんな返事が。


「呪われてんだよ」


「呪われてる?」


「ああ、嘘じゃねえぞ。姉御は……いや、姫様はんだ」


「姫様? 何いってるんですか」


「アレクサンドロス。お前はここに来たばかりで、何も知らないんだな」


「ええ。俺、そういうのはさっぱりで」


 アレクサンドロスという名の若者は、セレネと数年の付き合いがあった者から詳細を聞かされた。


 イラクリスの建国神話と歴史に名を残す女王の話を。



 陽が沈み、月が夜を支配する時間となる。夜行性のムカデは獲物を求めて動き出す時刻だ。


 木造のムカデはイラクリスの港を出航しなかった。乗組員の休息日になっていたからだ。この日に「海賊の領域」を通過するものは幸運だったろう。もっとも、夜間の航行は自殺行為だからやりたがる人はいないだろうが。


「テイテュス様、今日も参りました」


 イラクリスの南部にある標高一〇〇〇めーとるの山。そこにある朽ちた聖域に、セレネの姿があった。


 ひび割れ、崩れ落ちたままの大理石。柱のかすがいが外れたために転がり放置される円柱のパーツ。そして、色あせた玉座。宝石がめられていただろう穴には何もなく、寂しくたたずむ王の椅子。


 だが、一つだけ保存状態の良い遺物があった。それは壁面に描かれたフレスコ画。遥か昔に描かれた絵は色褪せることなく、セレネを見下ろしていた。


 まるで「私を見なさい。そうしなれければ、お前は決して許されない」と言われているかのように。


「何百回も見たはずなのにな」


 セレネは絵を見て詠嘆えいたんする。中央に描かれているのは革靴を履き、右手にサーベルを握り、黒いコートに身を包むブロンド髪の女性。頭上には王冠が被せられていることから王族で間違いない。


 フレスコ画の女性こそ、セレネが呟いた「テイテュス女王」その人。。そして、


 忌むべき存在の彼女に祈りを捧げるセレネ。彼女の息遣いだけが小さく響く。静謐せいひつな空間だった。


 コツッ、コツッ、コツッ。


 靴が立てる音。二人の人物から発せられたものだった。


「セレネ」


「そんな事をしても無意味だ。どうか、私の願いを聞いておくれ」


 声の主は、クロエとアケロンだった。

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