捨てられた聖域
その日、セレネは王宮には戻らなかった。市内の酒場で仲間と飲み、歌い、ウードをはじき、
「姉御、いいんですか? 戻らなくて」
「いいんだよ。あんなクソ親父」
セレネは飲み仲間にそう語った。本心を悟られないように。
「あんな……あんな」
セレネは酒が回ってくると、父なりの愛について考え始める。
(本当は、あなたのことを愛しているのよ)
「んなことない!」
頭に聞こえてくる言葉に思わず酒杯を卓上に叩きつけるセレネ。周囲の人々から奇妙な目で見られた。
「姉御?」
「ん、ああ。気にしないで。酔って変な声が聞こえたんだ」
「飲み過ぎたんじゃ?」
「そうかも。少し外を歩いてくるよ」
場の空気をぶち壊したのを申し訳なく思い、セレネは酒場を出ていった。彼女の背中を不安げに見つめるならず者たち。
「あの、セレネさんは何か病気なんですか?」
またまた例の若者が周りに質問。するとこんな返事が。
「呪われてんだよ」
「呪われてる?」
「ああ、嘘じゃねえぞ。姉御は……いや、姫様は呪いを身に帯びてやがるんだ」
「姫様? 何いってるんですか」
「アレクサンドロス。お前はここに来たばかりで、何も知らないんだな」
「ええ。俺、そういうのはさっぱりで」
アレクサンドロスという名の若者は、セレネと数年の付き合いがあった者から詳細を聞かされた。
イラクリスの建国神話と歴史に名を残す女王の話を。
◇
陽が沈み、月が夜を支配する時間となる。夜行性のムカデは獲物を求めて動き出す時刻だ。
木造のムカデはイラクリスの港を出航しなかった。乗組員の休息日になっていたからだ。この日に「海賊の領域」を通過するものは幸運だったろう。もっとも、夜間の航行は自殺行為だからやりたがる人はいないだろうが。
「テイテュス様、今日も参りました」
イラクリスの南部にある標高一〇〇〇
ひび割れ、崩れ落ちたままの大理石。柱の
だが、一つだけ保存状態の良い遺物があった。それは壁面に描かれたフレスコ画。遥か昔に描かれた絵は色褪せることなく、セレネを見下ろしていた。
まるで「私を見なさい。そうしなれければ、お前は決して許されない」と言われているかのように。
「何百回も見たはずなのにな」
セレネは絵を見て
フレスコ画の女性こそ、セレネが呟いた「テイテュス女王」その人。イラクリスの建国者であり、海賊女王。そして、ナクサス島が呪われた原因。
忌むべき存在の彼女に祈りを捧げるセレネ。彼女の息遣いだけが小さく響く。
コツッ、コツッ、コツッ。
靴が立てる音。二人の人物から発せられたものだった。
「セレネ」
「そんな事をしても無意味だ。どうか、私の願いを聞いておくれ」
声の主は、クロエとアケロンだった。
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